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今日は朝早くからたたき起こされ映画を観てきました、邦画初のアカデミー外国語賞受賞作品「おくりびと」です。それだけ話題になっている作品を旬のうちに映画館で観ておくべきだと思い家族揃って早起きして行ってまいりました。
感想は、もはや多くの言葉はいらないほど完璧な作品でした。当初は、マンネリ化したハリウッドの御家事情と本命とされたイスラエルの作品に対する政治的配慮の賜物かとも思いましたが、さにあらず、そんなうがった考えを吹き飛ばすに充分すぎる傑作でした。朝一の上映にもかかわらず売り場に行列が出来ていて大スクリーンが満員になりました、江別のワーナーシネマがこんなに賑わっているのは久しぶりに見たような気がします。
そしてこの映画には気持ちいいぐらいに泣かされました(T△T)
それが同時にあちこちでみんな泣いてずーずー言うものだからたまりません、、、いっぽうで随所に笑えるシーンが織り交ぜられいるので人の死をテーマにしながらも決して重苦しくなりません、それで笑う時も場内の観客がいっせいにワッと声を上げます(笑)
以前、映画全盛時代の映画館は作品と観客が一体となり今とは比べ物にならないほど熱気に満ちていたという話を聞いたことがありますが、今日の上映はそれを髣髴とさせるものがありました。本当に良い映画は観客を飲み込んでしまうほどの力を秘めたものだということを肌で感じることが出来た一日でした。
主演の本木雅弘さんは20代の頃にインドのガンジス川の沐浴に深い感銘を受け、その後、今回の映画の原作となった納棺師を題材とした小説に出会い、以来それを映画化しようと十数年間暖め続けてきたそうです。ぼくも遠藤周作さんの「深い河」を読んでガンジス川の沐浴の有様について知ることが出来ました、ガンジス川では聖地巡礼としての沐浴と生活の営み、さらに亡くなった人達の遺体の火葬および水葬などが同時に行われています。そういった人の生死と聖と汚れが混然一体となっているさまは、それらを見知る人達に大なり小なり衝撃を与えるものだと思います。実際にガンジス川を訪れ沐浴を体験する日本人も少なくないようで、それを体験してから人生観がまるっきり変わってしまう人もいるようです。
ぼくたちの日常感覚からすると死は遠く隔たったところにある事実であまり意識することはありませんが、ガンジス川におけるそういった生死の棲み分けを完全に取り払ってしまったような感覚からすると、人の死は生きる人の日常に限りなく近いところにあるということを否が応でも認識させられます。そこから人の死を直視することからしか本当の人生を何人も見出しえないという根底観念を見出すことができます。こういった根源的なメッセージを下敷きにしたからこそ、「おくりびと」はこれだけ多くの人達の心を無条件に打つ作品となりえたように思います。
作中に「人の死は誰もが潜らなければならない門である、それは終りではなく次へと続いていくものだ」というセリフがあります。死を考えるということは誰にとってもネガティブで忌まわしいことのはずですが、作中で主人公が汚らわしい仕事と差別されながらも故人を丹念に拭き清め送り出すことを繰り返す様を見るたびに純粋な感動が込み上げてきます。生きている人が例外なく約束された死から人生を見つめなおす、ここに人が本当に前向きな生き方を見出すためのヒントがあるような気がします。ひょっとすると、それはぼくたち一人一人の魂の深いところですでに知っていることなのかもしれませんね。
最後になりましたが、「おくりびと」が今までぼくが観た映画やドラマのなかで、他のどの作品とも違っていたことは、ふつう映画やドラマではどんなに純粋に感動できる作品でも、どこかでこれは役者の演技だからとか、創られた物語だからという感覚が片隅にあるものですが、この作品にはそういったものは全くなく、完全に役者と登場人物の区別も消えて、観る人もその世界に浸り全く違和感を感じなかったことです。やっぱりこれはどこか奇跡的な何かが働いた作品だと思います。
すっかり鉄道の話題が脇へいってしまいましたが、それはつづきにて→
今日は映画20世紀少年の第二部を見てきました、ひさしぶりに映画館で映画を見ましたがとても楽しかったです。第一部はテレビで見たのですが良く出来た映画ですね、原作の漫画はまったく見たことないのですが(漫画そのものをもう何年も読んでいない・・・)作品のスケール感とか、テンポやリズム感の速さなど実にハリウッド的です。それもここ数年来繰り返されてきたよくあるハリウッドチックな亜流作品ではなく、日本映画の風土を活かしながらハリウッド的スケール感で映画を作ることを完全に消化したような完成度の高い作品に仕上がっていると思います。
作品の内容は見てのお楽しみなのでここでは詳しく触れませんが、作品世界の設定はある意味見事だと思います。かつての90年代にオウム真理教が毒ガステロを起こして世間を震撼させましたが、その事件と前後して教団は選挙に出馬し政界に進出しようとしていました。時代が進んで2001年にはあの911テロがイスラム原理主義勢力によって引き起こされました、それからアメリカの対テロ戦争による力の正義が一時世界をそれ一色に塗りつぶしてしまったことは記憶に新しいところです。
たぶん、原作者はこれら近年実際に起こった事件から着想を得て、それらをつなぎ合わせてあの"ともだち"教団を設定したのでしょうね。カルト教団が現実よりもずっと大規模で悲惨なテロを起こし、それを緻密な計画に基づいて一部の勢力(主人公たち)に無実の罪を着せてしまう。それを足がかりにまんまと国民を騙して国を乗っ取り北朝鮮のような独裁者崇拝国家を完成させる、さらに宗教的終末思想を煽って世界中を牛耳ってしまうという筋書きです。
いっけん荒唐無稽な筋書きですが、実際にテロを起こしたカルト集団や原理主義勢力がもっと知的にかつ高度に組織化されていてさらに大胆な行動にでていたらという想定しうる最悪のシナリオに基づいて娯楽作品化したという感じです。もうひとつ注目すべきは、それら捻じ曲がったカルトイズムを生み出した土壌として1970年の万博を持ってきた鋭いセンスです。あの当時の科学万能、科学の進歩によって人類に不可能は無くなったというような高揚感が、その危うさとチープさも含めてそっくり後年のカルトイズムに引き継がれているという流れが作品であますところなく表現されています。それは誰もが信じて疑わなかった右肩上がりの万能神話とこれまでの時代そのものが一種のカルトイズムだったという皮肉なメッセージとして受け取れなくもありません。
そういう時代の中で良くも悪くも、少年、青年、中年と一貫して生きてきた主人公、20世紀少年たちが世紀を超えたモンスターとこれからどう戦っていくか、また作品中にちりばめられた数多くの謎がどのように結実して解き明かされるのかが見所ですね。第二部は第一部から最終章へのつなぎの物語ですから若干退屈で物足りないところは否めないですが、それゆえに今年の夏に公開される最終章への期待は高まります、今から映画館に見に行くのが楽しみです。
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発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」