忍者ブログ
北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




今までさんざん悪しざまに罵ってきたブツに呆気無く乗り換えてしまいました。


さすがの昭和後期生まれも新時代の趨勢には勝てなかったと言えばそういうことになります。


今日は少し言い訳がましい内容になりそうですが、一応のけじめとして書いておかなければなりません。



 
普段から昭和のアナログ党を自認する者として最も憎むべき、いわば最大の敵とも言えるものに、こうも簡単に乗り換えさせられるとは自分でも驚きです。

ガラケーが絶滅するまで使い倒すつもりでいましたが、とうのケータイ自体が限界を迎えたようです。





ガラケーの皮を被ったスマホであるガラホという選択肢もあったのですが、いざという時に鶴の一声で呆気無くスマートフォンに乗り換えることに決まりました(-_-;)

これまで使っていたガラケーのバッテリーの減りが異様に早く、ひどい時は満充電してから半日と持たずに電源が落ちてしまいます。

もともと中身のプログラムが不安定で、買ってから何度もサービスセンターとの間を往復し、バッテリーを新品に交換しても、しばらくするとまた直ぐに不安定になって元の木阿弥状態でした。

一方で、デジカメのブランドを冠したカメラ機能は大変優れたもので、エクスリム譲りのフォーカスロック付き物理シャッター搭載のおかげで時に動き物さえ撮れるという、並のデジカメと比べても全く遜色のないものでした。

普段使いのメモカメラとして重宝しとても気に入っていたガラケー最強クラスのカメラも、肝心要のバッテリーが持たなければ電話としても用を足さないので泣く泣く退役させることになりました。

どちらにしても機種交換は避けられないことは明白で、ではどうせ変えるなら思い切って今の人たちがフツーに使いこなしているスマホの便利さをあなたも経験してみなさいというお上の判断でした。

数日後には運命が急展開する事態が待ち受けているとは露知らず(大げさな)シルバーウィークの最終日に若干ヘトヘトの体調で隣町のK家電量販店のケータイコーナーで粛々と手続きを済ませてきました。

この時メインだったのは実は親父さんのほうで、仕事の関係で普段から二台使いしているガラケーの片方をメインと同じauに乗り換えれば想像以上にお得な料金でiPhone6に乗り換えられるというキャンペーン中で、それならば善は急げということで忙しい連休中に機種変更の手続きを済ませることになったのです。

そのついでに自分の不調なガラケーも一緒に交換と相成ったのでした。

この時の手続きの煩雑さはには閉口しました。

ガラケーの契約時の手続きの比ではなく、それぞれのプランのメリットとデメリットの説明に始まり、細々としたサービスの違いによる料金発生の違いや、様々な機能や特にセキュリティー関係の説明確認など、ありとあらゆるチェック項目が示された用紙に従って、一つも飛ばして省略することなく順番に潰していくというやり取りを繰り返し、途中で古い他社ケータイの解約手続きに予想以上の時間を要して全部終わる頃にはどっぷり日が暮れていたという有様でした。

こういう煩わしい説明が大の苦手な親父さんは早々に苛々し始めて、申し訳無さそうに説明を続ける店員さんとの間で気まずくならないように間を取り持ちながら、純粋なアナログ人間の親父さんにも分かるようにデジタル用語を通訳しながらだったので、手続きが終わった頃にはドット疲れた上に、それまでずっとやり取りしてきた店員さんとも妙な連帯感が芽生えて何かお互いに達成感のようなものさえ感じました。

夕食の時間も近づきお腹もすいてきた状態でゲンナリしながらお店を後にしたことを覚えています。

帰りの車中で親父さんと話したことですが、ケータイ電話たった二台を機種交換および乗り換えするために、これだけ煩雑で神経衰弱のような手続きを毎回お客さんが来る度に、一人ずつ最初から数時間かけて契約を結ばなければならないのは大変な忍耐を要する仕事だと半ば感心しながらも、オレみたいな昭和のアナログ人間にはとても務まるもんじゃないと感想を述べていました。

店員さんも手続きの途中で言っていましたが、かつて販売奨励金制度のもと0円ケータイをどこもかしこも投げ売りしていた適当な時代とは様変わりして、各種手続きのチェック体制は本当に厳しくなったと話していました。

これはガラケーの時代以上に、スマホの中にクレジットカード情報などの重要な個人情報が集積するようになり、ケータイ会社と利用者との法的な責任関係がよりシビアになったことが大きいように思われます。

システムから販売制度まで日本人が日本人の社会に馴染むように作ったガラケーと異なり、アップルのiPhoneにしてもグーグルのアンドロイドにしても、欧米人が欧米社会を始め世界基準に則った、利用者と企業のあらゆる関係を法的利害関係と契約関係と見なして雁字搦めすることで責任の所在をはっきりさせるという文化風土の違いによって生まれた一種の歪みだと思います。

ビデオの録画予約さえ満足にできない電子機器音痴の親父さんでも時代のトレンドにだけは敏感で、パソコンさえまともに触れたことがないにもかかわらず、本来は中上級者向けのアップル製電話にいきなり背伸びして立ち向かい今現在も悪戦苦闘中です。

かくいう自分も以前に導入したタブレットで経験済みとはいえ、最初に自分で行わなければならない各種機能の初期設定やID登録などを手順を間違えないように慎重に進めていたつもりでしたが、途中なぜか意図しない画面ロックモードの登録画面に進み、そうとは気づかずに気軽に設定を済ませると、今度はその通りにやっても画面が解除できなくなってしまい、緊急電話以外に全く機能が使えなくなってしまいました。
 


PR




今日の深く込み入りそうな独り言記事は、それでもあえて読んでみようと思われた方だけ読んでみてください。


夏の暑さが過ぎて、朝晩には早くも秋の肌寒さが感じられるようになりました。


かねてから準備を進めてきた小説作品の執筆を少しづつ始めていますが、まだペースは非常に遅く、作品としての形が出来るのはまだ先のことになります。

前回のように、多少の無理は厭わずに毎日コンスタントに書き続けることを義務とはせず、最初は週一から週二のペースで本当に少しづつ、ゆっくりと書き進めていきます。

日常の生活サイクルの中に小説執筆の時間を無理なく織り込めるようになるまで、出来るだけ心身の負荷を下げて、今でも決して万全ではない体調に配慮しながら無理のないペースでやっていこうと思います。

その執筆作業の合間にこうしてブログの独り言記事を書いています。


連日デモで反対が叫ばれている最中で強行採決される勢いの安保法案も、どこか現実離れした出来事のように静かな日常の中で生活できるのも、嵐の前の静けさの中のつかの間の平穏なのかもしれません。

多くの人たちがデモに参加するだけで世の中が変わるわけはないという意見や、今回の法案が通っただけで日本がそく戦争をする国になったり、徴兵制が復活するような事にはならないだろうという冷静な意見もあります。

過去の経験則からするとそのとおりとなるのですが、今、この世の中の情勢は、すでに過去の事例のパターンを繰り返すような時ではなく、明日にでも何か大きな変化を及ぼす出来事が起きても何らおかしくない状況です。

この国の大多数の人たちは、安保法案に反対であれ賛成であれ、そのどちらとも言えない中間であれ、積極的な戦争状態に自ら進んで行くべきだと考えているような人は一部の特殊な思想の人を除いて殆どいないでしょう。

これほどまで世論が反対しているにもかかわらず、国の法規の根幹である憲法を蔑ろにしてでも押し通す事態はもはや尋常とはいえません。

どこかで、そこまでやらなくてはならない緊急の状況が差し迫っているのかもしれませんが、一方で先の大戦で被害国となった近隣国に対して、日本の政権の意図する方向が決して日本国民の望むところではないということを、デモに参加したたくさんの人たちの行動によって国の内外に示すことができたことは決して小さな出来事ではなかったと思います。

70年前に空前の規模の戦争を引き起こし、同時に最大の被害と犠牲を蒙り、もう二度と再び同じ過ちは繰り返さないという誓いとともに、新しい憲法のもと永久に戦力と戦争行為を放棄すると宣言することで国際社会に復帰したはずの戦後日本が、どうして21世紀の今になって再び永久に捨て去ったはずの戦争に加担する国家に舞い戻ろうとしているのでしょうか。

また、なぜいとも簡単にそれを許してしまうような事態に陥ったのでしょうか。

戦争を経験した人たちが多く健在だったこれまでは、その悲惨な経験の一部始終を語って伝えることで、いかに戦争が酷く残虐な状況に人々を追い込むものなのか、それゆえに絶対に繰り返してはならない罪深き行為であることが、戦争の実態を全く知らない私たちのような若い世代まで繰り返し言い伝えられてきた一方で、なぜそのような戦争が引き起こされてしまったのか、その本当の理由がどこにあり、それは正確にどういった因果関係で為されたことかなのを積極的に追求し明らかにされること無く、戦後70年間の長きにわたってうやむやで曖昧なままにされてきました。

その結果として、常に戦争の悲惨さを繰り返し唱えて反対さえしていれば、日本は無条件にいつまでも平和のままでいられるという、都合の良い思い込みにとらわれるようになっていったのではないかと思われます。

戦争に反対するという意思を持ってデモに参加した人たちを批判しようという気持ちはありません。

むしろ多くの人達が戦争に断固として反対するという良識を示した行為は評価されるべきであり、そこに直接参加することのできなかった人たちの勇気ある代弁者であったと思います。

しかしそこにとどまったままで満足して、今この時期に起きつつある複雑な情勢の変化について、一人一人の理解を深めようとする次のアクションを起こすことができなかれば、かつて同じような主張を集団行動で示そうとした結果と同じように、本当の意味で世の中の流れを変えることはできないと思います。

アメリカの強力な軍事力と核の傘のおかげで、日本のこれまでの平和と繁栄が保証されてきたのだから、これからもそのやり方で安定した時代を維持し続けられるという考え方はもはや時代遅れの信仰と言わざる負えません。

地球上の様々な地域に軍事基地を擁し、全世界の4割以上の戦力を展開する名実共に世界最強の軍隊がアメリカの陸海空軍と海兵隊ですが、これらの軍隊を世界中で日夜活動させ維持していくための費用も桁外れに膨大なものです。

2001年9月11日の同時多発テロを発端に開始され今に続く対テロ戦争に費やされた資金も並外れたものでした。

これらの際限なく増え続ける戦費の負担を、もはや超大国アメリカ一国でも支えきれないほど膨張し続けています。

歴史的に、その国の潜在的な国力を上回るほどの軍事力を備えた国家は中長期的に徐々に衰退していくうえに、その戦力を実際に使用して戦争を引き起こした国や政権は必ず短期間で滅亡に至っています。

際限ない軍拡競争の末に鍋釜まで溶かして破滅的な戦争に自ら突き進んだかつての日本がその典型的な事例の一つです。

明治維新直後から、富国強兵のスローガンのもと当時の国際社会から莫大な額の借金をいきなり背負いながら、過去に前例のない短期間で産業の近代化を成し遂げ軍国化を推し進めた結果、日清、日露と大国相手の大きな戦争に立て続けに勝利し、今の感覚で言えばおそらくサッカーのワールドカップで日本代表チームが優勝した場合を上回るような熱気と高揚感で、当時のほとんど全ての国民がもはや負けなしの国になったとして有頂天になっていきました。

しかしその背景では、当時の欧米列強国のように戦争に勝利した暁として、膨大な利益を搾取できる大きな植民地を獲得することは許されず、その対価としてかかった戦費を賄えるほどの多額の賠償金も得ることが出来ませんでした。

その後の日本が国際社会のルールを逸脱してまでアジア全域で植民地を獲得する侵略行為に手を染める要因となりました。

一説によれば、帝政ロシア軍のバルチック艦隊を日本海戦で撃破した日露戦争に費やした戦費は当時の日本の国家予算の実に60年分にも相当し、その返済負担の苦しみは四十一年後の太平洋戦争の敗戦につづく国家財政の破綻の時まで続きました。

もともと望まないアメリカとの戦争に真珠湾奇襲攻撃で自ら宣戦布告せざる負えないところに追い込まれたのは、国際社会から逸脱したことに対する経済制裁として、日本が自活できない石油をはじめとする重要な資源の輸入と、主要な収入源だった民生品の輸出を封鎖されたことによる国家的な財政危機のためでした。

いかに当時世界最大の戦艦や高性能な戦闘機を保有していても、それらを動かす燃料が底をつけば無力であり、そうなってしまってからでは戦わずして負けを認めるほかに道はなくなり、それまで苦労して獲得してきた植民地や列強国としての高い地位も全て無条件で手放すことになります。

国家の面子と全国民の生命財産を天秤にかけた時、戦前の日本という国は前者を選択しました。

かつての日本が起こした無謀極まりない戦争の事例が示すように、古来から人類の歴史上、戦争が起こる要因の背景には必ず経済的な行き詰まりがあります。

借金につぐ借金の積み重ねによる返済不可能なほどの膨大な負債と引き換えに、どれだけ多くの命の犠牲を伴ったかは、先の世界大戦を始め歴史の有り余るほどの事例が示すとおりです。

国や地域が変わっても戦争が引き起こされる時の要因は根本的に変わることはありません。

20世紀初頭では最も近代的な憲法を定めて公平な民主国家を目指したドイツが急速にナチス化したのも、第一次大戦の敗戦によって課された当時のレートで100年たっても返せないほどの賠償金の支払い負担と、その後の世界恐慌に端を発した極度のインフレに見舞われたことによる全ての国民の生活困窮でした。

第二次世界大戦後、アメリカとソ連の両陣営が競って核軍拡競争を演じた東西冷戦も、国力と経済力で圧倒的に勝るアメリカを中心とした西側陣営に対して、もともと貧しい経済基盤しか持たない東側陣営において、際限ない軍事費の膨張に耐えられなくなったソ連が先に崩壊したことで終了しました。

当時、ソ連の首領を務めたゴルバチョフ大統領の決断によって、まだしようと思えば全軍を動員して戦えるうちに敗北を受け入れたことで、アメリカとの最終的な核戦争の勃発を回避しました。

この時、もしも経済的に追い詰められたソ連が最後の一手に打って出ていたなら、全世界は核攻撃の応酬に遭うという最悪の結末に至っていたかもしれません。

東西冷戦が終結したことで、この地球上で軍事的に並び立つ他の国が存在しない唯一の超大国となったアメリカは、ライバル国のソ連がいなくなったことで相対的にその強力過ぎる軍事力を段階的に手放していく必要がありました。

20世紀も終わりに近づいてきた頃、急速な戦後復興を果たして経済大国に返り咲いた日本を筆頭とする経済新興国の台頭によって、軍事産業以外の民間産業の優位さを失いつつあったアメリカにとって、世界一の超大国としての威勢を維持するために、その強力すぎる軍事力を手放すことができなくなっていました。

21世紀に入ってグローバル経済という言葉が一般的になるごく最近では、経済的なライバル国が日本からより大きな潜在力を持った中国に移り変わる一方で、アメリカは湾岸戦争以来、特に9.11テロを堺に戦争を拡大し続けることで、さらなる軍事力依存に歯止めがかからなくなっていきました。
      






今日の道新の朝刊にカシオペア、はまなすの廃止検討の記事が掲載されていました。


以前から予想されていたこととはいえ、あらためてその事実を突きつけられると、こみ上げてくるものは大切な存在を毟り取られるような怒りの思いしかありません。

北斗星、トワイライトエクスプレスは”老朽化”という伝家の宝刀を振りかざしなりふり構わず問答無用で切り捨てられてしまいましたが、日本全国、遠く海外からも大きな潜在需要が存在するにも関わらず、どうして更新のための費用を出そうとしないのか、もっと疑問に思うべきです。

ヨーロッパのオリエントエクスプレスを始め、世界の由緒ある伝統の客車列車は100年前の当時の客車を十分な修繕を繰り返して今も現役で走行しています。

エンジンやモーターといった動力源を持たないシンプルな客車は繰り返しの更新で非常に長い期間にわたって走行することが可能なのです。

もうかなり以前の話になりますが、2000年代はじめに青函トンネルを走行していた快速海峡用の50系客車が中国の遊覧鉄道用に輸出されるために、苗穂工場で整備を受けたことが道新の記事に載っていました。

この客車は残念ながら先方の都合でキャンセルされ、留置先の苫小牧港で解体処分されてしまいましたが、道新の記事においてインタビューに応えていた当時の苗穂工場の技術責任者の方が語った弁によれば、車齢の進んだ客車でも適切な更新修繕を繰り返せば最長で50年近くは安全に走らせ続けることが出来ると自信を持って語られていました。

それから十数年後の安全運行を揺るがす事態に至った経緯を考えると、この時すでに安全運行に必要不可欠な適切な修繕のための費用を、利益確保のためのコストカットという大義名分に流されるように削られ始めていたのかもしれません。

当時の技師長のインタビューは深刻化する内情を何とか外部の人に婉曲的に訴えるための苦渋の思いが込められていたのではないかと察します。

鉄道を一つの文化事業として人々の間で振興する姿勢について日本は諸外国に比べて一歩も二歩も立ち遅れているのが現状です。

ドイツ、イギリスなどヨーロッパの各国やアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの鉄道先進国では、各地に本線走行を行う本格的な保存鉄道がゆうに日本の数倍の規模と数で点在していますし、そこではSLや内燃電気機関車を始め多数の歴史的な客車も同時に保存運行され、その地域の近代歴史を伝える大切な文化財として、同時に外部から多くの人たちを呼び込める観光集客施設として活発に運営されています。

日本はかつて動力近代化を達成した1970年代に惜しまれながら引退していったSLたちを各地の公園などに大量に静態保存しましたが、それらの多くは後年に解体処分された一部を除いて今でもその姿を見ることが可能です。

そういった静態保存されたSLの中から動態復元された車両が今、日本全国の路線で運行され多くの人達を昔日の汽車旅の世界へ誘っています。

ところが、SL現役当時の歴史的な客車編成は単なる付属物として扱われたため、ブルートレイン以前の古い戦前から続く日本の鉄道独自の客車編成は、皇室車両のような特別に貴重とされた車両などを除いてことごとく大量に処分されました。

そして今、残されたブルートレインや平成生まれのカシオペアでさえなかば無用の廃棄物と見なされて最終的に処分されようとしています。

一般に歴史的文化財として認知されたSL本体よりも後ろに牽かれる客車のほうが遥かに希少な存在になっていることに一般の社会は未だに気付いていません。

SL以上に希少になっているといえば、SLを引退へ追いやった動力近代化の旗手である内燃電気機関車やその時代と地域を代表する電車や気動車も同様な状況で、本州では盛んに保存されるようになってきたとはいえ、そのほとんどは象徴的な先頭車のみの保存で編成単位の生きた状態で運行されている例はごくほんの僅かしかありません。

SL以外の歴史的な名車両の生きた勇姿を見続けながら時に乗車したいという多くの老若男女のニーズに日本の鉄道社会は十分に応えることが出来ていないのが現状です。

SLから電気、内燃へといたる動力機関車の進歩と、鉄道が走るそれぞれの国々の歴史と生活風土が密接に関わりながら反映した旅客車両の形態文化はそれぞれ対になる貴重な歴史文化遺産であるという認識が、アジア一の鉄道先進国であるはずの日本においてもっと今まで以上に根強く定着されることを望みます。
 
 
赤字を盾になりふり構わず田舎の駅を廃止したりSL観光列車を削減するなど、そして根強い需要や新たなニーズがあるにも関わらず、利用客の要望に応えることを一方的に放棄しながら発表された本州連絡寝台列車の完全廃止の検討ですが、その替りとなる北海道新幹線自体が大幅な赤字に陥る可能性や、JR東日本が運行する東北新幹線との収益分担が一体どうなっているのかなど、本当に重要な情報がことごとく隠蔽されてマスコミを含めてどこも追求しようとしないところに不信感が募ります。

経営の厳しいJR北海道とJR四国に向けて老朽化した設備を緊急に補修するために国の税金予算から積み立てられた総額で1,000億円以上の助成金によって、問題になった線路やコンクリートが剥がれ落ちる高架橋やトンネルは後回しで、災害で被災した路線の復旧工事にはまったく割り当てられず、もっぱら札幌都市圏と特急用の新型車両に投じられる現状にも激しく疑問を感じます。

JR北海道向けのみならず札幌市営地下鉄用車両など北海道新幹線も含めて神戸のK重工にほとんど全てに近い大量発注している実態などからも、老朽化した地方の鉄道のインフラを維持するというのは実は半分以下の建前に過ぎず、実際は特定の企業に対する官製の利益誘導と見なされても仕方のない在り様です。

来年の北海道新幹線開業後に在来線特急のスーパー白鳥用789系が大挙して札幌圏に転用される予定ですが、同時に札幌と新千歳空港を結ぶエアポートカムイから789、785系が撤退することで特急用電車の必要車両数がそのままでも余る計算になります。

785系の老朽化置き換えとして活用するという理由で今のところ落ち着いていますが、先日の青函トンネル内での異例の発火事故からも覗えますが、デビュー以来、海底トンネル内の高塩分の湿気にさらされてきた789系の方が電気系統の老朽化は著しく、一方で車齢が高いとされる785系の方は近年にモーターと電気制御系一式すべてを新型車両と同様のものに交換されているため、青函トンネルを走り続けた789系よりもかえって785系の方が状態は良好かもしれません。

狭い車内の特急用車両がいつも満員の空港連絡快速列車として無理に運行され続けていたことは問題ですが、785系や青函用789系の車内の座席を一部撤去して内装構造を大きく見直すなどして出来る限りの混雑対策を施した上で、停車駅の少ない快速列車用として活用するなど新車費用の抑制活用策は出来ないものなのでしょうか。

僅か3年ほどの間に同一系列の通勤用電車が100両以上一気に投入されたことはJR北海道においては発足以来いまだ前例のない規模の出来事でしたが、短期間に大量投入した車両群は今後15年先には一斉に電気系統の老朽化と更新の時期を迎えてしまいます。

一方で同じ時期に投入したより高価な北海道新幹線用H5系は高速走行による激しい摩耗と東京~新函館北斗間の長い走行距離により15年以内に早くも老朽廃車の時期を迎えます。

2030年前後の北海道新幹線の札幌開業時前後には老朽車両の大量更新と新幹線車両の増備と取り換えの時期を同時に迎える計算になりますが、これらに対応する財源の確保をはたして責任ある偉い立場の人達は今からちゃんと考えているのでしょうか?

同じ時期に大量に新車を導入することは将来的に一斉老朽化のリスクをもたらす結果になることから、既存の車両を更新しながら上手に長持ちさせて新型車両は小刻みに導入することで将来的なリスクを分散する計画は、同じく経営環境の脆弱な離島会社のJR九州やJR四国は長年に渡り実践していることです。

老朽化した古い車両を一度に数百両以上の単位で一斉に交換出来る鉄道会社は、首都圏を擁するJR東日本と国に頼らなくとも自前でリニア新幹線まで建設しているJR東海くらいなものです。

関西都市圏と山陽新幹線を擁するJR西日本でさえ地方のローカル線区を多数抱えていることから、新型車両の導入は慎重な計画に基づいて小刻みに行われ、第一線で活躍する既存の古い車両に対しては、社内でN40体質改善工事と呼ばれる古い車両を一旦全てバラバラに分解して新車同然にリニューアルするという大規模な延命更新工事を施すことでバランスのとれた車両導入計画をおよそ20年前から実施しています。

ひるがえってわれらが地元北海道の零細鉄道会社はエンジンやモーターが火を噴くまで使い倒され、まだ使う見込みのある車両でさえも、昭和年代に製造されてからほとんど一度も大規模なリフォーム工事を受けないまま可哀想なほどボロボロな状態になるまで走り通し、長年地域の人々と会社経営の両方に貢献してきたにも関わらず、また日本の鉄道史に残すべき歴史ある名車でさえも最後は廃棄物同然にあっさりとスクラップ処分するという徳の無い会社です。

まだ深刻な老朽化が始まる直前の2000年代に入った時期に、見栄で他のJR各社が羨むような高性能車両や奇抜なだけで実用性の全くない新技術とやらを矢継ぎ早に開発するのではなく、長距離特急用の負荷の大きい旧式エンジンを徐々に環境対応の小型低燃費なものに交換していたら、先日惜しまれながらも引退した赤い電車やそれよりも先にリタイヤしたL特急ライラック用の781系電車など、もしもJR西日本と同様に完璧な延命工事を施工していたなら、また一方で青函トンネル用の連絡特急を経営に格段の余力があるJR東日本の運行にすべてを任さて乗り入れ料金を収入源として新型車両導入コストを抑えていたなら、さらに北海道新幹線も自前の車両と運行設備を持つことを札幌開業時までお預けにして待つ勇気ある決断ができていたなら(せめて自前の車両を持ったとしてもJR東日本にリース貸出し扱いにして大規模な運行設備まで無理して揃えなければ)まだまだ人気と新たな需要が期待できる本州連絡寝台特急列車を廃止させず新幹線札幌開業時まで温存できていたかもしれず、あわや大惨事の人命に関わる脱線炎上事故や取ってつけたような理由ばかりで地方の路線や地域にとって大切な駅を無闇やたらに廃止しまくるような不幸な事態はまったく起こっていなかったかもしれません。


ここまで事態の経過を振り返ってみると個人的に言いようのない悔しさで忸怩たる思いですが、ここまで事態が悪化してしまった後では失ってしまったものたちを取り戻すには時既に遅過ぎて、せめてそこまで至らせた本当の要因と向き会わずに都合の良い言い訳だけで臭いものに蓋をしたまま放置させず、しっかりと因果関係を糾明してそこから教訓を導き出し今からでも悔い改めるべきものは改めて、同じ過ちを再び繰り返すことのないための善処が責任ある人達の手によってなされることを期待するしかありません。
 
大量に投入された新型車両と肩を並べて製造から20年以上を迎えた既存の車両も札幌都市圏の通勤輸送の第一線で活躍中です。JR発足最初期に投入された721系グループは電気系統の老朽化とデッキ付きの車内の混雑が弊害になっていますが、それらの改善工事が2000年代後半から徐々に始められましたが今は休止されたまま全く手を付けられていません。

札幌都市圏の寒冷地に対応した通勤輸送スタイルを確立した731系も目に見えて老朽化が進行している様子が素人目にも確認できる有り様で、これらの車両グループの老朽化が今後の安全運行の新たな障害となるような予感がして利用者として普段から乗車していて思わず心配になります。

これらの第一線で活躍しながら老朽化が進行している車両の修繕に相変わらず予算が優先的に回されていない理由は先に触れたとおり、単なる老朽化の修繕工事では車両メーカーを始め大企業の利益にならないからではないかと思われます。
 
聞きあたりの良い一聴して説得力の有りそうな、もっともらしい理由付けや大義名分による分厚い建前の壁の裏側で、うず高く積み上げられた利権の山から最大限の利潤を吸い取ろうとする政官財の癒着関係の影があまりにも色濃く見え隠れしています。


最近、最も世間を騒がせて今日になって取り下げた某パクリ疑惑ロゴマーク問題にしても、世界最高峰のスポーツの祭典という美辞麗句の建前の後ろ側で取り交わされるグレーな合意さえあれば、最終的に偽物であれ本物であれどちらでも良かったのではないかと思われます。

あの宇宙船チックな屋根の費用の問題にしても、奇抜過ぎるデザイン案を設計した世界的に著名なイラク人女性建築家の費用算定不足として片付けられていますが、本来の設計段階の費用の10倍近い額に水増しされたとして裁判になっているようです。

もうマークの問題にしても屋根の問題にしても利害の関係ない人たちの中から公募して、これ以上、尊敬に値するアスリートたちの競技に対する取り組みに泥を塗ってほしくないというのが多くの人達の率直な思いではないでしょうか。

専門分野の競技場の設計は建築家に任せるほかありませんが、ことマークに関しては大人の世界の小汚い利害関係が一切入り込む隙のないように、日本全国の小中学生に書いてもらったデザイン案の中から一般投票で選んだほうがより公平で良いのではないかと思われます。
 
今日のカシオペア、はまなす両寝台列車の廃止の報からオリンピック問題まで至った長ったらしいウンチク記事の最後に言いたいことは、余りにもキレイでご立派に描かれた建前だらけのハリボテ社会の表の顔と裏の本音のえげつないほどのモラルの欠如が人間社会においてごく当たり前の当然な習慣として、そうではないまっとうな大多数の人々によって無条件に追認され受け入れられてきたことに対して、もっと強く疑問の意識を持つべきではないかということです。

 
世の中が都合よく定めた建前だけの常識にただ従順でいることが成熟した社会人としての美徳のように信じているとすれば、それはあまりにも飼いならされた存在に成り下がってしまったということに、これまでしっかりとした信念を持って地に足をつけて生きてきたと胸を張れる人ほど気が付いてほしいと思います。
                       
               
           


 
 
単なる貪欲さだけで生きていける時代がもう間もなく終わろうとしています。


ひたすら貪欲に、あらゆる物質に数字だけの価値をかぶせて貪るように獲得してきた富の価値を、世界中のどこも誰も保証することができなくなるからです。

根拠の無い理屈の力で実体の無い価値を無限増産し、その一方で溢れかえるほど増殖し続ける富をこの上なく希少な価値あるものとして取り扱い続けることは明らかに相反し矛盾する行為です。

人間はどこか、そういった虚妄な行為に集団で耽ることに何か崇高な理念や夢を見続けていたようです。

世界の貧弱な実態を強くするためには足りないものが多すぎました。
 
地球上の全ての国々や人々たちが、信じてあてにしていた富の価値に裏切られる時、今の人間は身の丈のちっぽけさをもう一度思い知らされることになると思います。

個々人の人生や夢や理想を現実化させるための力は富にあるのではなく、その人一人一人の内面の奥の核となる純粋な意思の力によります。

富の世はそれら個々人が持つ力を巧みに誘導し利用してきましたが、何時頃からかその引き換えの交換条件として約束されていた人生と生活の安寧を保証することを半ば放棄し始めました。

古い富の世と人々の契約が今まさに切れようとしているのです。

富の没落と同時にむき出しの暴力が急速に台頭しようとしています。

失われた価値の報復として待ち受けているのは焼きつくす地獄の業火です。

自らの価値が否定され打ち捨てられようとした時、富が人々に対して返す答えがそれです。

今なら、まだギリギリ間に合うという安請け合いな希望を捨ててはならない時だと思います。

目前に迫る深い谷間を飛び越えて、無事着地を果たした先に拡がる新しい時代の大地は再び富の世であってはなりません。

人間が本当の意味で自立した精神の存在として起きるには、まだまだ長い道のりの過程が待ち受けているのです。

恒久平和の実現はその長い道程の一里塚であり新たなスタートに過ぎません。

一人一人が、物事に対する芯からの謙遜と自覚の上に、今は真剣に立ち返らなけらばならない時だと思います。

本格的な秋の到来を喜ぶとともに、世界に拡大する騒乱の火種を打ち消しながら、平和な新しい時代のサイクルが今度こそ本当に始まることを切に願って、夏の終わりの今日の独り言としたいと思います。
      
   




先日、夏の甲子園第一試合で地元北海道南代表の北海高校と鹿児島実業高校の試合がありました。

結果はあわやコールド負けかというほど大差の付いた試合でした。

序盤はリードする鹿児島実業を追いかけるかたちで打撃戦が展開され良い流れでしたが、五回に突如10点の大量失点を許してから試合の勝敗はほぼ決まりました。

まだ中盤なので残りの後半戦で総崩れにならないか見ていて心配になりました。

それでも気力を振り絞り集中力を切らさず最後まで戦い抜いた姿がとても印象的でした。

不慣れな甲子園の地で始球式直後の第一試合で強豪校相手に緊張が解けなかったのではとは解説者のコメントでしたが、たしかに試合直後からまるで練習中のように硬い動作のプレイが目立ち、本来の躍動するプレイが出来なかったのではないかと思われます。

負けがほぼ確定した試合を自分たちよりも格段に上の実力を備えた強豪チーム相手に戦いぬく心境はどれ程のものだったのでしょうか。

そしてその試合の結果を受け止めることも含めて、普通の人生の中ではほとんど経験できない精神的にかなりのタフな出来事として心に焼きつくような出来事になったことは想像に難くありません。

試合後になってもなぜこのような厳しい状況に直面したのかあれこれ勝手に思案顔でいたのですが、横で一緒に見ていた母がポツリと「これは一生の財産になる経験だね」といった一言を聞いて気が付きました。

よくいわれる負けることで本当に強くなれるという言葉の通り、負けることを知らないで本当に自分が成しえたい目標を達成することはできないということを、今さらながら思い出しました。

本当に自分の持っているだけの力では手も足も出ないほどに負けるという体験は、そこまで長い努力を積み重ねた上で、自分よりも強い相手やより困難な状況に挑戦しなければ得られないものです。

今の世の中の人間模様をつぶさに見つめていると、負けることを覚悟したうえで真剣に勝負に挑んで勝利や何らかの成果を得ようとする代わりに、いかに自分が負けないで済むか、自分が負けそうな状況を避けたり、他の誰かに勝っているように見せかけるための努力を真剣に追い求めている姿が見受けられます。

他の人に負けないための努力と、自分が掲げた目標を達成するために必要な課題を乗り越えるための努力は、あらためていうまでもないことですが全く意味の違う行為です。

人は負ける経験を通して色々なことを学びとり、他の人に負けないためではなく、本当に自分自身に打ち勝つことの意味も含めて、無駄なプライドと本当に必要なこだわりの違いを理解できるように成長できるものです。

ただ自分が負けないように務めることは簡単です。

自分が負けそうな状況を避けて他の人の劣った部分や正しくない一面を探して自分のほうが勝っていると思えばいいだけです。

自分が選択したどのような分野にも自分よりも優れた人間は沢山いて、その人たちと比べて劣っていたり負けていることはむしろ当たり前のことであって、そのことに悔しさや劣等感を感じたとしても何ら恥ずかしいことではなく誰にでもある一時の感情です。

「負けの悔しさを一度も知らない奴ほどつまらない」というセリフをよく聞きますが、自分が一度も誰にも負けていないことにこだわるエリート気質ばかりが肥大している若者が増えている気がします。
 
自分が他の誰かに負けたくない、見劣りしたくない、勝ちたいという強い傾向は若さを代表する原始的な欲望です。

そのような幼い願望に囚われているうちは自分本位の視野からしか相手や物事を見ることが出来ず、自分とは違う価値観や側面が相手にあることを認めることや、相手の立場から考えて思いやることも出来ないまま、自分の知らない部分を無視して一方的な判断や評価を下す傾向に陥ってしまいます。

本当の信頼感に基づいたコミュニケーションをとりたくても、内心ではお互いに偏見と対抗心を向け合うばかりで孤独と嘆くようでは本末転倒です。

人間は他の誰かや困難な状況に勝ったり負けたりすることを通してエゴを昇華しなければ、互いに成長できないよう半ば神様に宿命付けられているのかもしれません。

それらは自分にとっていらないエゴと幼さでしかなかったと気づいて認めることが出来た時、はじめて自分にとって本当にやりたいことが、同時にやるべき価値ある課題であり、自分の力で達成することが可能な真の目標に向かう道筋が見えてきます。

反対に、いつまでも他人の鏡の中に映る自分の影との競争や勝ち負けにこだわり続けると、自ら望むように必要とされる自分本来の役割を見出すことができなくなります。

そのいずれかを取るべきか、あるいは無視するのかを決めるのは他の誰でもなく自分だけの自由であり自己責任です。

こういった認識に早くにたどり着いた人間がその分野の自分のポジションでより早く頭角を表し花を咲かせることが出来るのは現実的に確かな傾向です。


昨日の試合は、あの球史に残る伝説の延長再試合決勝戦の時とはまた違った意味の感動と静かな気づきを与えてくれた名試合だったと思います。
 
 

 
 
 
PS)
戦国武将で最終的に天下を取った徳川家康公は幼い時分は今川義元の人質として明日の命運も分からない環境の中で育ち、織田信長と同盟を組んでから本来の領地を治めて一武将としてようやく再起と独立を果たした矢先に、戦国最強と謳われた武田信玄率いる騎馬武者軍団と自分の領地の目と鼻の先で一戦を交える事態となり、完膚なきまでに叩きのめされて命からがら城へ逃げ帰ったという史実があります。この時、上洛を目指していた武田信玄は先を急ぐためにすでに勝負の付いた若き家康との決着を避けて城の前を素通りしました。幼い人質の時代から家康を支えてきた家臣の多くを失い、いざ籠城戦となれば城を枕に討ち死にする他ない絶対の窮地だったことからも武田信玄の胸先三寸しだいで歴史は大きく塗り替わっていたのかもしれません。この時の自分の惨めな様相を忘れないために絵師にその時の姿を書き残させ生涯自分の目につくところに飾っていたという逸話が残っています。自分の負けた姿を直視することで天下人としての飛躍を果たしたという有名なエピソードです。ホトトギスの三歌で形容される三大天下人の性格の対比ですが、こと自らの負けに向き合う立ち居振る舞いについて比較してみるのも一興かもしれません。最初に天下に王手をかけた信長公は若い時分は織田家の跡継ぎ争いに巻き込まれ親兄弟からも命を狙われる立場にありました。そんな境遇からか自分が負けることはそく誰かに殺されることを意味するという強い強迫観念が生涯離れることがなかったと言えそうです。人間五十年の辞世の舞に象徴されるように皮肉にも本能寺の変で抱いていた不安の通りの最後を迎えてしまいました。太閤秀吉は貧しい農民の出で信長公の草履取りから出世を始め、その容姿風体から猿とあだ名され自らも戯けて見せていましたが、内心では誰からも見下されることのない天下人まで上り詰めてみせるという強烈な野心の持ち主であったことが伺えます。秀吉公にとっては相手に負けるということはそく自分の方がへりくだらなければならないことを意味し絶対に認めることのできないことだったと思います。常に先手を打つことで相手の切先を制し勝ち続けることで天下を手中に治めましたが、天下を治めてからの晩年は自分の死後の恐れからくる迷動と周囲からの吹聴に惑わされて甥の秀次を切腹に追い込み些細な意見の相違から盟友であった千利休を死罪に処しました。死期が近づきますます死後の不安に苛まれるようになると、再度の海外挙兵を周囲の反対を押し切って強行する最中で没しました。二人の天下人は負けることへの恐怖=死への恐れに最後まで打ち勝つことが出来ないままこの世を去りました。家康は秀吉の死後、すぐに天下を手中に治められる立場にありましたが、豊臣家がゆっくりと衰退して自ら崩壊の道をたどるまで待つことが出来ました。これは自分が負けるということをしかと受け止めることが出来た人間にのみ見られる特有の行動原理だと思われます。自分の内面の見栄や恐れなどの感情にとらわれず一切を切り離して見ることで現実の大局を見誤ることなく必要な対処が出来たということです。ハタチ前後の若い時分にこういった史実のエピソードをドラマや小説作品を通して知り得たことで少しでもその偉大な生き様と教訓にあやかりたいと憧れたことを思い出します。
          
          
          




今日はあるブロガーさんの記事で紹介されていた身近な地域医療の話題から始めたいと思います。

既に一昔前の騒動として記憶されている夕張市の財政破綻問題ですが、その時にあらゆる分野の行政サービスが縮小される中で特に問題視された分野の一つが市立病院の診療所への格下げでした。

地元ローカルテレビ局や地方新聞紙、全国ネットの報道番組でも定期的に取り上げられ崩壊しかかった地域医療をどのように支えて維持できるか、その現場の奮闘を様々な番組や紙面の特集で取り上げられたことを記憶しています。

最近は、特に大震災以後は全国的な注目を集めるほどの社会問題として報道されることは少なくなりましたが、地元ローカル報道では選挙戦のたびに一定の注目を集めているようでした。

不徳にも、最近の夕張市の現状について半ば意識の中から遠ざかっていたというのが本当のところで、今日のブロガーさんのリンク記事を偶然目にして財政破綻した夕張市の現状の一端について知るところとなりました。(参考リンク)

最盛期の1/10以下に人口が減少しているとはいえ、四方を山地に囲まれて近隣の自治体の医療施設に頼るには地理的に離れすぎている夕張市で中心となる医療施設が小規模な診療所しかない現状に驚きを禁じえませんでした。

そうであっても上の参考リンクの記事を全て読んでいただければわかると思いますが、とうの住人の生活の様子は外部から想像されるほど悲観されるものではなく、むしろ住人一人一人が病気予防と健康維持に対して自主的に取り組むことで、医療機関にかかる割合が減少し医療費、病気による死亡率共に全国の自治体で唯一減少に転じているという逆転の成果が生じています。

現実に起こる出来事は実際にそれが起きてみなければ何が幸いするかわからないということだと思います。

現状では悲観ばかりされる少子高齢化と過疎化社会の現状も、見方や受け止め方を大胆に変えてみることで、見逃されていた何らかの分野で予想外の好転や改善がまだまだ可能になるのではないでしょうか。

記事中にも日本の深刻な財政難に触れられている箇所があり、総額1,200兆円にも昇る返済するあてのない国の借金と、今後生まれてくる新生児一人あたりの借金が8,300万円にもなるという衝撃の試算についても述べられていましたが、これらの問題を根本的に解消するためには、例えば日本全国をいったん夕張市の財政破綻のようにリセットする他ありませんが、そうせざる負えなくなる前にも自治体レベルやその中で暮らす住人一人一人の生活の中でも出来る自己防衛と対策はまだまだ沢山あると思われます。

このまま行けば、国の借金の利率があと2%ほど上昇しただけで一年間の税収よりも借金の元本の返済と利払いのほうが上回り事実上の財政破綻にいたると言われています。

そもそも国の借金というものは必ずしも実態に即したものとは言えない側面があり、例えば国が年間の予算額のうち新たな借金として計上した分を国債を発行することで事実上新たな現金を世の中に創造することになるのですが、この分の将来の返済にかかる元本と利払に対して、すでに返済された納税額+利子をそっくり国庫に戻して精算してしまうという荒療治の可能性も全くないわけではありません。

素人の浅い知恵からの考えですが、ある意味で過払い金払い戻し制度の国家版のようなものが今後必要とされるかもしれません。
 
それに近い例はごく最近でもヨーロッパのいくつかの小国の破綻例にも見られますし、最近世界を賑わしているギリシャの破綻問題にしても、最終的には国の内外の借金をチャラにした上で諸外国からの新たな支援と投資を元手に一から国内の経済と国民の生活の再生を目指す方向にあるといわれています。

却ってそうなってしまった方がEUから課せられた先進国級としての重すぎる負担から開放されギリシャ国民の生活はもっと楽になると指摘されています。

しかしそれが小さな国の財政破綻のように簡単に行えない要因はEUに加盟していることが大きく、ギリシャ一国だけを救済した場合、同じように財政に仇しているその他のもっと大きな国々でも同じように救済しなければならなくなり、そうなればEU全体の財政が立ちゆかなくなり潰れてしまうからです。

日本の場合も財政破綻問題は決して一息で解決できる生易しいものではないことは明らかです。

中国に追い越されたとはいえ、かつては世界で二番目の経済大国までのし上がった曲がりなりにも先進国ですから、その累積された借金の総額もギリシャとは比較にならないほど大規模なことは今さら説明の必要のない事実で、いざ現実に破綻処理が実行に移された場合、事実上他の国々からの救済はその規模の大きさから期待出来るものではありません。

近い将来に財政破綻後の厳しい破綻処理と国内経済の再生の過程に入った場合、70年前の終戦直後のドン底の混乱に比べたらまだ恵まれた状況ながら、すべてを自力で再生しながら超高齢少子化社会に適応できる全く新しいコンパクトで持続可能な経済社会を一から作り上げる方向しか道は残されていないでしょう。

かつての戦争を戦いぬいた末に敗戦を迎え経済の国家的な崩壊を経験した後に今の平和な社会と時代が築かれたように、その平和であるはずの現行の社会体制がにわかに再び戦争に向かう方向へ傾きつつある最中でも、最終的には財政破綻の関門を避けて通ることはいかなる秘策を持ってしても出来いことから、そう遠くないうちに完全な終焉の時を迎えるでしょう。

明治維新以降、富国強兵の国家的スローガンのもとで驚異的に短い期間で欧米と並ぶ軍事力を備えた列強国となり相次ぐ戦争を引き起こした末に敗戦を迎え、戦後はなりふり構わぬ高度経済成長を推し進めて経済大国にのし上がった先進国としての見栄とプライドと遺産をいったんそれら全てを手放す必要に迫られています。

しかし過去の栄光に過ぎない実質的に無価値なそれらを失うことを惜しんで現状を最後まで引きずり続ければ、最終的には見えない外敵から国を守るための防衛戦争という虚栄に満ちただけの無益な選択しか残されていない、哀れな落ちぶれた過去の国として周辺の国や世界中の国々からも見捨てられ無視されるようになります。

世界的にも信用創造による際限のない負債の無限増殖に実体の経済の収益が全く追い付いていない現状に完全に行き詰まりつつあります。

それでも一度この困難な関門を通り抜けることが出来れば、大きすぎる国家的な負債の負担と投機的市場経済システムの余りにも不条理な自己増殖的な弊害と投資家のエゴから全世界が開放され、ほとんど全ての国々とその経済が息を吹き返すことになるでしょう。

新しい時代とその中で当然のこととして営まれる社会はエネルギーも金融経済もより自給自足に近い地域主体の形態が取られるとする予測が一部のネット上で盛んに発言されています。

急速に普及しつつある太陽光発電や風力発電に加えて、大きな発電所や送電網に頼る必要のない燃料電池式発電プラントシステム、食用植物に頼らない効率的な生産を可能とするバイオエタノール、最近では水耕植物の成長の過程から生じる化学反応から電気を得る全く新しい発電方法がオランダで開発され既に実用化されているというニュースも目に止まりました。

これらの既に実際に実用化されている新技術を組み合わせるだけで原発や石油に全く頼らなくてもよいエネルギー自給自足社会と一人一人の新しいライフスタイルの生活が確立できてしまうのです。

その大きな可能性と希望を阻んでいる最大の要因と存在は、既存の強力な経済力と軍事力を背景とした古い覇権国家主義と、金融、軍事、市場、石油等天然資源、電力エネルギー、医療、食品、情報通信など重要なインフラの全ての分野を手中に収めて独占することで、世界中の国々の政治経済と国民一人一人の生活を牛耳りたいとする国際的な大企業カルテル連合です。

世界はすでに相次ぐ国家的財政破綻後の現行経済制度の崩壊を見越して全く新しい経済と社会の成立を目指して漸進している最中です。

世界的な財政破綻の連鎖の末に訪れる現行の市場経済体制の中途半端な立て直しが一切不可能な歴史的な大崩壊を経てようやく新しい未来型のライフスタイルによる新時代がスタートできるようになります。

無から有を生み出す信用創造による詐欺的な錬金術に依存した古い経済体勢と、その結果である財政の負債借金まみれの無限増殖地獄からの脱出が今後の世界にとって最大の懸案事項となるでしょう。


 
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
ご来客数
ブログ内検索
プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
最新CM
[03/29 鈍行翼]
[03/29 北海道鉄道観光資源研究会 永山]
[07/14 鈍行翼]
[07/13 Mori]
[09/17 鈍行翼]
[09/13 神山卓也(リンク先は「美唄鉄道旧東明駅訪問記」)]
[10/15 鈍行翼]
[10/07 チョッパ]
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
最新トラックバック
忍者ブログ [PR]