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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今日はいまいちコンディションが悪く、気持ちはあってもなかなか創作作業が進みません、、(_ _;)


いつものことですが、山の天気のように体調や気分が変動するので心身ともに疲れてしまいます。


そういった状態でも無理に押し通せば何とかならないこともないのですが、それも一時で、しばらくすると体にその疲労の蓄積が現れて全身のだるさや免疫力低下のせいで炎症が現れたりします。(去年はそれで歯が3本抜けました・・・泣)


なんだかよくわからないうちに身を削ちゃってますが、そうまでしても完成させて残したいメッセージがあるから頑張っています。(それはもう好きとか嫌いとか楽しいとかいう問題を通り越しています)


もうそうなってくると突き進むしかないんですね、魂の至上命題というやつです。


それでも自滅したらそこでおしまいなのでギリギリの線で持ちこたえられるように調節しながらやっていきます。


それで十数年頑張って来ましたから大丈夫です。


これからも牛歩のごとく日々邁進していく所存でございますm(_ _)m


話はかわりますが、相変わらず世界中で大きな災害が絶えませんね。


日本の国内でも断続的な地震が相次ぎ今日も九州で記録的な大雨が続いています。


そういった光景を見るたびに思うことですが、これからの日本は災害や自然環境に対してもっと適応した超防災自然調和型社会を目指すべきだとせつに願います。


日本の技術力ならそれが十分可能なはずですが、訳の分からない政治や経済の”お約そく”に足を引っ張られて一向に良い方向へ進まないことが何とももどかしく思えてなりません。


日本という国は古来から自然の猛威と向き合わざる負えない国でした。


歴史的大災害に見舞われるたびに、それまでの社会構造が状況に適応できずに崩れ去り新たな社会構造を形成して乗り越えてきたという歴史の積み重ねがあります。


なので現在の情勢を大局的に判断すれば大丈夫なのですが、これからまさに現代の日本の社会は大きな正念場に入ろうとしていることを感じさせます。


こういった時期を歴史上幾度と無く繰り返してきたのでしょうが、その中で日本の皇室が公式見解では2000年以上続いてきたのは、大昔からそういった自然の猛威を祈祷の力で封じ込める役割を担ってきたからだと言われています。そういった歴史的背景を持つ国は地球上他に見当たらなく、日本という国が世界でも特殊な性質を持つ国である一つの証左となっています。(礼賛という意味ではありません)


つまり日本人のアイデンティティの中に自然や災害と向き合って折り合いをつけるという独特な精神性が深く根付いているということです。


ところが明治以降、西洋近代化を果たし、科学文明全盛の現代に至る過程で日本人が古来から持っている自然に対する深い精神性は薄れて行きました。


こういった傾向と今の大災害の頻発する状況を安直に結びつけるつもりはありませんが、これからの日本の社会がこういった自然の猛威に無理なく折り合いをつけて安全で豊かな社会を構築するためには、西洋的科学文明だけに頼らず、今の日本人が忘れかけている古来からの自然崇拝精神を思い起こし、そこから新たな視点でビジョンを構築していく必要があります。そして、そのような変化を伴う時代は必ず近いうちにやってきます。(そういった変化は水面下の見えない領域ですでに始まっているからです)


非常識領域の話に少しだけ触れれば、世の中で生きている人々の意識と自然環境の状態には見えざる相関関係が働いています。つまり、人々の心が荒れれば自然も荒れ狂い、逆に自然が荒れれば人々の心も荒むのです。そういった関係性を昔の人達は生活の中の知恵や無意識の思考の中で知っていました。なので人心が荒れ始めると人知れずそのことをいさめ導く人たちが現れて人々の心の状態を回復することに努めました。ところが現代の科学文明に染まりきった人たちは残念ながらそういったことをほとんど忘れかけています。(日本とは不思議な国でその中で暮らす人々の思いや社会全体の想念が昔から他国に比べて自然環境に反映しやすいお国柄です)


大昔の京都の都では陰陽師や密教の僧侶が加持祈祷で天変地異や政変を沈めようとしていましたし、それよりもっと大昔では卑弥呼のようなシャーマンが国のトップとして君臨していました。地方の農村地帯でも氏神を中心に祭って豊作や天候の安定を絶えず願っていました。こういった人間の想念の力で自然環境や社会の情勢の安定をはかろうとする行いは、文明社会以前の非力な願望と思われがちですが実際には効力を発揮しうる有効な政策でした。


そういったシャーマニズムを現代にそのまま甦らせるわけには行きませんが、そういった行為の根本の意味するところを普遍的な価値観として取り入れていくことが求められています。自然を征服しようとする発想から生まれた西洋科学文明は、たとえそれがどんなに優れた成果をあげられるものだったとしても、それだけに頼っていては自然の猛威と向き合いながら共生しなければならない時代には対応できません。


もう一つ非常識領域の話をすれば、原発の問題は放射能や事故のリスクだけではなく、原子の崩壊から発生する不自然で荒い波動が発せられることで、微弱な電気的波動でバランスが保たれている地球全体の自然環境に対して、現代の科学ではまだ認識できない未知の弊害を及ぼしている可能性があるということです。


原子力エネルギー利用は物質の定型的最小単位とされている原子同士をぶつけあい崩壊させることで生じる膨大な熱エネルギーを取り出すことで成り立っていますが、こういった原子が急激に崩壊するという現象は地球上の自然環境では普通に存在しないものです。つまり原子の崩壊という急激で荒いエネルギー波動が絶えず放出され続けることで、何らかの影響を様々な対象に与えているかもしれないのです。


こういった波動エネルギーといった話を持ち出すと現時点ではオカルト領域の問題とされてしまいますが、今後の科学の進展によって非常識から常識に変わる可能性は十分にありえることだと思います。いま先端物理科学の世界で素粒子やヒッグス粒子など原子よりもはるかに小さい物質の最小単位を探し出すことに注力されていますが、もしこういった地球を透過するような粒子に十分な質量が確認された場合、その粒子の流れには必ずエネルギーが生じているわけで、そのエネルギーは何らかの波形を持っているはずです。そういった波形どうしの関連性を客観的に観測することができるようになり、いくつもの法則が発見されればこういった領域も決してオカルトではなくなります。


ここからは本当にオカルトな空想話ですが、原発の核分裂から生じる荒くネガティブな波動が自然環境のリズムを狂わせ、気候変動に拍車をかけていて、その自然環境の中で社会を築き生活している一人ひとりの人間の脳や神経に流れる微弱な電気信号に悪影響を与えて、人格形成に何らかの影響を与えたりウツなどの精神病や不定愁訴、自律神経失調症や自己免疫疾患などにつながっているかもししれなく、知らない内に多くの人々が心身のコンディションが脅かされていて社会全体の状態が悪くなっていくというような99.9%こじつけ論もその可能性までは全否定出来ないと思います。


この先100年後くらいに波動エネルギーと地球環境との関連性が客観的に解き明かされていたら、人類が20世紀から21世紀にかけて原発を世界中くまなく建設していたことに対して、なんて無知でおぞましいことをしていたのかと、その頃の人たちに思われているかもしれません。


そして個人的な直感ですが、原発から出る荒くネガティブな波動は人間の想念に確実に悪影響を及ぼしているような気がしてなりません。これはたぶん、ぼく個人だけではなく多くの人たちが何となく感じ取っていて、だからこそ反原発デモにあれだけの人たちが馳せ参じているのではないかと思います。それはおそらく福島のような状況に対しての懸念や目先の主義主張ではなく、それぞれの人達が魂の奥底から湧き上がる疑問や気づきを求めて行動を起こした結果だと思うのです。


何にしても脱原発が達成されれば日本の社会全体が新しい一歩を踏み出せるのは間違いありません。


最後に技術的な展望を話せば、今から速やかに原発依存から離れられる技術はほかでもない日本で開発され、すでに市販されています。


灯油や天然ガスから水素を取り出し発電と給湯を同時にできる家庭用燃料電池システムがそれで、これが普及すると各家庭で9割型自家発電することが可能になり、今のように電力会社の送電網にすべて依存する必要は無くなります。またガスか灯油さえあれば発電可能ですから新たなインフラの建設も必要ありません。そうなれば計画停電も無くなりますし災害時の停電にも飛躍的に強くなります。(唯一燃料電池システムの駆動のための外部電源が必要ですが、これはリチウムイオンバッテリーを用いたバックアップシステムを取り付けることで解決できます)


ついでに言えば、今さかんに設置が進んでいる風力やメガソーラーからの発電分も、電力会社の所有する送電網の容量不足を理由に制限されていますが、家庭やオフィスビルなどで燃料電池システムが普及した分で空いた容量を使えばよく、ちまたで言われている送電網の新設コストの問題も同時に解決できます。


残るは燃料であるガスと灯油の調達の問題ですが、ガスについては世界中で液化天然ガス(LNG)資源が発見されているので容易に安定供給が可能ですし、灯油やガソリンなどの石油資源についてもオーランチオキトリウムという藻から大量にバイオエタノールを生成する技術が早けらば10年後に実用可能と言われていますから、夢のエネルギー自給自足社会がすぐそこまで来ています。



かなり長くなりましたが、そのような理由でぼくは日本の未来に対してまったく悲観していません。


そのような進んだ未来を掴み取るためには、やはり一人ひとりの想念の力の結集が必要不可欠です。そして、そのためには日本人が古来から持っている自然の中で生かされていることに対する感謝と畏敬の念を思い起こすことが重要だと思います。本当に長くなりましたのでこのへんでキーを止めようと思いますm(_ _)m




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昨日のいじめについての記事に続いてもう少しだけ話そうと思います。


いじめの根本にあるものは他人の不幸を願う人間なら誰しもとらわれがちな邪心です。



自分がその矢面に立って苦しむのは嫌だが、他の誰かが苦しむ姿は見ていて楽しい、自分が手を汚すのは嫌だが誰かがアイツを潰せばせいせいする、自分がいい思いをしていないのに他の誰かが楽しそうにしているのは見ていてムカツク、一生懸命頑張って努力してるヤツら早くコケないかな、リア充死ね、とにかく自分の気に喰わないヤツらはみんな不幸になってしまえ~((((;゚Д゚))))



これらは毎夜丑三つ時にぼくが心の奥底で念じている願望です・・・って違いますヨ(^_^;)



悲しいことですが人間なら生きている間にこういった醜い思いに幾度となくとらわれるものです。


ただ、こういった醜い思いにとらわれそうになったとき、抗って抑えることが出来る人とそのまま素直に従ってしまう人の違いがあるだけです。


抗うといえば、昔から南無阿弥陀仏とかアーメンとか断食とか苦行といった祈りや儀式が欠かせなかったのは、人間のこういったどうしようもないサガから生じる想念を絶えず打ち消してリセットするためでもあったのでしょうね。


いじめというのは子供が成長する過程でだんだんと自我が芽生えはじめるにつれ、こういった醜い想念も湧き出すようになり、それをコントロールして抑制するだけの人間性を身に着けていないために直接行動に出してしまうことで起こります。


そこからいじめる方もいじめられる方も憎しみと自己嫌悪の悪循環が生じて止まらなくなってしまうのですが、ここでいの一番に教えなければならない人生の絶対的法則があるのですが、それは常識の範疇にはないために教育としてしっかり教え込まれることのないまま成長して大人になってしまいます。


その絶対的な法則は大人になってからも、むしろそれからのほうが幸せな人生を送るためには必要不可欠な認識です。それをほとんどの大人は知らないまま、あるいは何となく知っていても曖昧なまま生きているために、世の中から陰湿な行為がいつまでも減ることがありません。


その法則とは、一言で言えば自分の放った想念は自分に必ず帰るというブーメランのような法則です。


これは邪な思いと清らかな思いに関係なく、悪い想念は悪い結果として、良い想念は良い結果として、寸分の違いなく公平に帰ってきます。


こういったことを知識で知っていても、なかなか信じられないのは、その因果関係と結果を定量的に観察して証明することが難しいからです。


また、自分の発した想念と行動の結果が帰ってくるまでに時間の差が生じるため、本人の視点からでは直接的因果関係を見極めづらいといったこともあります。


そして、こういった法則を信じることが出来ない一番のズレは良い結果 or 悪い結果の判定が本人にとっての良し悪しの感覚と法則の判定基準が異なっているためです。


極端な例ですが「あの人が死んで欲しいからわたしは沢山良いことをしてきました、なのにあの人は死んでくれません」と言ったところで、そのような因果関係が成立するはずはないことは誰でも理解できますね。


つまり、法則の良し悪しの判定基準は自分本位な良し悪しではなく、誰にとっても変わらない普遍的な基準によってなされるということです。


このズレが分からない限り、人間は自分の行いの結果の善し悪しを的確に判断することができません。自分が良いことをしているのに良い結果が訪れているとは思えず、また悪い行いの結果にもかかわらず良い結果が訪れていると思い込んでしまうのです。


すべては自分本位な基準からいったん離れて普遍的な立場から判断することなのですが、ではその普遍的な基準とは何かを説明するとなると一冊の哲学書ができそうなのでここでは軽くしか触れません。


それは、すべての関係しあう者どうしが互いに活かしあいより進化成長できるような方向に向かえる判断をすることです。これはそのように考えて判断すべきといったものではなく、この地上のすべての存在の関係性に働く見えざる絶対的法則です。つまり簡単に言ってしまうと、誰かが無理にそうしようとしなくても自然にそうなっているという法則なのです。


この法則を理解して物事を判断し行動するかしないかで結果に雲泥の差が開いてきます。これは知る人ぞ知る古今東西の万能の法則なのです。⇐ちょっと胡散臭いなぁー(;´Д`)


いじめや邪心の問題に戻りますが、つまりいじめた方の想念と行為はいずれ必ず本人にそっくりそのまま帰るという見えない絶対法則がこの世には働いているということです。


これはいじめられた人間にも等しく当てはまり、それにより植え付けられた恐怖心や復讐心が後々まで影響してしまいますが、その心の痛みから生じた慈悲心でやがて救われていきます。大事なことは、いじめた方の人間の心情を客観的に理解することで、その人たちにたいする憎しみや復讐心を手放していくことです。憎しみや復讐心から離れ去ることができた時、最後に心を縛っていた恐れから解き放たれ真の意味で自由な心を手にすることができます。(ゆえに相手を裁く必要はないのです、裁こうとする気持ちを持ち続けるとかえって遠回りすることになります)


いじめた人間の方はもっと大変です。絶えざる自己嫌悪との格闘です。それは自分がいじめた人間の苦しみと同じ分だけ苦しむまで続きます。第三者や社会が許してくれてもその苦しみは続きます。自分の心はすべてを知っていますし、その自分の心が自分自身を許せるようになるまで苦しみ続けなければならないのです。



ここで邪心から人を貶めたい人が知っておかなければならない事実があります。


その想いと行為で望みどおりその人を貶めたとしても、それが有効なのは三割だけで残り七割はそっくりそのまま自分自身を貶めることにつながります。


この7:3の法則から逃れられる人間は一人もいません。


貶めたと思った相手が倒れているのは一時で、上に書いたように自分の心を癒して救うことさえ出来ればすぐに立ち直って以前よりも強く立派な人間いなれます。ところが貶めた人間は違います。本当に自分の良心が許してくれるまでずーと長い間苦しみ続けなければなりません。これが昔から地獄と呼ばれてきたものの真相です。


こういった見えざる法則と事実を最初に知っていれば誰もいじめなどという損な行為はしなくなるはずです。


そしてぼくたち生きている人間に必要なのは、やましい心が生じることを阻むことよりも、そのやましい心に対して抱く憎しみやこだわりを捨てることです。そうすると、そういったやましさはほんの一時で過ぎ去っていきます。



かくして心だけは今日も清々しくあれるのでした~(^_^;)



それだけじゃダメじゃん⇐(´・ω・`)






深刻なイジメ問題は周期的に現れてくる傾向がありますね。


根深い問題ですから根本的なことは何も言えないのですが、周辺の認識のズレについて少しだけ書いておこうと思います。


そもそもいじめは人道的にあってはならない問題ですが、学校という大昔から変わらないシステムと環境の中では必然的に起きてしまう問題でもあるのです。


多くの生徒を一つの箱のなかに収容し同年齢の集団40名ばかりを一束にして絶対的権威である教師が管理し成績をつけて上下の順位をつける。一日、5、6科目を一時間ごとに区切って意識を切り替えさせながら暗記教育に向かわせる。その結果を定期的にテストで反復実習させる。そういった環境の中で1年365日(-休日)、小、中、高、12年間という長い期間、同じ内容を繰り返しながら大人になっていくわけです。


それのどこかが悪いということを指摘したいわけではありません。


こういった学校教育の仕組みがどういった経緯で、またどういった意図を持って作られたのかという根本が忘れられていることが問題です。


上に書いた学校教育のあらましは何かの組織にとても似ていると思いませんか?


その組織は軍隊です。


日本の現代の学校教育は明治時代の始まりとともに西洋社会から輸入され、それまでの寺子屋教育に取って代わられました。


西洋社会において近代の学校教育制度が作られた目的は強い常設軍隊を持つために、優秀な兵隊になれる素養をすべての子供達が身に着けて社会に出すためです。


今でも校庭や体育館で全体集合する時や体育の授業などで、起立、着席、回れ右などをさせるのは軍隊教育時代の名残です。


細かく比べるとわかりますが、小、中、高の12年間、義務教育だけでも9年間、学校という狭い檻の中で集団生活をさせるのは、そういったストレスに慣れさせることで同様なストレスに晒される軍隊生活に備えるためです。また、同じ年齢の者どうし1クラス40人前後の集団で一人の教師という関係は、軍隊に小隊単位の上官と部下の関係です。学年の上下は階級制と年功序列です。


成績で上下をつけるのは結果を競わせるためと落ちこぼれた時の罰と見せしめに対する恐怖を植え付けるためです。一時間ごとに細かく区切って違う内容の勉強をさせるのは、様々な状況にすばやく反射的に切り替えて対応できることと、軍隊における様々な役割と技能を効率良く身につけさせるための準備です。暗記教育が主体で繰り返しテストで反復させるのは、自分で思考する過程を省いて命令に対して求められる行動を反射的にかつ的確に行えるようにする訓練です。そして均質な能力と価値観を備えた人間を大量に社会へ送り出し続けることが最大の目的です。


こうして比較していくと学校教育制度がことごとく軍隊制度と結び付けられて生み出されたことが分かります。


つまり、個性や創造性を大事にしようとか、一人ひとりが考える力を身につけるとか、他人を思いやる気持ちを持つといった理念は全部後付けなんですね。


日本の場合は第二次世界大戦に負けてから軍隊は解散して戦争する必要は無くなりましたが、均質な能力を持った人間を大量に生み出して社会に送り出すという学校教育システムの効用は、そのまま強い国内産業を育成することに流用されて今日までほぼそのままの形で存続してきました。それが今ここに来て国内産業が後退し世の中の情勢や価値観が大きく変化したにもかかわらず、教育制度だけが軍隊制度を下敷きにした旧態依然としたまま今日もひたすら均質な人間を生産し続けてるわけですから、そのミスマッチが最大化しているということが問題の根本にあるわけです。


ただし、ここで教育論を振りかざして今の教育が悪いからどうにかしようと言う気はまったくありません。


たぶんそういった教育制度の矛盾を意識した革新的な教育制度を目指した取り組みはこれまでも沢山あったでしょうが、それらはどれも実験レベルで終わったでしょうし、その中には極端な理想主義に走ってその理想とは程遠い結果に終わったものも多いはずです。


なので現行の教育制度の是非については、それは必要悪でしかないというとりあえずの結論で止めておきます。


それで話をいじめの背景に戻しますが、これについても軍隊制度との比較である程度説明できます。


その萃点は軍隊にいじめは必要不可欠で、いじめが多い軍隊ほど強い軍隊になるということです。


よく戦争映画などで命をかけた男たちの友情と絆が美しく描かれていますが、全部ウソではないにしろその背景にある陰湿さはほとんど描かれていません。


今でもそうですが、軍隊でいじめやリンチが絶えない理由はその過酷なストレスゆえではなく、味方の中で常にそういった陰湿な行いを繰り返すことで、わざと人間関係に不協和音とクサビを打ち込み互いに不信感と憎しみを抱かせるようにして、それを戦闘中に一気に敵にぶつけさせるためです。


もし、味方同士が信頼関係を築いて仲良くなってしまうと、敵を目の前にした時わざわざ敵を殺そうという気は起きなくなりますし、自分たちの居場所の環境が良すぎると敵地に向かって攻め入る気持ちが萎えて逃げ出したくなります。


そのようにして軍隊という組織はとことん人間を非人道的かつ自己中心的な方向へ向かわせるように作られたシステムなのです。


そいった軍隊システムと瓜二つの仕組みを持つ現行の学校教育制度は、はからずもいじめや人間不信を子供たちの人間関係になかば自動的に生み出してしまう病理を抱えているのです。


そして軍隊制度の中で生じる様々な陰惨さと同様の性質が子供たちの人間性の中に転写されていくのです。


教育に関わってる人たちや両親、子供たち自身のうち誰もいじめや人間不信を望んでいないのに、仕組み自体がそういった結果をもたらすがゆえに、いつまでも負の連鎖を断ち切ることが出来ないというのが現代の教育制度がもたらす悲劇です。


戦後、非人道的な軍国主義教育から人道的な教育へ向かうために様々な理念や理想が被せられましたが、根本は軍隊教育時代の仕組みのままであり、どんなに強い理念を打ち出してそこに向かおうとしても、やはり元からある仕組みの力が勝るものなのです。


長い時間の経過とともに仕組みの本質よりも被せられた理念にしか人々の意識が向かなくなっていることが問題の深刻さに拍車をかけています。


その仕組が悪いからといってすぐに新しい仕組みに変えることは不可能ですから、そいいった根深いジレンマが内在していることを理解した上で対処するしか無いと思います。


本来、人を幸せにするためにあるはずの教育制度が、最も人を不幸にする制度と同じ仕組で成り立っているという矛盾を解決することは残念ながら簡単なことではないようです。





PS)
いじめや子供たちの人間関係に限らず、かつてその教育によって育てられた大人の社会や人間関係でもこういった教育制度の影の影響を色濃く反映しているように思われます。表面的にはいろいろな理想や理念が語られる一方で、本音では自分の利益ばかり追いかけている大人が残念ながら大多数ですし(大津の教育委員会のオヤジどもの弁解を見ているとまるで旧日本軍の参謀本部を見ているような気がします)やたら競争心ばかり強い人間や、比較と優劣で勝ることばかり望んでる人間や人の目ばかり気にして評価ばかり求めている人間、そして自分や他人の命の重みを感じられずいとも簡単に損なうことができる人間など、すべてとは言えなくとも、それら普通に見られる大人の有様の中に現在までの教育制度が長年生み出してきた悪弊の影響を強く感じさせます。かつて中学生どうしが戦争して殺しあうという非常に暴力的な設定と描写で話題になった深作欣二監督の「バトルロワイヤル」という映画がありましたが(暴力的すぎて一度も見たことはありませんが)戦争と中学生を結びつけたという視点はこういった学校教育制度が内在する軍隊的な性質を婉曲的に指摘したものかもしれませんね。いずれにしても、このままでは教育される人間も教育する人間も、かつてされた人間も幸せになれませんし、そういったすべての人たちの集合意識で成り立っている社会全体も幸せになれないのは必然の道理です。




※教育制度の功罪の”罪”の方に着目して書きましたが、同様に功の要素も多分にあることも忘れてはいません。






正しさについて思いついたこと


共通の正しさというものは本当は存在しない。


法律や社会常識のように、人間の社会において共通の基準としておかなければ立ち行かなくなるもの以外、誰かにとっての都合であり限定的なものであると思ってもいい。


つまり、人それぞれの立場や状況、段階に応じて見えている正しさは違うということだ。


物事は複雑な無限多面体だとみなすことができる。


それについて一人の人間が見れる範囲はせいぜい数面程度で、すべての面を見極めきれる人などいない。それができればもはや神である。


だから知っておかなければならないことは、人によって物の見方、受け取り方は決定的に違うということだ。


それも、その人の自由意思と判断によるものよりも置かれた環境や条件によって規定された価値観のほうが強いのが普通だ。


だから自分と異なる価値観を持った人間の考え方を理解しようとするとき、その人の価値観そのものよりも置かれた立場や環境、状況などから推し量ったほうがすんなりと理解できるものだ。


そして、あらゆる人の主張の中で、そういったことを理解して踏まえたうえで語られえたものが最も客観性のある意見である可能性が高い。


では、そういった主張や情報を受け取る側に必要な客観性とは何か、それはその主張の正しさ如何に着目する以上に、その主張が触れていない外部の側面や関係性に視野が及ぶかどうかだ。


正しい主張や情報を、それだけを信じてつなぎあわせて自分の価値観としたところで、異なった視点からの異なった性質の情報を継ぎはいだだけの、まったく整合性のない代物になるのが道理だ。


おおよそ客観性というものを持ちづらい理由は物事の是非にしか視点が及ばず、その物事の性質や内外との関係性にまで理解が及ばないことによると思われる。


そして、自分の思考の中で一貫した整合性のある価値観を構築する場合、物事の多面的な性質と関係性を理解した上で、それらを矛盾なくなめらかにつなぎ合わせる強固で靭やかなストーリー構築力ともいえる能力を身につけるべきである。


正しさは常に誰かの視点によって決まる、自分の視点と異なった視点による事物の側面を理解して内外の関係性にまで理解が及んだ時、誰にでも適応される平均的、共通の正しさという幻想の檻を打ち破ることができるのだ。



今日は文章の体操でした(^_^;)





人間は大雑把に二種類に分かれるそうです。


自分の心の中で思うことに責任を持とうとする人とそうでない人です。


本当は人間を区別することはいいことでありません。またそれを理由に裁いたりするべきでもありません。


でも現実社会では、こういった見えない領域の問題でストレスを感じている人は多いものです。場合によっては不幸な結果をもたらしかねない人間関係が見落とされていることもあります。


意識が進んだ人や本物の信仰心を持っているような人はほとんど気づいていることですが、人間にとって本当に大事なことは表面的に整った体裁や他人からの評価ではなく、むしろ他人からは一切見られない自分の心の内面のあり方だということです。


こういった意識を持って生きるということは、自分自身に大変厳しい自己評価基準を課すということです。


人間はそういうことが分かったからといっていきなり清い心になれるはずもなく、庭に例えると絶えず茂る雑草を日々狩り続けるとか、またレンズで例えると気づかぬうちにカビが生えて悲鳴を上げながらアルコールで拭きまくるなど、日々自己の内面と葛藤するという修行状態になります。


なんだかんだ言っても、やっぱり人からよく思われたいという欲はありますし、自分の何かが評価されて注目を集めると気持ちがいいものです。


そういったところまで厳しくジャッジしてしまうとヘタをすると自己嫌悪に陥ります。


それも度を越すと知らぬ間に歪んだ意識を他者に転嫁してブツけているということにもなりかねません。


ようはバランスが大事ということなのですが、ここでも大事なことはやはり心の内面を中心にとるか表面の行いと他者の評価を基準にとるかという選択です。


後者の基準で生きる最も大きな間違いは、自分の心のなかで思うことが他者には何ら関係はなく、また見られて知られることもないし、ゆえに恥ずかしくもなく損することもなく、逆にいくら心でいいことを考えたり思ったりしても何の得をすることもないという意識に陥ることです。


さらに他人と比較することで自分はそれほど悪くない、もっと悪くて醜い人はいくらでもいるとか、人間なんて化けの皮を剥げばみんな自分と一緒みたいな逃げ口実や正当化をはかったりします。


でもこれは本当は損なことなんです。


昔からの哲学にすべての現実は人間の思いによって創られる、ゆえに人間の思い次第で現実を良くも悪くもできるという考え方があります。


これによればよりよい心の状態を保てば自然に良い状況が自分に訪れます。


反対に心のなかを雑草ボーボー状態の荒地にしているとそっくり同じような状況が自分に訪れます。


つまり運気も自分の思い次第で創り出せるかもしれないということです。


そして現実社会の中では稀ですがそういった厳しい意識で自分を律している人たちがいます。


そういった人たちはまずオーラが違いますし、有名無名、外からの評価の高低も関係ありません。


そしてもうひとつ現実社会の中で見落とされがちな偉人たちが存在します。


それは自分の心にとことん正直なありのままの自分をさらけ出しながら生きている人たちです。


自分の心をありのままにさらけ出すということは、美しさ以上に醜さがまさる人間の本性を表に出すということですから人から好かれたり高い評価を得られないことのほうが多いものです。


そういった人たちの中でも一握りですが、そのことを恨まず憎まず他人に転嫁せず、ただ受け入れて生きている人たちがいます。


こういう人のことを昔の例えで隅の親石といい、これにつまずく(ないがしろにする)ことは神様からバチが当たりやすいと言われてきました。


元来、人はみな他人との人間関係を円滑に運んで高評価を得られる能力に恵まれているわけではありません。


人はみな自分が持って生まれた力量と条件の中でベストを尽くす他なく、たとえ乏しい中でも活かし切ることが修行であり人生の目標となっている人たちが沢山います。


そういった生き方をとおして自分の内面の乏しさを満たし醜さや未熟さを昇華していくことが人生です。


だからどんな人も馬鹿にしてはいけませんしそれが心にかなったことです。


それに反して、自分の心と向き合わず他人の評価と整った外面ばかりを求める生き方は人の意識からそういったことを簡単に忘れさせます。そして自分の醜さも他人のそれで埋め合わせをしたり自己正当化をはかることで帳尻が合わせられると勘違いします。


でも人間は自分の心だけには嘘はつけません。


すべては自分の心が覚えていますし、そこから逃れることは出来ないものなのです。


結局はそういった自分の嫌悪から逃れるために意識をそらすばかりにエネルギーを使い、知らない間に刹那的な人生を歩むことになってしまいます。


心をないがしろにして生きると最終的にその人自身が一番不幸で損をするようにできているのです。


聖書の物語の中でイエスはこういった人たちを表面は白壁のごとく美しいが中身はガイコツと言って激しく非難するとともに嘆き悲しみました。


結局、イエスはそういった人たちに十字架にかけられて、不本意ながら身を持ってそういった人たちの過ちを示すことになったわけです。


どんな聖人や救世主でも他の人の心を変える力を持っているわけではありません。


自分の心を変えることができるのも、その結果に責任を持てるのも自分自身しかいないということです。


真の自由とはそういったことを意味します。






う~ん、昨日あたりで約1/3くらい書き上げたのですが、いよいよハナシの核心部分に至るというところで迷ってしまい立ち往生しています。


こういう時は悩み立ち止まることも過程の一つですから、別に深刻に考えすぎることはないのですが・・・。


最初にほうにも書きましたが、この文章は心から書きたくて書いているものではなく自分の頭の中でつっかえている塊を一旦外に置きたくて書いているものです。


なので、読んでいて楽しいものではありませんし書いていても正直疲れるだけで時には苦しくもなります。


ならば書くのを止めるのも手なのですが、その決定は最後にするとして、たとえ全て書き終えても内容を見なおした上でお蔵入りするかもしれませんし気がすんだら削除するかもしれません。


ぼくはこのブログで書いている独り言をそのまま多くの人に読んでいただき広めたいという意思はまったくありません。


やはりその目的は自分の本分である小説を通して伝えていきたいものです。


それでもなぜ今書いている文章を手放せないかというと、その内容が期せずしてこの現実社会の知られざる実像をつかんでしまっているからです。


それは他のネット上で発信されている主張や情報に比べて特段深くもなくセンセーショナルで衝撃的なものでもありません。


ただ、ぼくの書いている文章の内容が他のもっとスゴイことを書いている人たちの文章と何処が違うのかというと、文章に色気があるとかそういうことではなく(最初からないねorz)ごくフツーの常識的思考の範疇で、もっと平たく言えば新聞やニュースで言われてる出来事や言葉の組み合わせだけで、現時点でほとんど誰も気がついていない世の中の矛盾の核心をあらかた説明できてしまうことです。


それは決してわかりやすい上手い表現とは言えませんが、物事の流れを読める人ならばすぐに腑に落ちると思います。


なら早く書けばいいじゃんと心のなかのコビトさんが囁いてきますが、それでもなぜ乗り気になれないかというと、現時点でそういったことを解き明かそうとしてみたところで一体何の意味があるのかということです。


もともとこのブログで自分の考えを世の中に広めようなどという意思は全くないので、そもそもが99.9%意味のないことなのですが、それでもその結果について考えてみると、仮にぼくの文章を全て読んで理解してくれた人がいたとします、ぼくの文章がその人にとってはたしてどれほど良い影響を与えられるかというと、多分良い影響はほとんど与えないだろうと予測できます。


ハッキリ言って世の中の矛盾の構造の核心を理解できたところで、自分自身でもそれを何とか良くする方法はないものかと考えましたが、理解が深まれば深まるほどそのままではもうどうにもならないから行き着くところまで行った後もう一度新たな方向を向いて這い上がってくるしかないという結論に至ります。


むしろその実情を正確に理解しただけで思考が止まってしまうと、打ちどころが悪ければ絶望感に浸ってしまうかもしれませんし、そこまで真に受けなくても100%滅入るだけの内容です。


そこで、そういった負の意識が優らないように必要な要素は何かないものかと求め続けた結果2つの答えが浮かび上がりました。


それは変化の先の未来に対する希望のビジョンと人間が人間らしく生きていく上で必要不可欠な普遍的な愛の存在です。


そこでそういった変化の後に必要とされるであろう価値観を内包した小説を今のうちに書いてしまおうと日夜奮闘しているのですが、そのためにどうしても先に挙げた”世の中の矛盾の核心”が避けて通れない壁として立ちはだかります。


その矛盾の壁を完全に区別して人間愛だけを追いかけた物語を書けばいいのかというと、それはいずれ古くなって役に立たなくなります。


それが絵空事にすぎないと誰にでも分かってしまうからです。


また、一人ひとりの人間が持つ普遍的な欲求という観点からも避けては通れない課題であることがハッキリと分かってきます。


人は誰しも自分が自分らしく生きたいと思う強烈な欲求を持ちながら生きています。


それはたとえ現実的な諸条件を考えて無理だと納得させても心の奥底で燃える思いを完全に消すことは誰にもできないものです。


本当は生まれてくる人たちのほとんどが、その自己実現の欲求を叶えるための力を秘めているのですが、他人との比較や見栄などの余計な欲求に阻まれるなどして発揮できずに終わってしまいます。


そして、そういった要らない欲求やしがらみを正しく見ぬいて制するためには真の客観性をもつ必要があります。


さらに自分の夢をこの現実社会で実現させるためには、その社会そのものを正しく理解することが必要不可欠です。


今まではみんなが考えている常識を理解して自分が所属する組織や立場から要求される条件に適合できるようになることで自己実現を果たすことが出来ましたが、これから大きな変化を経過した後は状況が一変しているかもしれません。


ひとたび世の中が変化するともう二度と元の状態には戻らないことは歴史が証明しています。


そのために、これから自分の人生を決めようとするぼくより若い世代は時代が変化するという前提で備えておく必要があります。


そこでぼくが今書いている文章が役に立つと言いたいところですが、なにぶん内容がエキセントリックすぎて役に立つどころか効きすぎてかえって逆効果になると思います(多分)。(特に常識的価値観のみを信じ込んでいるような真面目な人には刺激が強すぎます)


こう書いてくると例の文章はとりあえず書いておくだけで蔵にしまっておいたほうがいい気がしてきました。


あと、もうひとつ懸念していることは、ぶっちゃけて言えば今の人たちの多くはこういった内容に興味を抱かない以前に理解する能力が欠けてしまっているということもあります。


今の人たちは自分の欲求が求める対象以外は2時間以上同じ事を継続して考え続けることができなくなっている人がほとんどです。


悪く言っているだけように聞こえるかもしれませんが、それは環境がそうさせたもので、今を生きるほとんどすべての人たちは小学生の頃から細切れの勉強に慣らされ、大学を出て社会に出ても忙しい時間の中でめまぐるしく変わる状況に切り替えながら対応しなければならず、拘束時間を解かれた後もプライベートの生活や娯楽でストレスを紛らわせながら日々を送ることが習慣になっています。


そういった条件の中で社会全体の成り立ちや歴史について深く理解した上でその流れをを把握し続ける事の出来る人は、それ自体を好んでするような物好きな変人と時間的にゆとりのある人だけに限られます。


なのでこういった話をそのままストレートに拡めようとしても世の中にはほとんど響かないまま終わるほうが多いのです。


それにいつの時代にも言えることですが、こういった込み入った真実を必ずしもすべての人が理解しなければ幸せになれないかというとそうではなく、知らなくても自分の人生をしっかり生ききれる人は沢山いました。(かつてスイスの哲人が”わかった者は遠ざかれ”と言っていましたが、こういうことを指して言ったのかもしれないですね)



ただ、ぼくのようにいったん社会の循環から脱落した人間はより詳しく知っておいたほうが有利かもしれません。


どちらにしろもはや自分自身で生きる道を探さなければならない身ならば人並み以上の知識と知恵は必要です。


そして今現在どういった立場の人であれ、この先の時代に欠かせないものは深い知識や情報以上に”物事を正しく理解する力”です。これだけは絶対に欠かせません。


ここまで思いの丈を書いてみて気持ちの整理もついてきました。


例の文章は公開するかどうかは別にして、気が向いた時だけ書き続け同時に小説の完成を急ぎたいと思います。


一日一日いっぱいいっぱいの毎日ですが、自分の目標に向かって努力できる時間と環境が自分に残されていることに感謝しながら頑張ります~(^^ゞ



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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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