北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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別にタイトルのように嘆くほどの感慨はありませんが、、(・・;)
今日も相変わらず何事もないかのように過ごしています。
でも世間を見渡せば決して何事もない平穏な状況ではありませんね。
昨日の竜巻の被害には心底驚きました。
まるで再び震災が起こったかのような光景に明日はわが身かという不安がよぎりました。
何事もない平穏な日常が続くことは決してアタリマエのことではないのですね。
思い返してみると、これまで訳の分からない獣道のような人生をどうにかこうにか30年も生きてきたわけですが、よくこれまで道を踏み外ずしてジ・エンドにならなかったものだと自分でも不思議に思います。
もちろん、これから先も安定した保証は一切無く、極端なはなし明日何事か起きて人生が急変することも十分ありえるわけですから油断も安心もできません。
でも、これまでの生きてきた実感から言えば、常に見えない何者かに守られてきたような感覚が幼い頃からありました。
自分では間違いだらけの選択ばかりしてきたようで、それでも意外なほど行き詰まらずに今のところはほぼ間違いのない方向に進んでいくようで、人生とはほんと不思議なものだと思います。
今まで無駄に悩み続けてきたようで実はそれらの全ては決して無駄ではなく、成り行き任せのようでその時々の自分なりに真剣に考えてきたつもりですし今もそうです。
人様に誇れるようなプライドや自慢できるものは何もありませんが、でもかえって身軽な気持ちで生かされていることに感謝できる自分のあり方に感謝です(^^)
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アップルの創業者にして元CEO、カリスマ経営者として名をはせたスティーブ・ジョブズ氏が56歳で亡くなりました。
たぶん、本日最大のニュースとして世界中に衝撃を与えたのではないでしょうか。
ジョブズ氏はipodやiphoneなどのアップル社のヒット商品の生みの親であることで知られていますが、遡れば80年代のパソコン黎明期に現在のマウスやGUIを使用したパソコンを初めて世に送り出したことでも有名です。
そういった数々の偉業にもまして、スティーブ・ジョブズ氏がカリスマ的経営者としてこれほどまでに人気を集めた理由が、その魅力的な人柄と数々の経験に裏打ちされた人生観にあったことをぼくはごく最近知りました。
ぼくはアップルの創業者でカリスマ的経営者だということでビル・ゲイツ氏のようなスーパーエリートであると想像していたのですが、実際は生まれた直後から養子に出されて大学も半年で中退しガレージからアップルコンピューターを立ち上げ成功を収めるも、社内対立で追放されてバックパッカーとしてインドを放浪していたという波瀾万丈な経歴の持ち主だったのです。
そういった経験から導き出された人生哲学による彼の言葉は含蓄に富んで聞く者を魅了します。
スタンフォード大学の卒業式で行われた氏のスピーチを動画で聞きましたが、誰にでも解る端的な話ばかりなのですが、一つ一つの言葉を通して真実が語られており、非常に魅力的で感動する内容でした。
アップルの製品はジョブズ氏の才能と情熱の賜ですが、エリート志向の高級ブランド品というイメージが強く、正直なところあまり自分には向かない製品だと思っていました。それでも氏のスピーチを聞いたことで世界中でヒットを飛ばしこれだけ支持されている理由が理解できました。
以下、そのスピーチの一部からの引用です。
17歳の時にこんな言葉を読みました。
「毎日を最後の日であるかのように生きなさい。
いつか必ずひとかどの人物になれる。」
私は感銘を受けました。
それから33年間、毎朝鏡を見て問いかけました。
”今日が人生最後の日なら、今日することは自分がしたいことだろうか?”
長い間答えがノーであるときはいつも
何かを変える必要があるとわかるのでした。
そう遠くないうちに死ぬと認識することは、
大きな選択をする時に助けてくれる
私にとって他にない重要なツールです。
なぜならほとんど全てのこと−
外部の期待や自分のプライド、挫折や屈辱への恐れは全て
死に際して無くなり本当に重要なものだけが残るからです。
自分も死にゆくと自覚することは
何かを失うという思考の罠を回避する最高の方法です。
あなたは既に裸です。
ハートに従わない理由はありません。
スピーチ動画のリンクはこちら→ (前半) (後半)
常に死を意識しながらも毎日をベストを尽くしながら過ごすというところが哲学的ですね。
そう、だれでもいつかは例外なく人生を終える日を迎えなければならないのですね。
そのことを忘れず、日々を貴重なものとして疎かにせず生きようとすることは、洋の違いを超えて昔から賢人が説いてきた教えです。
人は必ず死ぬということと、いつ死ぬか分からないといったことに関して、以前何気なく目にした光景と、同じように本日垣間見た光景のことを思い出します。
それは、今日たまたま札幌に出てヨドバシカメラの売り場でミラーレス一眼の新製品を物色していたとき、近くの老人客が突然倒れ込んで、若い女性客と女性店員が抱きかかえているところに出くわしたことです。
また、先日同じように札幌へ出かけた際、通りかかった駐車場管理室の裏で倒れ込んだ初老の男性が身動き一つせず、付き添いの人たちに抱きかかえられていた光景です。
行楽に出かけた際の小樽でも古い銭湯の前でちょっと太めのおばあさんが玄関前でしゃがみ込んで動けなくなっていました。
さらに今日の帰りの電車でも混雑する車内で立っていたおじいさんが調子悪そうにしゃがみ込んだり立ったりを繰り返し、周囲の乗客から気遣われている場面に遭遇しました。
ここ最近、やけに苦しそうな老人を立て続けに目撃します。
放射能による突然死への影響などが一部で取りざたされていますが、ちょっと気になりますね。
まぁ、老人に限らず、また放射能や天災によらずとも、人の人生は一寸先は闇、いつ死んだっておかしくないという厳然たる事実をジョブズ氏の言葉とは違った意味で気づかされる出来事でした。
その中でも極めつけは、いつぞや駐車場裏で倒れ込んでいた老人の場合で、ピクリとも動かず完全な静止状態で、まわりの付き添いの人たちの沈痛な表情で項垂れている姿を見たところ、ちょうど息を引き取った直後だったようです・・・( ̄人 ̄)
この話には続きがあり、その光景を確認して交差点の横断歩道を渡った直後、そこは大きなホテルのエントランスの前で、ちょうど修学旅行生の一団が集まっていて、うら若き少年少女たちのグループが自由行動の集合時間に間に合うようはしゃぎながらダッシュしてくるところでした。
さすがにこの痛烈なコントラストには混乱しました、、、、
行き倒れの人が今まさに人生を終えようとしていて、その同じ瞬間に、わずか通り一本隔てた目と鼻の先で、希望と夢に胸を膨らませた高校生の一団が青春を謳歌している真っ最中!
この両極端でシュールすぎる一連の光景を見たぼくはいったいどう解釈すれば良いのか、いまだ明確な答えは出せそうもありません、、(ーー;)
スティーブ・ジョブズ氏のように不世出のカリスマ経営者としてその絶頂期にこの世を去り伝説となる人もいれば、一方で人知れず道ばたで息絶えていくのも同じ人の人生です。
今日のヨドバシで倒れ込んだ老人を最初に介抱した若い女性の店員が他のあまた居る店員に応援を求める視線を送るも、そのうちの多くが蜘蛛の子を散らすように無視して遠かっていく光景も見ました。
たまりかねて近くの女性客と何か手伝えることはないかと声をかけましたが、幸いにも一人の男性店員が駆けつけて椅子に座らせて救急車の手配をしていました。
こういった出来事を目の当たりにして、いつかは自分が反対の立場になるのかもしれないと思うと切ない気持ちになりますが、この世の社会を生きていくということは、どんな人もそういった残酷さや理不尽さを大なり小なり受け止めて行くしかないのでしょうね。
この世の中は、一握りの成功者の人生の中にに見られるような希望に満ちた輝ける可能性の舞台なのか、はたまたそうはなれなかった者たちの無念と不条理だけがある現実なのか、どちらなのかと問えば圧倒的に後者の様相が強いように思われます。
しかしまた、この世の中を真実に生きた人たちが残した言葉が伝えるような真実もまた存在します。
この相反する問いに対する答えは一人一人生きている人の心の内にしか見いだせないものかもしれません。
もっと突き詰めて言えば、それを唯一認識する自分自身の心の内にのみです。
たとえ世界中の人々から賞賛され偉業として記憶されたジョブズ氏のような人であっても、最後に勝ち得たものは自らの心の内に見いだせたものだけだったでしょうから。
今日の夕刊にタレントの島田紳助氏の価値観について言及したコラムが掲載されていました。
そのコラムを読んでみたのですが、これまであまり興味の無かった島田紳助氏の人生観と処世術の概要を知ることができました。
一言で言えば能力と才能に対して全面的に傾倒した勝ち組理論の典型でしたが、そこに前世から持ち越した才能と能力の有る無しによって、人はあらかじめ価値ある者とそうでない者が選別されているという、かなり極端な、ある意味では面白い考え方をした人だなぁ~と感心しました。
島田氏の持論によれば昨今の拡大する格差社会も能力と才能のある者にとっては、より低コストで人件費をまかなえることから大変望ましいことであり、また資本主義経済であるのだから当然の結果であるとのことです。
たしかに、バブル崩壊後に終身雇用と年功序列社会も一緒に崩壊し、世界経済のグローバル化による自由経済至上主義の社会では、島田氏が言うように能力才能があって勝つための強い意志と手段を有する者が主役であり、そういった勝ち組と呼ばれる人たちがこれまでの社会経済を引っ張ってきたことは事実ですから、この部分に限っては正しい言い分のように思えます。
でもその理屈がこれからも未来永劫にわたって唯一無二の正しい考え方だと自信を持って言えることなのかというと、それはおそらく出来ないだろうと言わざるおえません。
島田氏流の勝ち組理論がこれからも有効であるためには、第一に今の自由主義経済がこの先も発展しながら長きにわたって継続しなければなりません。
でもそれはもはや不可能な幻想になりつつあることが最近の様々なニュースを見ているだけで容易に理解できます。
日本の現状だけを見ても3.11の震災と原発事故が起きて以来さまざまな分野で莫大な損害が発生し、それは今も膨らみ続けています。
バブル崩壊後から20年間に膨らみ続けた政府と地方の借金は1,000兆円を超し、頼みの綱とされている国民の個人資産も減少していることから借金の総額の方が上回り始めています。
そして日本の国債の利率は1%前後で推移していますが、これがもし万一、何らかの出来事がきっかけで3~4%以上に跳ね上がった場合、毎年の借金の利払いだけで一年間の税収38兆円を上回りその時点で借金の支払いが不可能であることが確定し国家破綻します。(ギリシャはすでに20%を超えて破綻がほぼ確定していますしイタリアは今まさにこの類の危機に直面しています)
これだけ多くの借金を抱えた国が実際に破綻すると、あらゆる市場経済は正常に機能しなくなり、これまでの経営理論が全く通用しなくなるばかりで無く、国内において企業や国民が蓄えてきたあらゆる資産と共に現在の経済の仕組みその物が消えて無くなります。
そうなると島田氏の言う勝ち組の理論や勝ち組と称されている人たちの立場も多くが消えて無くなってしまうのです。
同じ黒い不祥事関連で分かりやすく例にすると、もし大相撲が興業として全く成り立たなくなったり廃止となっていた場合、横綱であれ大関であれ幕下であれ、その中で活躍している全ての力士とその関係者が職と立場を失っていたのです。
そのような結果にもはや勝ち組も負け組もないことは言うまでもありません、なぜなら勝ち負けを競い合う土俵そのものが無くなってしまうのですから。
たとえ不祥事と関係なくとも他のスポーツやテレビや芸能界も同様です。
そういった業界にスポンサーや観客が支払うお金が無くなればそこに関係する全ての人たちが職と立場をいったんは失うのです。
数年前まで国家破綻ということはあくまで可能性としてだけ考えられる机上の理論でしかないと受け止められてきましたが、今年に入ってからの世界中で起こる天災やめまぐるしい混乱の中で急速に現実味を帯びてきています。
それがある日突然、現実に起こってしまえば芸能界やプロスポーツのような特殊な分野に止まらず、社会における民間、公務員の分け隔てなくあらゆる分野に多大な衝撃と影響を及ぼすことは避けようのないことです。
それでもここでハッキリ言わなければならないことは、たとえその衝撃はこれまでの歴史上類を見ないほどのものであったとしても、この世の中その物が消えて無くなったり崩壊してしまうことではありません。
今までの社会の枠組みや常識はことごとく崩れ去って消えてゆくでしょうが、その跡から今までとは全く違ったルールと枠組みに則った新しい社会が再び築き上げられて行くのです。
衣食住など人が生きていくために必要不可欠な分野や社会を維持するための分野は(多少の不便と混乱が生じても)おそらくほとんどこれまでと変わらないでしょう。
その一方で、これまでの古い枠組みの中においてどれほど高い価値が見いだされていようとも、新しい時代にその必要性を見いだせない分野は容赦なく淘汰されていきます。
そして古い枠組みが完全に去ったのち、新たな基準とルールに基づいた競争と進化が再び始まります。
それは島田氏の持論も含むあらゆる弱肉強食的勝ち組理論とも矛盾しないものであり、歴史上幾度となく繰り返してきたサイクルといえるものです。
その勝ち組理論における倫理性の如何についてはさておき、島田氏流の人生観と方法論には足りなかった視点が一つあります。
それは、社会において勝つための強い意思とそれを実現するための方法を身につけるために努力することに加えて、そうすることで勝者となり栄誉と繁栄を手にすることを可能としてくれるこの社会の仕組みと、その根本の成り立ちについて理解しようとする視点です。
その視点に立った上で、この社会において努力して競争に勝つことで名誉と繁栄を手にすることができる本当の理由を知ることができれば、それを可能とする期間とそこで獲得した繁栄は有限であってそれは長くは続かないことをハッキリ覚ることができます。
さらに理解が進めばスピリチュアルな哲学についてもその根本にあるものが調和であって選ばれし者の選別などではないことを覚ることができるはずです。
これからは勝ち組も負け組も存在しません。
ただ一人、自分自身と向き合って乗り越えられるかどうかの勝負があるだけです。
すでにこれまでの競争ゲームをやっている場合ではないほど厳しい環境を生きなければならない時代に入っています。
そんなこれからの時代に必要とされるのはどんな能力才能にもまして、異なった価値観、個性、生き方、在り方を的確に理解する能力とその上で相手を思いやる真の優しさです。
昨日、ケータイの修理が上がったとの連絡があり、今日、雨の中ケータイを受け取りに行きました。
ハァ~、長かったですね、、、(-_-;)
今回は修理後にお店の方で充電が可能なことを予備のバッテリーも含めて2度確認したそうです。
そして今回は予防手段として、古いケータイからはアドレス帳も含めて一切元のデータを引き継がないようにしました。
1から手動で打ち直すのもめんどくさいですが、大した量でも無いのでボチボチ気長にやっていこうと思います(^_^;)
今のところ好調ですが、問題はバッテリーが切れた時にきちんと充電できるかどうかです。
それを確認するまでは一切気が抜けません(笑)
まだ確認はできていませんが、おそらく今回は大丈夫だと思います。
というのも、機種交換前のケータイが8年前の機種ですから、そこから持ち越したデーターのなかに相性問題などを起こすエラーやバグが潜んでいた可能性が高いと思うからです。
8年前の機種から現行の機種に変える人はそういないでしょうし、特定の機種間と条件がそろったときのみ発動するようなマイナーなエラーはメーカーも確認できていない可能性大です。
なので、旧機種から持ち越したデーターを100%入れないことで予防できると思います。
とにもかくにも、ちゃんと動いてさえくれればそれで万事OKです。
ただ、今日はもう一つ納得いかないことがありましたね。
それは当初言われたとおり新品と交換となったのですが、そうはならなかったのです。
正確に言うと新品交換になったハズなのですが、実はそうはなっていなかったという話です。
今日、修理から上がったときに新品交換になったということで本体のみを受け取ったのですが(箱や付属品は一切なし)触ってみるとなんか使用感がある気がしました。
たしかに新品時に付いている機能説明のシールなどが付いているのですが、やたら手垢が付いているんですよね。
多分、いろいろ機能点検をしたさいについた汚れだろうと気にしませんでしたが、家に帰ってからもしやと思って調べたら決定的な証拠が出てきました。
電源を切ってバッテリーを外して製造番号を確認すると何だか見覚えのある番号が、、、
まず保証書を取り出して見ると記載が無く、次に今回の修理依頼書に記載された製造番号を見てみると同じ番号が・・・。
つまり今手にしている個体は新品ではなく元から持っていた個体である可能性が高いということです。
でも何故そんな余計な嘘をつくようなことをするのでしょうか?
たしかに店員さんは新品と交換しましたとハッキリ言いました。
そもそも新品と交換になると最初に言ったのは店員の方でこちらから要求したことは一度もありません。
新品と交換すると言っておいて修理だけで直っちゃったことを後から文句言われたくないから新品交換ということにしてしまったのでしょうか?
それでわざわざシールを張り直したのでしょうが、手垢だらけな上に製造番号がそのままというお粗末ぶりです。
思い返してみると、今日の応対した店員は修理経過を説明する際にやたらと布巾で磨いていましたし、修理に出したときの店員はさりげなくこちらの持っていたこれまでの修理伝票を回収していきましたから、最初から何らかの意図があったことがうかがえます。
ぼくとしては新品に交換されるよりも前から使っていた個体を使い続ける方が良いので文句を言うつもりは全然無かったんですけどね、、、
以前、修理に出した時に横にいた客は何やらまくし立てながら理不尽な要求を持ちかけていましたが、きっとそういう迷惑な客も多いのでしょうね。
今回の修理依頼も向こうからすれば手間のかかる客だったでしょうから、自分たちの不手際をいたずらにつつかれて問題にされては困ると思って下手な自己保身を行ったのかもしれません。
ただ一つ言いたいことは、向こうからすれば手間のかかるやっかいな客だったかもしれませんが、その原因と責任はユーザーのこちらでは無く100%お店とメーカー側にあるということを忘れてもらっては困るということです。
今回の例に限ったことではありませんが、アフターサービス関係でメーカーとトラブった際に、たとえその責任がこちらに無くてメーカー自身にあった場合でも、何故かこちらが迷惑をかけているように受け取られる場合が多いです。
対応にあたる店員にとって通常の対応ではでうまくいかない客にあたると、その責任がどちらにあるかに関わらず、面倒な客→迷惑客→迷惑客対応マニュアル→テキトーに言い訳して責任回避・・・といった思考パターンに陥っているのかもしれません。
これもマニュアル人間の弊害と言えばそれまでですが、その感覚が当たり前になって人間としてのモラル意識まで低下しているのが今の社会の実状かもしれません。
これ以上書いてもキリがないですし、長くなってしまったのでこの辺にしておきますが、何とも腑に落ちない気持ちです。
悪い部分を改めるだけで本当の意味で物事が良くなっていくのだろうか。
原発事故の問題、放射能汚染処理、JR北海道の相次ぐ事故、政治の迷走ぶり、景気の好不況、、、
こういった最近の悪いとされる出来事を見るにつけ考えさせられます。
一応、それぞれ悪い部分を洗い出して改善へ向けて努力されているのでしょう。
でも、はたしてそれだけで以前のように物事がうまく運ぶ世の中を取り戻すことが出来るのでしょうか。
ぼくは出来ないと思います。
いま起きている問題はそんなスケールの小さなことではないと思うからです。
本当に問われているのは一部の弊害ではなく、全ての根本にある間違いそのものに気がつくことだと思います。
全国の停止されている原発の可動再開の動きが急ピッチで進められていますが、これは危険な動きだと思います。
いまだに危うい基準にもとづく安全宣言で通そうとする姿勢が、もはや信頼に値しないことは言うまでもありませんが、現実的な意味でも耐用年数をとっくに超えて使われ続けている大量の老朽原発をこの先何十年に渡って使い続けようとしていること自体、もはや自滅の道をたどっているとしか言いようがありません。
このまま行けば、たとえ大地震や大津波が来なくても第二、第三の福島が現実になってしまうと思います。
そこまで行かないと今の世の中は根本的に変わることが出来ないのかもしれません。
今ある立場や権限を失いたくない人たちは問題の一部分しか見ようとしません。
根本から改めようとすると自分たちの存在そのもを否定しなければならなくなるからです。
なので、責任ある人たちは頭を下げて謝ることはしても、自分たち自身については決して否定しようとはしないのです。
さらに自分たちの所属する組織、枠組みについてはなおさら頑なに固持しようとするのが普通です。
こういった物事を根本から改めなければならないときに、責任ある立場の人たちとその組織が自分の身を失いたくない気持ちとプライドから、自己保身と自己正当化に走ることで悲劇が拡大していきます。
戦前の日本がそうでした。
負ける戦にあれだけに金と物と人の命までも費やしてしまったのは、このプライドと自己保身のせいです。
早々に負けると分かっていながら決断を先送りして戦争を拡大して行き、沖縄占領、東京大空襲を経てとうとう二発の原爆を落とされたあげく、同盟国だったソ連からも攻め入られてようやく負けを認めることが出来ました。
それでも当時の国民の大多数の人たちが、最後まで戦争に勝って報われることを信じて疑わなかったことは本当に悲しい歴史の一幕だったと思います。
その戦争を推し進めてきた人たちは一部を除いて生き残り戦後の人生を全うしました。
21世紀の今になって再び同じように間違った道へ日本が進みつつあるように思えて仕方ありません。
戦前の社会は自分たち=国の在り方を否定できなかったことから、最大の被害者であり加害者でもあるという悲劇を避けることが出来ませんでした。
では現在まで続く戦後社会はどうでしょうか。
高度経済成長を成し遂げことで得た莫大な金の力で物質的な繁栄を50年近くにわたって享受してきましたが、バブル以後は借金に次ぐ借金で莫大な負債をこしらえながらかろうじて繁栄を維持してきたのが実態です。
震災と原発事故後の混乱を見るまでもなく、今の日本の社会は全てに行き詰まりつつあります。
その行き詰った先がさらに極まりつつある今においても、多くの人たちがこれまでの社会の繁栄と、そこに帰属する自分たちの意識の根本に対して疑いのメスを入れることができないままでいることは歴史の必然性なのかもしれません。
それでも希望を見失わないためには、これから自然に起こると思われる古い枠組みの解体にとらわれることなく、これからの新しい時代の枠組みと社会について静かに意識を向けて備えることだと思います。
悩んでも、悩んでも、それまた悩んでも、解決しない問題は、
思い切って、悩むことをやめるしか解決法が無いことを、
ようやく気がついた、、orz
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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