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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今回の参院選も投票に行って来ました。

若者の投票率が落ち込んでいると言われていますが、たしかに、ぼくが投票に来た時間帯に来ていた有権者の方々は、高齢者ばかりで、自分以外に若者と呼べそうな人はほとんど見かけませんでした。

きちんと選挙に行くことが立派な行為だとまでは思いませんが、若い世代が政治や世の中のことについて、まるでリアリティを持てない現実は、後々に大きな問題につながっていくような気がします。




この文章を書いている時点で結果はすでに判明していますが、まあ、予想通りと言うか、当然の結果だと思いました。

ある人がネット上でつぶやいていましたが、民主党の政権運営は現実の課題を国民に対して、ある程度示すことは出来たが、あまりにも問題定義に偏りすぎて、国民にとって前向きになれるようなビジョンを示すことを怠りすぎたと分析されていました。

政治というものは現実よりも雰囲気が先行するものであり、ゆえに、具体的な政策よりもパフォーマンスが先行しがちなのは致し方のないことだと思われます。

その点では、戦後50年以上、一貫して政権を担い、今現在に至るまで良くも悪くも日本の世の中を形作ってきた自民党の手腕は、民主党はじめ他の政党よりも数段抜きん出たものであると言えそうです。

今回の選挙戦で民主党は相当追い込まれていたのか、家の近くを通り抜けていった選挙カーから聞こえてきたのは「国民は騙されている、騙されている」という、意味不明で半ば支離滅裂な連呼でした。

開票後の選挙特番で、自民党の小泉進次郎氏の選挙活動に密着した特集が組まれていましたが、その緻密に計算された演説技術に驚かされました。

それは、まさにプロの技術であり、進次郎氏の仕事と自分の役割に対する高い意識は並のものではありませんでした。

先の民主党候補の演説とは雲泥の差です。

民主党が野党として、自民党政権が行おうとしている政策の間違いを国民に伝えたい気持ちは解りますが、それならば、なおのこと、もっと分かりやすくきちんとした起承転結に基づいて解説すべきです。

よく国民の目線に立ってというスローガンを耳にしますが、その視点が本当の意味で備わっていないために、国民にとって分かり易い演説一つできないばかりか、大多数の国民の支持を失ったまま取り戻せない事態に陥っているように思われます。

なぜならば、逆風に立たされているどんな政党や政治家よりも、この国全体とそこで生きる一人ひとりのほうがずっと苦しい立場に置かされているからです。


今回の選挙の結果について、個人的には特別な感慨は何一つありません。


ただ、懸念される原発の再稼働や改憲の動き、そして、地元の北海道を始め、日本全国の地方経済にとっては死活問題に直結するTPP締結の動きが加速することだけが気がかりです。


TPPの締結によって関税が撤廃されるのみならず、国のあり方そのものまでグローバルスタンダードを受け入れることになりますが、そうなれば今までよりもはるかに厳しい競争社会の時代が到来します。

巷ではTPPの締結と円安によって輸出産業が活性化することで景気が上向き、地方の経済にも新たなチャンスが拡がると言われていますが、そんな夢の様なシナリオを描いて成功するのはほんの一握りで、大方の地方産業は目に見えて衰退していきます。

TPP締結によって事実上、関税が撤廃されることで最も打撃を被るのは、安い海外産食材の洪水に見舞われる農業などの一次産業品です。広い大地を有し農業が唯一の基幹産業である北海道は壊滅的な打撃を受けるでしょう。


にも関わらず、マスメディアは道産ブランドの輸出が新たなチャンスに繋がると大々的に報じていますが、たとえそういったブランド化と輸出で成功する事例が出たとしても、それは既存の農家の10件に1件出来るか出来ないかの割合で、残りの大多数の農家は波に乗れないまま衰退していくような状況に最悪の場合なってしまいます。


なぜ1割しか成功の見込みがないと予測できるのかというと、まず競争相手となる北米や中国、オーストラリアなどの大陸の農業と比べて、いくら北海道が日本で一番広い農地を有していようと、その規模の違いは歴然としていて価格で競争してもまったく勝負にならないからです。

さらに円安になったとはいえ、ドル、ユーロにつぐ準基軸通貨である円は世界的に超高級な通貨であることに変わりはなく、輸出生産コストの高さを抑えることはどうあがいても不可能に近いのは火を見るよりも明らかです。

そこで、道産品を高級ブランド化して単価を上げて輸出しようとなるわけですが、ブランド品だからといって注目されるのは一時で、いずれは世界各国の名産品と競争することを余儀なくされます。また、ブランド化商法は高級品として売るゆえに、大量に販売されることはないので、その中で成功の席を獲得できるのはごく僅かな生産者だけになります。

ゆえに新たな輸出需要に頼っても生産者の10件に1件も成功できないのではないかと予想されるのです。

ごく僅かな生産者だけが新たな成功者として名を連ねても、残りの大多数の生産者の生計が成り立たなくなれば、その地域の経済はやがて崩壊へ向かいます。

現在進行中のTPP参加交渉において、もしも万一、向こう側のグローバルな言い分を100%受け入れてしまえば、極端な言い方ですが北海道全体が夕張市のようになってしまうかもしれません。そしてそれは日本中の地方経済が大なり小なり直面する厳しい現実でもあります。

日本の危機的財政と合わせて今後の見通しは全く不透明と言わざるおえません。

アベノミクスで株価が急騰して景気が上向いたと報じられていますが、一方で国債の長期金利がじわりじわりと上昇傾向で不穏な傾向を示し始めていることはあまり報じられません。

長期金利が上昇するということは政府の借金の利払いが増えるということです。

税収が上がらない中、借金の利払いが増え続ければ、それだけ財政破綻の危機が現実味を帯びてきます。

選挙で大勝した安倍政権がそういった増大し続けるリスクを制御できるのか、これから正念場を迎えそうです。


(※こういった社会経済の現状についてこちらのブログの記事が詳しいです)


先日、アメリカ自動車産業の本拠地であるデトロイト市が日本円で1兆8千億円の巨額の負債を出して財政破綻したという衝撃的なニュースが世界中を駆け巡りましたが、すでに破綻前から相当ひどい状況でした。

ピーク時の人口180万人から一気に70万人まで減少し、財政破綻を受けたことでさらに人口が流出されると言われています。(※デトロイト市や他のアメリカの自治体の現状についての参考HPはこちら


こういった状況が近い将来の日本の姿であるとする指摘は残念ながら的を外していないと思われます。


最後にメディアや巷で言われていることの矛盾について言及して終わりにしたいと思います。


それはメディアの報道はその伝えている内容の正確な規模を正しく伝えていない場合があるということです。

先に触れた道産ブランド品輸出規模の兼ね合いについてもそうですが、その時、報道された内容だけを見ていると、あたかもそれだけで既存の産業の損失分も全てまかなえてしまえるように聞こえることです。

でも実際には、失われれる既存産業の規模のほうが新たに得られる輸出需要よりも比べ物にならないくらい大きいのです。

今の報道の仕方ではそこを冷静に判断できなくなる恐れをはらんでいるように思えます。

2010年末、韓国のヨンビョン島が突如、北朝鮮の砲撃を受けて壊滅的な被害を被ったという衝撃的なニュースが入りました。

その時、テレビで流された映像だけを見ると街は火の海になり、すぐに南北の全面戦争へ発展するのではと思えるほど緊迫した状況のように思えました。

ところが、後から砲撃事件を検証したサイトを見ると、実際に砲撃にあって火災になったのは街の一角の数件程度で、死傷者が出たとはいえ、全面的な戦闘に至るほどの状況ではありませんでした。

ところが、テレビで繰り返し流される緊迫した火災の映像だけを見ていると、まるで韓国全土が攻撃され、その余波がすぐに日本まで及ぶように思えてくるのです。

そういった冷静な判断を失った感覚が、もしも国中に拡がってパニックになれば、もとはほんの些細な小競り合いでも、いつのまにか全面的な戦争状態に突入していることも十分あり得ることです。

マスメディアの報道の仕方一つで、そういった錯覚を伴う情報を広めてしまうことになる上に、一部では都合の良いようにそういった錯覚を利用して大衆を誘導しようとする意図も大昔からあるものです。

平穏でハッピーなニュースと深刻でシリアスな現実のニュースの割合にしてもそうです。

正しく現実の有様を見極めるために、一人一人が知り得た情報や知識をバランス感覚を持った視線で判断し再構築しなければ、その物事の本当の全貌は見えて来ません。

今回の選挙が終わり、これから世の中全体が良いことも悪いことも含めて大きく変わっていくように思われます。

そういった変化の時代を生きていかなければならない一個人として、これから起こる出来事について、自分の頭でしっかり考えた上で冷静に判断できるように心がけていきたいと思います。



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小はスマホや家電品から、大は鉄道から飛行機、原発に至るまで、本来なら絶対に保証されるべき基本的な信頼性や安全がことごとくなし崩しにされ脅かされている事例が相次いでいますね。


わたくし事では、そこまで大げさではないにしろ、どちらかと言うと小の方で、その守られるべき品質や信頼性が損なわれる事例に出くわしています。


つい先頃、近所のホームセンターで買った冷風機能付き扇風機が使用中に油が漏れる不具合を起こし、その旨を店に連絡すると、すぐに新品を持って駆けつけて交換となりました。


ほんと、最近こういうことが多くなったなあ、という気がします。


同じホームセンターで以前買った足元用オイルヒーターは半年でオイルが漏れ始めて同じ製品に交換、今度はスイッチから青白い火花が飛んできたので、そのまま使用するのが怖くなりパネルヒーターに買い替え以後、物置に放置中。


地デジ用薄型テレビが普及し始めた頃に買った某S社のテレビが欠陥品と判明、対策済み品と交換、現在まで問題無く稼働中。


デジタル一眼レフカメラを買って使用するようになってから、微妙に傾いた写真が多くなった。


最初は自分の下手な腕前が原因だろうと注意して撮影してましたが一向に傾きは治らず、三脚に固定し水準器で水平を出来るだけ厳密に出してテスト撮影を繰り返し、それでも傾きがほぼ全カットで見られたことから、カメラ本体に原因があると確信し購入した店から修理に出す。


幸い、保証期間中だったので無料で修理、以後まったく問題なく使用中。


今使っているケータイ、買ってから充電不能になるトラブルに見まわれ、三度修理に出してようやく改善される。


中身の基盤丸ごと交換しても症状が治らなかった原因は、古い機種を交換する際に移植したデーターの一部が悪さをしていたから、それらを廃棄してまっさらにした上でようやく症状が収まる。


古いデーターが原因である可能性を指摘したのはこちらで、応対した店員も修理センターの人も誰ひとりそのことに気づかなかった。


自分一人でも、近年、記憶にある限りこれだけの事例に出くわしているわけですから、世の中全体では大中小と数えきれないほど多数の事例が日々発生していることは想像に難くありません。


それらが個人の迷惑程度に収まるものならまだ我慢も出来ますが、大多数の人達の命や生活に関わる交通機関や原発の安全性などは、惨事が起きる前にもっときちんとした対策がなされてほしいものです。


先日起きた特急北斗の出火事故から立て続けに起きたスーパーおおぞらの配電盤出火事故ですが、破損した空調関係のみならず直接関係ないATS系の基盤まで焼損したことが新たに判明した模様。


配電盤には通常24Vの電圧がかかっているところへ約20倍近い440Vの電圧がかかっていたことが判明。


それを聞いて、はて、ディーゼル気動車の電気系統でそんな高電圧がかかる部分があったのかと疑問に思い少し調べてみると、事故を起こしたキハ283系の走行用エンジンに取り付けられた発電機の出力がちょうどAC440Vであるとウィキの記述の中で見つけました。


通常はその発電機の出力が静止型インバーターなる装置を用いた補助電源装置に入力され、そこから一括して空調や暖房、照明や各種制御回路用の電源を供給する仕組みになっているようです。


今回事故を起こした車両の配電盤の焼け焦げた接触器類は今年2月に交換されたばかりの新しいものでした。


特急北斗のエンジン出火の原因と言われているスライジングロットにしてもそうですが、本来それ自体に大きな負荷がかかって破損することが通常ありえない部品が破損した場合、その部品そのものが原因であると見なす以前に、その小さな部品に大きな負荷をかけた要因の方を洗い出さない限り、真の原因究明と正しい意味での抜本的な解決策を取ることは出来ないのではないかと思われます。


そういった探求を置き去りにしたままで、単に壊れた部品を全部取り替えるだけで同じような事故を予防できるとする判断はどうなのかと思いますし、今日の新聞の記事にも載っていましたが、具体的な因果関係に全く注意を払わないまま、ただ点検回数を増やすだけで済ませていたというのはずさんすぎる話ではないかと素人の一個人でも思ってしまいます。


こういう事例が後を絶たない事態をあちこちで目の当たりにしていますと、何だか世の中全体の信頼性が急速に衰退してずさんになっていっているような気がします。


今日は少しねちっこいお話でした。





最近、人は夢を見ていないと生きていけないのではないかと、しきりに感じるようになりました。


特段、意味深なことを言うつもりはありませんが、本当は、人は現実よりも、その現実から生じた種々雑多な夢の中から、自分が見たいものを随時選びながら日々を過ごしていることのほうが多い気がしてきました。


その数々の夢の集合がこの社会であって、その経過の蓄積が歴史となって折り重なりながら今に至ると言えるかもしれません。


なので、いつの時も人々は、今この時を、ありのままに認識していると言うよりは、そこから派生した夢の断片、言い換えれば未来に続いていきそうなビジョンのベクトル、もっと単純に願望と欲求の矛先の具体的なもの、などを夢見ながら生きている、そんな解釈が成り立つような気がします。


ですが、夢は一方で、夢のままで終わらせずに現実化しょうという飽くなき欲求と挑戦を伴うなうのならば、より苛烈で残酷な一面を見ることにもなります。


夢を現実のものとするためには、物理的にも、精神的にも、あるいは先天的な要因や環境面など、たんに努力するだけではどうにもならない諸条件を含めて、不条理なほど不確定要素に左右される、高いハードルをいくつも超えて、その上でさえも成し得ないことがほとんどです。


だから人は一人だけで夢を見るのではなく、集団で一つの方向性を持ったビジョンを夢見るようになりました。


そのほうが確実に、かつ大きなスケールの夢を実現させることが可能になるからです。


しかし、そこには甘い誘惑にも似た、個人の資質を無視した、そこに参加するすべての人が報われるかのような、巧妙な嘘が潜んでいます。


人々が集団で、壮大なスケールの夢を見続けていようとも、その夢が叶い報われるための、高く不可解なハードルの数々は、依然として有効であることを忘れてはいけません。


そこに残酷な落とし穴があるとします、しかし、大方の人々は、その落とし穴にはまってしまうことを、心の奥底から恐れ、忌み嫌っていても、その集団が見る夢の船から一人降りてしまうことのほうが、なぜか、より恐れているものです。


その集団が見る、ある一時の夢のなかで生まれ、育った僕には、その夢の船が一体どこから来て、どこへ向かっていて、またいつ去っていくのか、知ることはかないませんが、おそらく、また次の船がやって来る頃には、その船の住人にとっては明らかなことになっているように、僕らにとって、かつて在った夢の船の存在のうちの幾つかについては、同じように明らかにできるという確信があります。


夢を見ることの残酷さについて、もう少しだけ。


今、夢を見続けることに疲れ始めている人が多い、ような気がします。


正確には、夢を現実化する際の方法論についての迷いに疲れた、もしくは、その夢のもたらす結果について、途中で信じられなくなった、夢を見る自分に気づくこともなく鏡の中にいる自分に、ただ何となく疲れた表情を見ることもある。


注意すべきことは、夢をみることでもたらされる残酷さは、決して遠くから来るのではなく、いつも、自分の最も身近な五感の中から現れ、集団で見る夢の中で孤立する自分に気付かされることです。


でも慌てることも、それで気落ちする必要もありません。


いわば青い鳥です。


見ているものは全て青い鳥に過ぎなかったと、先人が教えてくれています。


自分の心が見続けているものの質と、それを見続けている自分の心が確かなら、問題はおそらく、ほとんど消えて無くなるでしょう。


クオリティ・オブ・ライフ


わが人生の品質を決める基準はいかに?


ISO9002とかではなさそうですね。


今日はちょっと、フワフワした文章を書いてみました。







先日の総選挙は予想通り自民の圧勝で決まりました。


でも、同じ自民が勝つにしても、もう少しバランスのとれた結果にならなかったものかと思うこともあります。


BSニュースで今回の日本の選挙の結果について、つい3年前に50年続いた自民党政権が交代したばかりなのに最早もとの政権に戻るのはどうなのか?と外国人のアナリストが疑問符を投げかけているのを見ましたが、個人的にも共感できるところがあります。


また同じような感想を昨日の夕方の地元ニュースのインタビューで答えている有権者の方もいました。


自民がこれほど圧勝したからといって、国民の大多数が支持したわけではないということを検証しているブロガーさんもネット上では多く見かけます。


その中で、分り易く簡潔に数字を上げて検証している方の記事を紹介します(リンク)


この方の記事によると、有権者全体の3割にも満たない支持率で政権を獲得したことになります。


こういった結果になったのは(以前から違憲状態と指摘されている)小選挙区比例代表制のアンバランスによるところが大きいと思われますが、戦後最低を記録した投票率の低さも拍車をかけているようです。


いずれにしても、今のご時世における見通しの悪さと決められなさを反映した民意の結果と言えそうです。


改めて今回の結果について思考を巡らせると、単に民主党政権の3年間の体たらくが悪すぎたから、それじゃあ自民党政権に戻せばかつてのような良い時代が来るとか、そこまで期待できなくても今よりもマシな状況に改善できるのではといった期待感が強まっていたとすれば(心情的には理解できますが)個々の複雑な実情を考えると、その単純すぎる期待感の後ろに危うさの影が潜んでいないか心配な気がします。


なぜそのような懸念を抱いてしまうのかというと、一部で言われているような”人からコンクリートへの逆行”と揶揄されるほど極端な時代退行が行われることはさすがにないとしても、今回の選挙で掲げられていた自民党を始め各党の政策の中に今の状況を本当に打破できると思える内容がほとんど見当たらなかったからです。


脱原発は将来の日本にとって最も重要な課題ですが、その本当の論点は安全か否かではなく、今後も原発を運転するにしても停止するにしても生じる、長期に渡る莫大なコストをどう負担するかです。


原発は福島第一の事故によって安全に維持するためには、それ以前に比べてはるかに多くのコストを負担しなければならないことが確定しました。その長期に渡る避けがたいコストの負担方法は結局は電気料金の値上げか税金投入しかないでしょう。

諸外国はそういった日本の置かれている状況を他山の石として学び、一斉に脱原発か減原発の方向に舵を切っています。

いずれ原発に変わる効率的な発電システムが確立されて普及すれば、原発は完全に時代遅れの代物になり、いつまでも消えない危険性と維持費だけがかさむ負の遺産になることは明らかです。

今、積極的に原発を推進して恩恵を当てにしている地域も遠からず斜陽産業に落ちていくことを考慮すべき時期だと言えます。

しかし、そういった現実的な諸門題について、脱原発派や推進派の双方の候補者から積極的な発言は聞かれませんでした。



原発問題が将来に渡る長期的な最重要課題だとすると、今、現時点で一番重要な課題は長引く不景気と雇用難だと思います。


こういった経済情勢についての込み入った深い情勢はすべて省いて専門の方の弁に委ねるとして、原因と結論だけをぼくら素人B層でも理解できる範囲でできるだけ簡潔に述べてみたいと思います。

まず、ぶっちゃけた話、雇用を回復するために一番カンタン確実な方法は、国内の衣食住に必要な品々を半分でもいいから輸入や大手企業による生産から地域の零細中小企業に委ねるようにしてしまえば良いです。

ようは国内の産業を1980年台の水準とバランスに戻せばリッチでなくとも最低限の雇用と生活が維持されるという話ですが、それはグローバル市場経済の時代に反するため無理な話だとするのがつい最近までの常識でした。

ところが、世界を見渡せばそのグローバル市場が急速に縮小に向かっており、その流れを受けて日本と同じように国内の雇用難と長期の不況に苦しむアメリカやイギリスといった老舗の経済大国が、安い中国製品の輸入に頼らず自国内生産に回帰する運動が今盛んに行われています。

日本も先端技術による高度で特殊な産業ではなく、よりローカルで生活に密着した産業から順次国内生産に回帰させることで地方の景気も雇用も上向いてくるはずです。(たとえ世界に誇る最先端技がいくつも揃っていたとしても、それらの特殊な産業の需要は生活に直接関わる産業に比べてはるかに小さく、ゆえに国内の景気を底上げして国民の生活を向上させるほどの効果は期待できません)



生産だけではなく流通や小売の分野でも同様のことが言えます。


小売産業において20年以上前から起こった大きな変化は、全国チェーンの大型スーパーや量販店、コンビニや飲食店にいたるまで株式市場に上場した大手企業の寡占が進み、従来からの個人経営の店や地場経営の中小スーパーに取って変わっていったことです。


これによって失われたものは地域経済の中で実際に流通する豊かさです。


昔は近所の商店街の八百屋さんや魚屋さん、金物屋さんに洋服店などで買い物を済ませていました。

今は大型スーパーやホームセンターで大方の買い物を済ませる時代です。

それによって地域で消費されるお金の流れが大きく変わりました。

昔の商店街型小売業では売上はそのまま事業者の懐に入り、その収入を消費者として他の小売店で消費することで今度はその事業者の収入になっていました。


こういったサイクルが狭い地域の経済の中で繰り返されることで常に一定のお金が循環して景気が維持されていました。


ところが90年代以降、全国チェーンの大手スーパーやコンビニなどに地域の地場小売業が取って代わられてしまうと、そこで購入された利益は一旦中央の本部に集約されて社員やパートタイマーの賃金や商品の仕入れ代金として支払われる一方、その内の多くは株主配当や株式市場を通して運用されていくわけです。(その中で地元の雇用効果や賃金として支払われたお金の多くも同じような全国規模の市場企業で消費されることで地元の経済にとどまらなくなります)

地域の経済の構造がそのような仕組みに変化したことで、それ以前までは地域経済の中で自己完結していたお金の流れが中央に集約されて、さらにグローバルな市場を通して日本国内のみならず世界全体に流れていくようになりました。


これが過去20年間に市場と直結した中央の景気と地方の経済との格差がこれほど急速に拡大した主な理由のほんの一例です。(こういった地方における構造的な症状は生産や小売に留まらず、農林水産業や鉱工業、金融サービス業に至るまで地方のすべての産業に影を落としています)


富の源泉であるグローバル市場と直接結びつくことのない地方の経済においては、競争の激しい中央の市場に直接打って出るか、または低コストな大手企業の仕事を引き受けるか、あるいは観光などで外から人とお金を集めなければ地元の経済と暮らしを維持できない状況に追い込まれていきました。(地方経済の衰退の理由はこれまでは主に過疎化による人口減少が主な要因として扱われてきましたが、それだけでは一定の人口と市場規模があるはずの地方の中核都市でさえシャッター街化していることへの正確な説明にはならないでしょう)


長引く不況と雇用難を解決するために相変わらずデフレ脱却が叫ばれていますが、なぜデフレが解消しないかというと、中央と地方を合わせた一般の大多数の消費者の懐が一向に満たされないためであり、無理な金融緩和をしてお金を刷っても、ただ市場に吸収されるだけでは本当の意味で景気が上向くことは期待できないと思われます。(それどころか、国の赤字国債や建設国債を無制限に中央銀行に買わせるという手法は選挙期間中に野田首相が言っていたとおり、政府の財政において破産のリスクを高める禁じ手とされる手法です。慎重に検討されるべき問題だと思います)

昔に比べてはるかに便利で豊かになった現在の世の中をすべて否定して昔に戻れば良いとは思いませんが、ようはバランスの問題で、市場や大企業の利益に偏り過ぎないようした上で、地方の小さな経済にも配慮した政策が実施されることを期待します。(そうすることが出来れば、普通に暮らしている人たちの間に豊富にお金が流れるようになり、景気や雇用の改善にとどまらず、人々が大切に思っている物事や新たに挑戦してみたい活動や地域を自分たちの手で活性化し豊かにできる事業などの実現のチャンスが高まります)



最後に、小さな島を巡って大騒動が起こったあげく、タイミングよくミサイルまで飛んでくる、ご近所の国々とのこじれた関係についてですが、何分、大方の普通の日本人と同じで国外情勢には疎いうえに、自信を持って明確に言えることはなく、鈍い判断しかできないのですが、大事なことなので確認しておこうと思います。


外交に付き物とされる複雑で難しい事情についてはよくわかりませんが、ただ大事なことはどの国がどんなに勇ましく、たとえどんなにこちらにとって迷惑な主張を展開しようとも、そこには常に本音と建前があって、一見すると取り付く島もないほど深刻に対立していたとしても、何処の国でも本音では互いに利益になることを常に望んでいて、その逆はできる限り避けようとしているものです。

それは世界中何処の国との関係においても同じで、いわば世界の常識の根底に今も昔も変わらず常に流れている基本的想念の形です。

さらに言えば、日本において望ましいことが、他の国々にとって望ましいことなのか、そうでないことなのかの判断を違わなければ、たとえ互いにとって引くに引けない深刻な問題が横たわり続けても、最悪の結論に至る道を避けながら互いに最善の結果を目指すことは常に可能なわけです。

ところが、この重要な判断の基準をかつてぼく達の国は大きく違えて悲劇の道へ突き進んだことがあります。

それは当時の日本の国にとって最も望まれていたことが、周辺諸外国にとっては正反対に最も望まれていないことに国民全体が気づかなかったことで引き起こされました。(当時の日本の国民はそれを良かれと思ってやることにほとんど疑問を持つことができませんでした)


その過ちの結末は日本にとっても周りの国々にとっても空前の犠牲を強いるものでした。

再び同じような過ちへ至る空気が感じられるようになってきたことが今一番心配なことです。


長くなりましたが、これで一応選挙権を持つ有権者として、今回の選挙を終えた時点での世の中の現状について、最小限確認しておきたかったことを書いておきました。






パソコンデスクの横の窓から鈴虫の鳴き声が聞こえてきます。


寝ている時も鳴き続けていますが何とも良い音色ですね。


相変わらず夏バテ気味で元気がありませんが、鈴虫の歌声に癒されながら養生しています。


そんな停滞期でも思考は止めずに毎日あれやこれやと思いを巡らしているのですが、なかなかコレといった答えが見つからず悶々としています。


今、現実で起きている変化に自分の想像力と認識力が追いついていません。


無理に行き急いでも仕方がないので、できることをこなしながら待ちの姿勢でじっくり構えて行こうと思います。


一言で変化といっても、現実社会の変化、経済情勢の変化、自然環境の急変、それらの変化から予測される事態の推移、その結果起こるであろう人々の価値観と人生観の大きな転換、そして自分が小説に書くべき題材の焦点を定められること、ざっとここまでが常識の範疇として捉えられる変化の領域だと思います。


それらに加えて若干常識領域から離れた名目として、スピリチュアルな領域による変化について、ネット上で様々に語られる可能性について、どうしても目が離せません。


物によってはまったく荒唐無稽、あるいは空想の産物としてしか常識では認識できない物事について語られていますが、よく読んで調べてみると、現実社金との一定の整合性と倫理的な必然性を兼ね備えていることが分かります。


その中で個人的に最も重要だと感じられることは後者の倫理的な必然性です。


現在の人間社会の状況と価値観は共に行き詰まりつつあると思います。


現状の延長線には社会の健全な発展も、その中で暮らす一人ひとりの個人の成長進歩も殆ど望めなくなっていると思われて仕方ありません。


そういった閉塞状況を打破するためには、相当な規模のブレイクスルーと、新たに現状よりもはるかに高度な文化的な倫理観と人間性を兼ね備えた文明社会の雛形と、人々をそこへ向かわせる未知なる魅力的な領域の存在が必要になってくると思われます。


ところが現状の世界には、そういった絶対的に進んだ文明社会を持った国や地域、あるいは文化領域はまったく見られません。


それどころか陳腐化した社会制度とインフラ構造、停滞と焼き直しの繰り返しに陥っている文化とその結果による退廃的な人間性しか残されていないように思えます。


そういう必要性から鑑みると、主にスピリチュアル領域から始まった変革と未知なる価値観による啓蒙と予告は俄に重要な意味を持ち始めているように思えます。


それらがいかに突飛な予測と言えども、いかに常識的価値観を持ってしても、その可能性の全てまで消し去ることはできません。


たとえ半信半疑でも、そういったメッセージの数々に触れながら自らの狭い意識の壁を超えて少しづつ心の目を広げていくことに務めるべき時が来たと思います。


目にしたメッセージの中で語られていた中で取り分けて心に残ったことは、現状の人々の価値観の視野の狭さについて、その根本にある要因がいくつか端的に語られていたことです。


そこには、人間は自らが見たいと望む現実だけを認識することに長けていて、その見たいと望んだ出来事や分野だけをつなぎ合わせて自分固有の世界観を作り上げる才能があり、それを平均的現実感と重ね合わせることで自らの価値観を世界そのものと同化して見る傾向があり、それゆえに錯覚から逃れられない宿命があるというような意味が記されていました。


また、もっとシンプルな要因として、人間の文化と価値観には長年に渡る生存競争によって培われた生き残り願望が根強く、ゆえに競争意識の枠の中でしか思考できない傾向があり、これによって自分と異なる他者との区別、対立が著しく生じやすい精神ならびに文化構造を脱し切れないと指摘されていました。


これらの指摘はまさに的を得たもので、これからの人間性と文化の進化向上にとって真っ先に解決しなければならない課題のように思われます。


なぜなら、これらの指摘された性質を理解して克服することができたなら、人種や文化の違い、個々人や国家間の利害と価値観の違いから生じる対立構造を解消できる方向に進むことができると思われるからです。


少々理屈ぽっくなりましたが、これらは僕個人としても小説の題材の中で表現して昇華したい題目です。


今日は久々の更新になりましたが、秋の夜長に鈴虫の音色を聞きながら駄文を並べてみました。







精神論の世界に明るい人ならよく知られた方法論だとすぐに納得されると思います。


そこまで知らない人でもどこかでその名前について聞いたことくらいはあるかもしれません。


俗に最強の成功術などともてはやされていますが、たしかにこれは丸っきりのウソではなく実際に効果がある精神論的法則だと思います。


しかし、そこには強力な落とし穴があります。


この引き寄せの法則について絶賛しているある大学生の手記とされている一文を引用したブロガーさんのリンクを参考までに貼っておきます。⇒(こちら)


この大学生の手記とされる一文を読んでどう思われたでしょうか?


感想は人それぞれだと思いますし、またそれで良いのだと思います。


ただ、この引き寄せの法則について肝心要の本当に大切なことについて丸っきり抜けていることがあるので、それについてお話しようと思います。


引き寄せの法則は確かにホンモノです。


しかし、だからこそ使い方を間違えるとコワイのです。


この大学生の手記の考え方によれば、数%の成功者とされる人たちが、引き寄せの法則と意識するしないに関わらず、それに類いする自分中心視点のポジティブシンキングを強く信じ抜く意思の力でその成功を納めたということが言えます。


これは一面の真実で、多分十中八九そのとおりだと思います。


では、その反対の人間はどうかというと、自分が望むことよりも望まないことや、そこから生じる不安や不満にばかり意識が向いて、それが指し示すビジョンのほうが現実化してしまい不幸になると言っています。


これもまた一面の真実だと思います。


ただ、ここで”一面の”と条件付けしたところがポイントで、その抜け落ちた他方面の真実が落とし穴へとつながっていくのです。


その他方面の真実とは何か?


人間の成功したいという願望に限らず、何か自分の満足につながる欲求を満たそうとするとき、その実現に必要な対象が限られたもので、すべての人がその恩恵を手にすることが出来ない存在であるとき、それを手にしようとする欲求と同時に他の誰かがそれを手にして欲しくないという欲求も同時に生じるものなのです。


これはどんなに偉大な人格者や成功者も人間であるならばみな一緒です。


つまり、自分が成功したいという欲求と他人が落ちればいいという欲求は表裏一体で、そのどちらかが強まれば片方も同じだけ強まるのです。


つまり世の中で大成功を収めた人間はそれだけライバルが落ちればイイという思いも強く抱き続けてきた人間です。


ここで成功者を悪く言うつもりはありません。


ただ人間はやましい感情を抱いた時、それに抗って乗り越えようとする人間と、そんなものはつゆ一つございませんという顔をしている人と、臆することなくムキ出しにして生きている人間とに分かれるだけです。


そこに善悪のジャッジは必要ありません。


世界の富の96%をわずか1%の人たちが手にすることを可能にした仕組みを、その成功者たちの強い信念の積み重ねによる賜物だと書かれていましたが、それも十中八九本当のことです。


そして、その成功者たちの強い願望の反面である、自分たちの成功の証である財産を他の誰かに奪われたくないという裏の願望も強力に実現することになりました。


今、世界中を覆う格差の嵐もこの”引き寄せの法則”で説明できてしまうのです。


そして、ここからが大事なことですが、人間からすると一見万能のように思える引き寄せの法則ですが、いかに最強の成功法則とされるものであったとしても、神様がこの地球上に据えた無限の隠された法則の一つに過ぎず、その一つを持ってして神の領域に近づいたと思っているのは幼児がおもちゃを持って得意になっているかのごとく稚拙なことです。


この世の富は有限です。


それは最初から決められていることです。


神様はこの世の人間たちが全員幸せになるためには分け与えるしか方法がないように作られました。


ところが人間はそういったことには一向に満足せず、一握りの強者が競争しあって奪い合い、その富によって大多数の人々が支配される世の中を延々と作り続けては滅ぶというサイクルを繰り返してきました。


そして、いつの時代もそういった世の中を支えてきた人たちは頂点まで上り詰めることの出来ない、またそうするつもりもない、もともと奪い合う気もない大多数の普通の人たちです。


例の大学生の手記の内容が丸っきり抜け落ちている視点はそこです。


すべての人が成功者になれるということは物理的に不可能なのです。


イチローにしても、もし観客となってくれる大多数のファンが居なければイチローではありえないのです。


別にイチローさんが悪いわけではありませんが、今の世の中のシステムはその善悪にかかわらず、世の中の成功者の願望や都合、その他の一般大衆の抱く夢や願望が最大限効率良く実現できるように進化し続けています。


でもその一方で、多くの人たちの先に挙げたような競争心や独占欲を満たしたいという願望を実現するようにも法則が働き続けていますから、同時に99%の人たちが生きていくことさえ困難になるほど物理的、精神的に追い詰められるような社会に向かっていきます。


世界中の多くの人たちが幸せになるためにこれだけ一生懸命に頑張っているのに、結果は真逆のように苦しみに満ちたものになる原因はそこにあります。


つまり、人間が幸せになるために望むものを他者より長じる成功以外に求められるようになるまでは、この苦しみのスパイラルが終わることはないのです。


しかし、人間が自発的に負のスパイラルを終わらせることができなくても、それが終わる時は自然にやってきます。


他でもない、成功者たちが望んだ裏の願望が極まり、世の中を下で支えてきた人々が疲弊しきってもはや支えきれなくなった時、その世の中と時代はあっけなく崩れて歴史の中に去っていきます。


そして新しいスパイラルが再び始まることの繰り返しです。


地球上で生まれた歴史上どの文明も永遠に繁栄することは叶わなかった理由です。


”盛者必衰の理”と日本の平家物語でも語られていますね。


この影の理は個人の人生にも当てはまります。


もし、引き寄せの法則を使って人生が順風満帆の成功をおさめることができたとしても、その影で誰かを蹴落としたり、あるいはその気がなくても結果的に誰かを犠牲にしてしまっては、その人の人生の上で大きな心と霊の借金を背負うことになります。


そして、この社会の仕組みはそういった個人的な成功に伴う負い目や罪悪感を軽減できるようなルールと制度が巧妙に兼ね備えられています。


ところが心と霊の領域ではそういった社会や組織の制度が与えてくれる免罪符は効かないのです。


たとえば原発問題や大津のいじめのように社会的組織防衛に走り、それが自分が所属する組織や社会のためだとして自己正当化したとしても、個人の魂と良心の領域ではずっと重い十字架を背負い続けることになるのです。


だから、先に上げた大学生のような考え方をする前に自分の内面に問いかけなければならないのです。



       ”そこに自分中心の欲望が潜んでいないか” 

       ”他人を蹴落としたい願望が潜んでいないか” 

       ”本当にそれを望むことが正しいことなのか” 

       ”そこに他人を思いやる気持ちがあるのか” 

       ”そこに憐れみの心があるのか” 

       ”そこに本当の愛が存在するのか”





大学生の若者が自分の成功第一で自分の人生観を捉えているのは自然なことです。


でもそこで何を望むかの違いで人生の行き先が決まってしまうのです。


先の大学生の心のなかに上のような問いかけをする心性を備えていれば引き寄せの法則の通り物心両面で成功をおさめるでしょう。


しかし、そういった自己の内面との問いかけなしに社会的成功欲だけでこの引き寄せの法則を使ってしまうと、その心の有様のとおりの物質的成功しか収められないでしょう。


そういった成功だけを得て晩年に後悔が募る人生を送っている人たちが実に多い現実を見れば納得できるはずです。


本当に大事なことは成功という結果やそこに至る方法論ではなく最初にあった動機=心です。


心を優先して生き抜いた人はすべて真の意味での成功者です。


たとえそれが他者に比べて不利益であったり不毛に見えたりしてもです。


もし大学生の皆さんが例の手記とこの記事を見ていたら、自由に考える時間が許されている内にじっくり向きあってほしい課題です。


最後に聖書の福音書の冒頭にある山上の垂訓と呼ばれるイエスの言説から引用したいと思います。


そこには苦しみ悲しむ人々は幸いであると説かれています。


たとえそれが自らの弱さや身から出たサビであったとしてもです。


なぜなら人間は苦しみや悲しみを通してしか真の慈悲心を抱けない存在だからです。


心が誠実で他人の痛みや苦しみを理解できる人は同じだけつらい思いをしてきた人だけです。


生まれつきそういった徳に恵まれた人も居ますが、それは両親の教育や環境が良かったためとは限らず、もともとその人の魂がそういった経験を刻んできているからです。


人間は苦悩を乗り越えて初めて人を愛し愛されるようになります。


そのために、たとえ世の中の九割の人々が苦悩に満ちた人生を送ろうとも真の希望が失われることはありません。


引き寄せの法則を使って成功を導くことが人生の至上命題であるはずはないのはそれが愛に至る道ではないからです。



もう一度問いかけます。


そこに本当の愛はありますか?





PS)
もう二言付け足します。人間は自分が死ぬということを忘れがちな生き物です。だから一時のモノでしかない地位や名誉や財産にいつまでもしがみつこうとします。人間は自分が死ぬことを想定して初めて自分の人生にとって重要なものとそうでないものの区別ができるようになります。それを若い内に意識して成功へ結びつけた人の代表例がアップルのスティーブ・ジョブズ氏です。でもそれだけでは人生において真の満足と幸福感を得られるとは言えません。もう一つ必要なことは死んで逃げ得はありえないということを知ることです。人間の心と魂に刻まれた記憶はどんなものであっても永遠だと古今東西の聖者や賢者は言い続けてきました。魂の永遠性についてはもはや信じるか否かしかない領域ですが、信じたほうがポジティブで充実した人生がおくれそうですし、たとえ100%信じられず半信半疑だったとしても、何事にもそういう前提で向きあったほうが前向きに生きられます。一番最悪なのは、死ねば終わりなんだから他人を蹴落としてでも自分の欲望を最大限に求めて罪を犯しても気にもとめないという生き方です。もし魂が不滅ならばそういった意識のまま永遠に存在し続けることになります。でも逃げ得はありえません。生きている間に悔い改めて自分の心のあり方を変えることが出来ればその人は救われます。人生をより良く生きるための指針として二つの蛇足を付け足しました。




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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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