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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今年は沢山の尊敬された人たちが旅立っていった一年でした。

ここ数年間は旅だった人たちが特に多かったような気がします。

それはごく自然の摂理の結果ですが時代がいよいよ終わっていくようでとてもさびしい気がします。

まるで時代の真ん中にあった何かが抜け落ちていくようです。

こういった人たちに共通した徳目はどの人も自分の後に続く若い世代のことを常に気にかけて導こうとしていたことです。

自らの人生を通して築き上げた功績のみにとどまることなく未来の若い世代のために積極的に関わり鼓舞し続けた行跡が光り輝いています。

それゆえに多くの人達から世代や性別を超えて尊敬され最後まで惜しまれる人生となったのかもしれません。

現代の時代と文化の礎を築いた多くの分野における功労者となった方たちが相次いで去られていますが、こういった惜しまれる人たちの多くが大なり小なり戦争の時代をそれぞれの立場で経験した人たちでした。

戦争の時代を直に体験するということは当時を生き抜いた人たちの精神的な背景に多大な影響を及ぼしたのだろうと推察します。

大勢の若い命が消耗品のようにあっけなくすり潰されていった時代の苛烈さと無念さがどれほどのものであったか今のぼくには正確に推し量ることができません。

戦後という時代はそういった戦争の時代の反省と悔恨の思いを背景に形作られていったのではないかと思います。

平和な戦後の時代の中で生まれた有形無形のあらゆる文化や物質的な豊かさが次に生まれてくる新しい世代の幸福を願って創造され、その前向きな息吹が社会全体に満たされた結果が一億総中流と謳われ記憶された古きよき懐かしいあの時代だったのだと思います。

そして時代は巡り回って今一度不透明な不安と不穏な空気に満たされる次節を迎えつつあります。

なぜあの決して繰り返してはいけない暗黒の時代と同じような空気が再び満ち始めなければならないのか考えてみました。

戦後という一時代の文化と精神の土台を築いたのは戦争以前の世代であり、その新たに造られた時代の先端を走り牽引するのは常にその時々の若い世代の中から選ばれたカリスマ的なエリートという構図がありました。

時代の先端に踊り出る若者の檜舞台を誂えることが出来たのは古い世代の人たちの持つ力と一歩先を見定められる見識の明でした。

古い世代と若い世代の連携が出来て初めてその時代は活力にあふれた力強い時代として存続することが出来ます。

一つの時代が一定期間を超えて長く継続するとその時代の真ん中を締める中心世代の若返りの新陳代謝が滞り始めます。

それは時代の中心を締める中堅以上の世代が後に続く世代のために進むべき方向を示し活躍出来る場所を一歩下がって譲ることをしなくなることで起こります。

未来の世代が今の時代を継承して新しい時代を若い世代が自らの力で切り開いていくよりも、自分たちの存在の優位さと価値観が中心にある時代が永続することを望むという欲望の塊がそうさせます。

その普遍的な背景は若い時期にあらかじめよく準備された活躍の場において大きな充足感を得られたことでいつまでもそれを維持して自分たちが輝いていたいという単純な欲望です。

かつてその無邪気な悪意に基づかない幼い欲望にとりつかれた世代があれだけ悲惨な戦争を引き起こしたのです。

暗黒の時代が生じる時は必ずそういった世代間の背景にある隠れた見えにくい因果も一緒にまき起こるものです。

勝つ見込みの全く無い戦争に国全体を巻き込んでいった張本人は、それ以前の時代の輝かしい戦果として記録された日露戦争前後の勇躍に国中が湧き上がった当時の若者が年を経て中高年になった時期に世の中の中枢を担った世代でした。

彼らは自分たちの主義主張を国の権威としてそれをもって自分たちよりも若い世代を洗脳し何も考えさせないまま選択の自由も全て取り上げて辺境の戦地へ送り込み続けました。

若い世代の意識は思慮浅く判断力に乏しいですが、その集合は世の中を真に前進させ発展継続させるエネルギーに満ちています。

その貴重な若い世代が持つエネルギーと存在自身を時代の中心から遠く隔たれた戦地で無残に潰えさせた結果、その暗黒の悪しき時代は膨大な犠牲と悲劇を伴いながらあっという間の短期間で消滅しました。

自分たちの価値観と行為こそが無条件に唯一の絶対正義であり真実だと思い込んだ世代が切望した自分たち中心の世界がまかり通る時代の永遠の存続という狂った願望が成就することはついに叶いませんでした。

それをやってのけた軍部中枢にいた責任ある立場にあった人たちが戦後の時代を通してはるか21世紀まで大勢で存命していたことをNHKのドキュメント番組で知りました。

彼らが戦争を始める決断をしたその時すでに彼らの時代と価値観はすでに老い始めていました。

強力な軍隊を用いて植民地を拡張しながら豊かな国を築く帝国主義が当時すでに時代遅れとなっていたのです。

すでに時代遅れな価値観と意識の腐敗を覆い隠すために頼ったものが当時最新鋭だった軍事技術による戦艦や戦闘機などの優れた兵器の存在でした。

ところが戦争が終わってしまえばそれら最新技術による戦闘兵器は全て無用の長物と化しました。

明治維新の功労者たちが教え導いた昭和における戦争推進世代が次の若い世代のための賢明な世代継承を怠り自らの価値観の延命を若者に押し付けてその命運を強制的に断ちました。

ここにどこか今の時代が直面しているジレンマに相通じる見えざる教訓が潜んでいるように思います。

時節柄、気になることですが、とりわけて政治権力者の心理的背景にある歪みの本質は今も昔も何ら変わらないものがあります。
 
ここ最近の世の中の様子をつぶさに振り返ってみると時代の意識や価値観の停滞が甚だしく続いているように思います。

戦争の悔恨と反省に立った古い世代の人たちが築き上げた新たな社会という舞台に踊りでた戦後生まれの当時の若い世代が、その舞台の上でそれぞれの花を咲かせることを競いあうように豊かで華やかな時代を醸造することに成功したあと、その戦争を知らない若者だった世代が一斉に老いるとともに戦争を体験した古い世代も一斉にこの世を去っていくという状況の今この時期に一体どんな変化が世の中で起きようとしているのでしょうか。

現在の時代において若い世代の多くは精神的にも物理的にも時代の中心の外側に拡がるドーナツ状の外環部へ追いやられているといえます。

今の現役以上の世代の多くが期待する自分たちにとって居心地の良い社会の継続と健やかな老後の保証を支える力はこれからの若い世代から消えつつあります。

ドーナツの外環部へ押しのけられた若い世代の多くはその中でどうにか生きていくのがやっとの厳しい状況に曝されて消耗し続けていきます。

時代の中枢を占め続ける中高年の世代よりも先に若者の生きるための生活力の方が潰えてしまった時、同時にこの時代も存続する力を失うでしょう。

それは歴史の因果の教訓が証明している事実です。

時間を遡って古い時代の例を取り上げてみましょう。

江戸時代が終わり明治の世が開けたのも当時の若い世代の意識が幕藩体制の封建社会のなかにはなく年老いた世代の意識が中心だったためです。

不公平な封建身分社会である江戸時代が速やかに終わったおかげで急速な西洋化と富国強兵が可能になり欧米列強からの植民地化の圧力から影で大きな代償を払いながらもかろうじて独立を維持することになりました。
 
さらに歴史をさかのぼり戦国時代の終焉においても同じような因果の法則が見いだせます。

常に戦を中心に天下を動かしてきた戦国武将の世代が老いた時、徳川家康は戦に頼らなくとも世の中を動かすことの出来る若い官僚型の武士の育成とルール作りに勤しんでいました。

世の中の中心から長年に渡り繰り返された戦を追い出すことで庶民の生活の場の不用意な荒廃を止めることが狙いでした。
 
最後まで戦に頼ることしか出来なかった古い意識の武将たちは豊富家に集結させられてまとめて刈り取られていきました。

家康、秀忠、家光の三代で大阪夏冬の陣、天草四郎の乱、由井正雪の乱などの最後の戦を通して戦しか能の無い古い意識の武士を徹底的に根絶し260年続く太平の世の礎を築き上げました。

平和な時代を安定した状態で継続させるためにはその時代の一つ先を見据えた賢明な世代継承の継続が必要不可欠であることを数多の歴史的教訓が証明しています。

歴史の中で見られる事例の中には現代の状況にも当てはまるものがたくさんあります。

とりわけて古い時代から全く新しい時代の移行に際してはその当時の若い世代の意識的な支持のあるなしに必ずと言っていいほど左右されます。
 
これは善悪では推し量れない時代の法則でもあります。

善悪の判断や道徳観だけで今の時代の推移を推し量ろうとしても結果を見誤ります。

起こっている状況に善悪の違いはもはや関係ないからです。

時代の行く末に対する不安をその場限りの善悪の判断にすがってやり過ごそうとすれば深刻な盲目状態に陥ります。

そしてまた最新の科学技術や文明の利器に頼ろうとしたところで人間の自然な老いと時の経過と連動した時代意識の老朽化からは誰一人として逃れられません。

かつて戦争の時代を推し進めた世代が最新兵器の力に物理的にも心理的にもすがろうとしましたがその曇った盲目意識を補うものにはなりえませんでした。

同じように経済発展一辺倒の最新のテクノロジーによる工業先進国としての技術力や経済力に頼ろうとしても、すでに世界は日本の工業力なしでも十分にやっていける水準まで進化しています。

来たるべき時代の中心に工業技術による経済競争というお金の戦争を据えても豊かな発展も平穏な暮らしの継続も期待できない時節になりつつあると言えそうです。
 
それらの形ある人類の英知の結晶はどれも一つの終わりゆく時代意識の老いた姿を一時的に糊塗する以上に役立つものではありません。

今の時代は見た目の先進性だけでその中身は急速に老いています。

それは時代の中心に若者の姿がいないことから明らかです。

自分の意識が老化していくことを忘れた世代の人々がその時代を終焉へと導いていきます。

人間の意識が時代の状況を適切に捉えてコントロールできるのはせいぜい五十歳代くらいまでです。

その閾を超えればそれまで生きてきた時代に影響された意識の偏りが大なり小なり生じてきます。

その考え方の誤差のあるなしに関係なくエネルギーのレベルで一方的に消耗しながら終りを迎える方向に進むものです。

常に若い世代の新しいエネルギーを時代の真ん中に取り入れて活性化させる理由がそこにあります。

若い世代を差し置いてでも自分たちの満足する道を人生の最後まで追求し続けるか、それとも若い世代が躍動しながら前進出来るための豊かな土壌を耕すことに残された人生を捧げる生き方をとるのか、今の時代に対して責任ある立場の世代の人たちはその行為の結果の反射を持ってシビアに問われ始めるでしょう。

若い世代の集合意識はドーナツの外環部から時代の中心部の有り様を、ただ無言で見つめながら結果が出るまで待ち続ける他に何ら働きかけるすべを持たない脆弱な存在としてとめ置かれたままでいます。

傲慢な世代が容赦なく根こそぎ一掃されるという記述を古代の神話の行間に繰り返し見られますが、現代の世界がその記述にある通りの末路を辿らないために今一度謙虚になって考えるべきことがあると思います。



PS.)
書いているぼく自身もいつまでも若い世代の代表みたいなつもりでいられない微妙な年頃になってきました。ぼくが中高年になった頃には少なくとも今よりもマシな状況になっていることを一応希望してみますが現実は難しいかもしれません。そんな微かな希望に望みを託すよりもいっそのこと大きな変革を経て一から新しい時代が始まった方がぼくらよりも若い世代にとっては幸せかもしれません。いずれにしても現状にただ期待しているだけでは個人的にも人生を切り開ける状況にないので出来る限り精進して結果を残すことが大切だと思っています。今回は意識の老いというテーマについて書いてみましたが、実際には実年齢とは関係ないことが多く、たとえお年をめしていてもより若々しい意識でいられる人もいます。反対に実年齢が若くても意識のなかに固定観念や否定の思考が多くあると精神が若々しいとはいえないかもしれません。意識の中身が否定の要素ばかりで一杯にならないように注意が必要です。特に物語について考える際はより瑞々しいストーリー展開を編み出せるようできるだけ風通しのよい意識でいたいものです。ぼくが物語を通して次の世代に残していけるものは今までの時代で起きた出来事の意味を出来るだけ明確な記憶と教訓の形で書き残すことです。そして同時代を生きた世代に向けては同じ意味で少しでも納得のいく解釈を提供することです。そうすることで時代にとっても個々人にとっても前進するためのささやかな糧となる小説を目指して今日もシナリオ作りに精を出しています。ここで述べている細々とした理屈を消化しながらいい意味でそれらを無視した単純明快な物語になればいいなと思います。



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好ましいこと、キレイなこと、都合の良い物事だけを見て知っているだけでは豊かになれない。

面白くないこと、難しいこと、きな臭いこと、汚らわしいこと、興味のないこと、世の中の政治経済ネタ、世界の変化、どうでもよいようで無視できないこと、自分には関係ないと思われること、など。

全てコインの裏表のような関係にあるのだから、両方の図柄を知っていなければ一つの物事として完結しないのは道理だ。

不景気、不景気と何かとあれば連呼されるようになって一体何年経つのだろうか。

そのうち地方や末端にも恩恵が行き渡り元気になると10年前のあの人の時も言われていたような気がするのは気のせいですか。

穴のあいた袋に水を流し続けても貯まることはない。

栓をし忘れた風呂にお湯を貯めようとしても結果は同じこと。

この20年の間に穴は増え続け拡大した。

貯めようとした側から外に流れ落ちる水を眺めている滑稽さ。

穴を埋める布アテはまだですか。

穴から落ちた水を汲み取ることは可能ですか。

穴を開けたネズミはどこへ行った。

地球は暖かくなっているというけど本当ですか。

外はとても寒いですよ。

今は冬だからそれは当たり前のことだけど。

コインの裏表。

一枚の五円玉。

ひっくり返しても真ん中に穴が開いていますね。

穴の中から覗いてみたらそこは裏ですか、それとも表でしたか。

裏表で一枚の五円玉。

表と裏で10円になっていたのは世の中の秘密の秘密。

今度50円玉でやってみよう。

表と裏で100円になったら安いジュースが買えちゃうんだから。




 



今日の記事も昨日の独り言のつづきです。


人生、人生、人生、自分、自分、自分、、と延々と連呼し続けているようですが、つまるところ人にはそれしか無いのですからしようがありません。

あまり重苦しいことばかり書き連ねて肩がこるので今回は少し知っておいて得をする生きるコツのような知恵を含んだ話をしようと思います。

人の生き様とは本当に様々で人それぞれです。

こんな素晴らしい生き方が出来るなんてと思わせられる人もいれば、刑務所に服役しても償いきれないような重い罪を重ね続ける最悪な人生を送る人もいます。

限りない幸福と祝福に満ちた人生を送る人もいれば、本当に気の毒で可哀想な人生を送る人もいます。

力強い意志で未知の世界を切り開いていく人もいます。

意志の矛先が定まらず右に左に流されて生きていく人もいます。

人の役に立つ有用な人物になれる人。

誰かが背負わなければならない辛い役割を担う人。

うまく避けながら生きる人。

忙しい人。

忙しすぎる人。

暇な人。

役に立っているのかどうかわからないけど愉快な人。

楽天的な人。

深刻に思い悩む人。

頭のいい人。

勉強はちんぷんかんぷんな人。

優しい人。

悲しい人。

意地悪な人。

情の深い人。

裏表のある人。

支離滅裂な人。

厳しい人。

他人には厳しいけど自分にはとことん甘い人。

優しいけど薄情な人。

絶対に裏切らない篤実な人。

誠実な人。

品行方正だけどどこか冷たい人。

暖っかい人。

近づきがたい人。

地味な人。

目立つ人。

踊りだす人。

才能豊かな人。

カリスマ性のある人。

ピアノが弾ける人。

歌ががうまい人。

スポーツ万能な人。

サッカーボールが友達な人。

メタボな人。

痩せた人。

背の高い人。

背の高くない人。

イケメンな人。

イケメンではない人。

美人な人。

可愛い人。

美人薄幸な人。

センスのいい人。

センスがいいですねと言われる人。

器用な人。

器用に生きられる人。

自分は不器用な男ですからとつぶやく人。

人を影から操れる人。

偉い人。

偉くない人。

偉くなれなかった人。

微妙な人。

お金持ちな人。

お金のない人。

お金を使うのがうまい人。

ギャンブルで勝てる人。

負け組な人。

勝ち組な人。

やっぱり微妙な人。

怖い人。

人を怖いと思う人。

スプーンを曲げられる人。

宇宙と交信できると言う人。

何のとりえもないという人。

生きることに疲れた人。

元気な人。

本気で生きている人。

俺だって本気出せば凄いんだぜって心のなかでいつも思っているだけの人。

今こういうことを書き連ねながら次の展開に思いあぐねている自分のような人。

こう書き連ねていけばほとんど止めどなく延々と思いつくほど人の特質や性分はバラエティーに富んでいます。

作家を目指して人や人生についてあれこれ考え続けましたが、一人一人のこういった性質の差とは根本的に何なのかということについて決定的な解答は見つけられずにいます。

そこを真剣に考え続けてもはっきりした答えなんて存在しないだろうし、その答えが仮に出たとしてもそれでよい小説が書けるとも思えません。

一つの小説の中で様々な個性と性分を持った人物たちを描き分けられる程度の知識を蓄えた今の自分の見方として言えることは、人の人生とその生き方は決して良し悪しだけで割り切れるものではないということだけは言えます。

良し悪しや善悪の区別だけで人を断定ばかりしても豊かな洞察は得られませんでした。

貧弱な人生観しか持てないのは嫌なのでそこのところを一生懸命に考えてきました。

幸せと悲しみの両極端の狭間で揺れ動き続けるのが人生の重い一局面ならその中心で居座っている存在は何物なのか。

そこの核心さえ掴み取ることが出来れば架空でも豊かな人物像とストーリーを描き出せるのではないかと考えました。

人生は一見すると複雑で同時に限りなくシンプルなものだと言われているのをどこかで聞いたことがあります。

どんな人にもその人の人格の核心にあるものがたった一つだけ存在します。

その核心にあるものがその人自身の存在と存在する世界と環境を形作るという過程がつまるところその人の人生そのものあるという仮説を立ててみました。

自分の心の中心に在るものに常に注意を払ってみてください。

それに相応しい世界が未来の現実になります。

同じように今までの自分の人生の記憶と思い出の中でその時々に心の真ん中を占めてきたものは何でしたか。

それが今現在の自分と自分が存在する世界を形作ってきました。

ポジティブな意識はポジティブな世界を生み出しネガティブな意識はネガティブな世界を形作りやすくなるというよく言われている人生の法則は嘘ではありません。

でもその単純な法則に支配された自分と同じ法則の下で70億人の他人も生きる世界に常に影響されあうことから結果はそう単純には行きません。

目に見えない関係の中でエネルギーの波と波が複雑に干渉しあう現実の世界の中において、うまく自分の心の中心を定めて生きていくには善悪の区別による道徳観や他人との比較心に基づいた常識よりも、自分の本心からリアルタイムで閃く直感に基づいた判断とバランス感覚のほうが有効です。

その人物がその時そうしていることには全て理由があるということを尊重しながらストーリを書いていける作家になろうと心がけています。

おしゃべりが長くなりそうなところで今日の話題はここまでとします。

本題の小説執筆の準備を進めなければなりません。


今日のたわいのない話題が何かのヒントや参考になれば幸いです。



 



来年に向けて創作活動を推し進める目処も徐々に立ってきました。

こういう時はやっぱり嬉しいですね。

本当に降りてくる時があるんです。

何年も何年も堂々巡りのように同じことを考え続けていても、それは一種の螺旋ループのようで少しづつ、一歩づつ、1段づつ、気が付かないほど微かだけれど目的の高みに向かって繰り返し登り続けていることを信じてさえいれば実感できます。

その実感に支えられて、ブレること無く、外側の物差しにおもねること無く、ただひたすら真っすぐ前を見続けていれば、もうダメかもしれないと幾度も挫けそうになりながら、感覚も麻痺して痛みと苦しみを感じることを半ば忘れかけていた頃にいきなりブレイクスルーする瞬間がやってきます。
 
ようやっと時代の変化の重い鎖に縛られない作品の筋書きが見えてきました。

それは今年に入ってからずっと取り組み続けてきた作品「PT」ただ一作だけですが、少なくともこの作品の主人公二人は時代を超える生き方を体現できる存在まで止揚させてあげられそうです。

カメラ片手に線路端に立ち続ける時でさえ頭のなかは小説作品のことで常にいっぱいでした。

24時間、寝ている間も意識は冴え続け朝起きたその時から小説の構想は始まります。

昼夜も休日も関係ありません。

夢の中にも遠慮無く出てきます。

意識の継続はもう10年近く解いていません。

何を見ていても何をしていてもどんな時でも全て小説作品に結びつけて考え続ける必要があります。

創作一本で生きていくとはそういうことなんだと身を持って知りました。
 
そういう状態になると息抜きというものが基本的に存在しなくなります。
 
したくても自律神経が常に活動状態で身体から一切力が抜けなくなりました。
 
そういうことに慣れきってしまった結果、身体と神経はいつもズタボロです。

汚い話ですが数年前から下血が激しくなりました。

用を足した後の便器はいつも真っ赤です。
 
もともとの病気による不調にさらなる負荷をかけて傷めつけてしまった犯人は他でもないそうしてしまった自分自身です。
 
そんな有り様でもやりすぎて本当に駄目になってしまったら元も子もありませんしそうなったら自分の負けです。
 
ギリギリのところで持ちこたえて前進し続けられるかどうかが勝負です。
 
それでも眠れなくなることだけは駄目です。
 
こういう生活を始めた最初の頃、数ヶ月間ほとんど眠られない日々が続きました。

眠られなくなると人間は正常な意識を維持することはできなくなります。

だからなんとかして何があってもどんなに頭が回転し続けても眠られるようにしました。
 
それでここまでどうにか持ちこたえることが出来ていると思います。
 
不毛で馬鹿げたように思える生き方でも、それでも自分にとってはとても幸せな生き方だと思って日々充実感を感じています。
 
不安や不満や恐れや比較心も全てどうでもよいこととして消えて行きました。

これまで大量に撮り続けてきた写真の一枚一枚は単なる記録作品であって自分自身の歩んだ意識の道筋の足跡でもあります。

自分自身の内側の向き合わざる負えない一面と向き合って昇華し続けるごとに創作の道も一歩づつ進んでいきました。

自分で本当に納得のいく結論が得られるたびに身体の症状やストレスも徐々に緩和されていくことは自分でも不思議に思うことです。

上に書き連ねた不快な症状の数々は全て自分の中から過ぎ去ろうとしています。

今年一年の間でこれまで向き合ってきたつもりで十分に直視してこなかった内面の奥にあった課題に立ち向かい昇華することができたと思います。

自分の作品に手応えを感じ始めたこれからが本当の正念場の連続だと思います。

自分の外側に悪を見出して自分自身を善だと見なせる時代が終わろうとしています。

自分の外側の世界も実は自分の内面を写しだした鏡の世界に過ぎないという話を以前の記事で書いたことがありました。

自分の中で沸き起こる批判心はそれを向けた存在とそっくり対称的に自分自身の認めることのできない一面であったりします。

自分でも意図しないうちに沸き起こる嫉妬心や羨望の気持ちはその向けた矛先の対象がまだ自分で手にすることの出来ていない一番欲しい何かであったりします。

自分に足りないものは何か、自分が這いつくばってでも血を吐いてでも欲しいものは何か、そうでもしなかれば昇華できない欲望と成長の暁はどこに辿り着けば出会えるのか。

自分の素直な心の声に率直に耳を傾け認めてあげることさえ出来なければ、もしもその微かな声を単に不愉快な感情の一つとしてやり過ごしたり、それでも無視できなくなったやり場のない憤りを他者や外部の存在にぶつけたり、それさえもできなくなると弱者や自分よりも劣った者わざわざ探し出してまで見下ろし蔑むか、あるいは道徳と正義の立場をとって他者の過ちを裁いているようで裁かれているのは常にそうしている自分の心であって自らの存在と人生をひたすら呪い続けていることにさえ気が付かなくなります。

落ちるところまで勝手に落ちていくのは常に自分自身であって他の誰のせいでも責任でもありません。

いつかそんな可哀想な自分を哀れんで救ってくれる神様も仏様もいません。

同情を装い甘い慰めの態度を携えて近寄ってくる者は天使のふりをした欲情の小悪魔の使いの他にありません。

立ち止まり、立ち返る決断を下せる存在は自分自身のほかに存在しません。

救いはまったく自分の決断によります。

自分の心の向かう先に限界はありません。
 
自分の限られた人生の中で善の限りを尽くすことも悪と醜聞を窮め尽くすことでさえ人の心は自由自在にやってのけられます。
 
ここまで吐き気をもよおしながらひたすら目をそらさず人間のありのままを直視してきた結論がこうです。
 
自分は善悪の彼岸に立ち続けます。
 
それが作家を志す本当の理由です。

自分自身を愛せるように他者の善よりも悪を愛します。

善も悪も最初に存在しなかったことが真実です。

善と悪の区別は完全なバランスのとれた調和の下に相殺され消え去ることが自然であり、それで最初から最後まで存在した一つの愛が完結します。

この言葉以上の意味を自分の心と意識で遮ることなく受け止めることができた時、人生は真にその人自身のものとなり思うままに創造し羽ばたくことが出来るようになります。
 
それが一人一人の人間に等しく与えられている真の自由の隠された意図です。

真面目な話を嘲けるだけで否定し退ける人は単に成長が足りないだけでまだその時ではないのです。

聞く耳を持つものだけが聞くことができるということは全く真実です。




 



秋も終わりを迎えつつあり初雪の便りが各地から聞こえてくる季節になりましたが本格的な冬場の到来まではまだ若干のタイムラグがあります。

毎年この時期は慌ただしく冬場の準備を急いでこなさなければならない時期ですが、今年も時間に追われながら一つ一つ片付けて全部完了した頃には来月の中旬くらいになっているはずで、その頃は年賀状作成に追われているはずです。

それでも今この時期は、ある種の谷間における安堵感というか、ほんの一時だけ妙に穏やかな空気が流れる時期でもあります。

世間を見渡せば冬の便りの他に毎度の政治ショーとでも呼べばいいのか、消費税再増税の可否や異常な円安による燃料費が高止まりや輸入コスト増による衣食住品の値上がりや、はては個人的にパソコンのメンテ用に購入を考えていた部品まで高騰するはで良い知らせはほとんどありません。

降って湧いたような札幌五輪誘致決定の話題は早くも忘却の彼方へ遠退き同じ頃H5系が初上陸し試運転開始の日が近づく夢の北海道新幹線も、その莫大な運行コストを青函間の収益だけで札幌延伸までの約20年間を乗りきれるのか不透明な経緯は触れられることすらありませんでした。

海外のニュースに目を向ければ中間選挙で共和党が圧勝しオバマ政権が窮地に立たされたとありましたが、今となってはなぜか今更のような白けた感じを受けるのはなぜでしょうか。

トヨタが空前の2兆円に登る利益を上げたと言いますが、そこまでの黒字を叩き出したのなら来年の10%消費増税の前に特別に法人税を徴収するべきですね。

アベノミクスだか日銀バズーカだか詳しい手口は知りませんが、莫大な借金を増やしながら紙幣を刷りまくって税金や年金の元本まで投入して国内と国外の大企業の株価を買い支えて景気回復を演出しているのですから、筋としてはそれで高収益を上げた企業から+αで税金を徴収してもおかしくないはずですが、そいういう市井の人目線からすればもっともらしい正論はまったく通じない世界なのでしょうね。

せめて原油価格の低迷による灯油ガソリン価格の低下を期待していましたが、これも降って湧いた極端な円安のせいで帳消しになるどころか、輸入品全般と同じく輸入に頼る原材料費が高騰することで今後生活用品全般が一気に値上がりしていく方向に進むそうです。

もうなんでもいいから勘弁してくれという声があちこちから聞こえてきそうですがお上の世界はそんな底辺で暮らす大衆の声なんかどうでもよいことなのでしょう。

まるで虫けら扱いされているとさえ卑屈にも思ってしまう底辺層の一個人としては自宅外壁窓部の密閉を徹底(※いざという時の逃げ口と寒気には配慮しています)と昼間の燃費節約術という昭和アナクロ合わせ技一本でどうにか耐えしのぐほかありません。

そんなナサケナサスな状況を耐え忍びながらやがて廻り来る朗らかな春の季節に期待を寄せるのは毎年恒例の精神行事のようなものです。

という個人のちっぽけな生活上の愚痴は現実社会において最もどうでもいいことですが、それでいて実は一人一人の個々人にとって無視しようのない一番切実な問題でもあり、ここで再び広い社会全体の上層階層に苦々しくも視点と意識を向け直して見ると、世の中の大方の人達がこんなガタピシな現実の中を生きるしかない現状で、やれ2020年東京オリンピックだの札幌冬季オリンピックも勢いでやってしまえとか地下鉄伸ばしまくっちゃえとか夢の新幹線列島縦断達成でバラ色未来の世界が弾け飛ぶとか、他にもダムとか高速道路とか原発増やすぞゴルアとか、電気代庶民の首根っこから絞り上げとか、日本全国昭和イケイケな時代に建設された古い道路や橋やトンネルの嵩む補修費や40年かけて廃炉しなければならない古くて危険な原発の後始末代金や被災地の復興費用はどこに消えてしまったのだろうかなどと疑問符?????が次々と脳内に浮かび上がってはうず高く積み上がっていくのは自分一人の脳内だけの特異現象なのでしょうか。

これら新たな夢の日本列島改造プランは全て借金に借金を積み重ね続けなければ実行できないことばかりですよね。

借金の大車輪はこのまま永遠に回し続けられるものなのでしょうか?

日本の借金は全て国民の資産で賄われているから大丈夫なのさ!

それは本当なのですか?いまいち信用出来ないなあ、、
 
超高齢化社会において収入も税収も全て落ち込んで医療介護費用だけが上がり続けるのに財源は足りるのですか?

うーん、その頃は消費税を30%くらいまで上げていればきっとだいじょうぶだよ。だってヨーロッパだってそのくらいがフツーなんだから。

政府の新たな借金を日銀が買い取り続けていますが、それはこの先もずっと続けていけるのですか?お金を無限に刷り続けると最後は価値が無くなってしまうと聞いていますが日本のお金の未来は大丈夫なのですか?

えーとね、ちょっとまってね・・・、

それは金融緩和っていうんだけど、別に今までもどこの国だってだいたいやってきたし、つい先ごろアメリカはやめちゃったけどまたどこかでやるだろうしヨーロッパはずっとやり続けてるし、あとはだいたいどこの国も同じようにやってることだから大丈夫だよ。第一、日本の円は国際通貨として信用度はトップクラスだしいざとなればドルやユーロやその他の優良通貨が助けてくれるから絶対に大丈夫。ジンバブエ・ドルや北朝鮮ウォンのようにちゃんとした国際秩序に則っていなければ危ないけど。

ふ~ん、ということはしばらくは借金し続けても大丈夫ってことかなのか。

まあ多分そういうことなんだろうね~。

でさ、ところで日本の借金総額って1,000兆円超えてたよね、大丈夫なのお?

えーと、それはね、、

以下延々と禅問答よろしく続く、、、という感じで右脳と左脳のキャチボールのように一人勝手な問答を続けることでどうにか疑問と不安を鎮めるように納得させているわけですが、はたしてこんな程度の認識で間に合っているのか甚だ疑問ではあります。

ただここまで述べてはっきり感じ取れることは、もしもこのままこんな状況の世の中が10年、20年、30年、と続いていけば、おそらく殆ど誰も納得もしなければ幸せな人生や生活をエンジョイすることも出来なくなってういくんじゃないかということです。

借金と増税の繰り返しで巨大公共投資の新幹線や高速道路だけはスケジュール通りきっかり開通し、そのたびにクス球が割られ世の中総出でお祝いモードとなりオリンピックやその他の大きなスポーツイベントが開催されるごとに世の中”躁”ハッピーハッピーの有頂天状態が露骨に演出される街角の一丁外れたうらぶれた建物の影で、一人また独りと絶望の影に打ちひしがれながら鬱向き頭を垂れるまま蹲る膨大な人数の個々人たちの群として逝くほかなしという想像するに余りあるほど厳しい状況の未来しか思いつきません。

少なくとも自分はこういう世の中で自分一人だけが頑張りぬいて幸せになれる自信は全くありませんね。

だからといって根っこがノーテンキ人間なので、たとえ余程のことが起きても絶望してどん底まで落ち込んで立ち直れないとかそれで自己完結を図るといったこともないとは思いますが、、。

問題はこんな嘆かわしくもどこか切なく物悲しい現実社会を誰もどうにかしようしようとしませんし、もはや誰もどうにもしようがありませんが、せめて日本列島改造論の夢の世界の奥深くへ皆が皆雁首揃えて目隠ししながらハミングを口ずさみつつ微笑みながら行進するような群の中の見苦しい一人にならないよう現状をしっかり見据えて生きたいものです。

これではいかんから立ち上がろうとか、真剣にもう一度、今度は本物の構造改革を実現せよとか、日本の国内から現状を打破しようとか、それらを声高に主張したり期待することすらこの先は不要なことかもしれません。

こんな夢も希望の欠片もない有り様は実は地球上のどこの国も同じような状況か、あるいはもっと悲惨な状況に陥っているかのどちらかです。

そんな夢も希望も抱けない現実に世界中の大勢の人達がもうこれ以上何をやっても実るものも得られるものも無くなったから全く別な世界へ移行したいと思っていたとしても何ら不思議なことではありません。

そのような人間社会全体の大きな集合意識のエネルギーが寄り集まって予期しない力が働くことで全く予期しない方向に向かって時代を大きく揺り動かしていくようなことが稀に起こることがあります。

日本と同じように借金と投機の泥沼に嵌って身動きの取れなくなった様々な国々がもうこれ以上地球規模の丁半博打場と化したマネーゲームに依存した世界は維持できないからある日の今日を持って一切の仕組みをあらためて新しい未来の世界へ一斉に歩みを進めると宣言される日が来ることも全くありえない非現実的な希望的観測として否定できるものではないと思います。

その時がもしも全く予期していなかったタイミングで突然やってきたら、この国も人々もその変化の大波に嫌がおうにも向き合って乗らなければならない状況に置かれることでしょう。

まさか21世紀の現在に鎖国して日本独自の世界観を維持しながら他の国々に対して一切門戸を閉じるなど出来るはずもありませんから。

世界が変わるタイミングで日本も必然的に変わることになるはずです。

ここで超個人的で矮小な視点に一気にスケールダウンされますが、個人的にそういった歴史的大変化の影響を最も被る可能性が高い日常生活以外の部分が、ほかでもない文筆家志望の端くれとして自ら取り組んでいる小説作品の行く末です。

時代の大変化をまたいでも作品としての生命力を失わないような物語の構成をこれまで慎重に慎重を重ねながらじっくりと練り上げてきました。

(※言うなれば、もしも自分が幕末のような時代で芝居の台本とかこしらえることを生業としていて、尊王攘夷派とかが幕府や夷国を打掃し晴れて新生大和王権を樹立する物語を本気で書いている間に明治維新が起こって武士の時代も武士自体もいなくなっていたとか、あるいは軍国主義たけなわの時代に生まれて本気で大東亜共栄圏を樹立してゆくゆくは日本軍の破竹の活躍で世界を制する一大叙事詩をまとめあげようとしていたら戦争が終わっていたというような、今の時代で言えば猛烈若手サラリーマンが奮起して伝説のエンジニアやしがない派遣の兄ちゃんからリストラ組のおっさんからニートの息子まで団結してグローバル企業連合体とそれを影から操る闇の組織に立ち向かいもう一度MADE IN JAPANで世界を席巻させるまでの汗と涙と友情の冒険物語とか、、、あっ、これは書いててちょっとイケてるかも?テーマ曲はXファイルならぬプロジェクトなんちゃらのヘェッドライト~テェールライト~♫のエンディングソングだね、、、というような感じの物語を真剣に考えたり書いたりしているうちに現実の時代背景が様変わりしてしまって作品の読まれる値打ちが消えてなくなってしまうことが、こういった時期に起こりうる物書きにとっての一つの悪夢であり悲劇だと思われます。)


これまでに心血を注いで形造った小説作品の構想は大、中、小あわせて12作品ほどにもなりました。

最初から多くの作品をいっぺんに書き上げようとは思っていませんでしたが、様々な人間的テーマを追求していくうちにそれぞれにあった作風と舞台の小説が生まれて数えてみると12作品になっていました。

これらの作品が一体どれほどの意味と価値を未来に読んでくれるであろう人たちに提供できるのかは未知数ですが、こんな奇っ怪でカオスな時代を生きている証人としての人生を無駄にせず有効活用したいとの意図のもとで小説作品としてまとめようと決意を固めています。

ひとりごとが長くなったので今日はこのへんでアディオゥス(汗)






以前の記事で名作小説「ライ麦畑でつかまえて」についてふれましたが、今日はもう少しだけ続きを書いてみようと思います。

もうすでに数えきれないくらい大勢の人たちに繰り返し読み継がれている作品なので、その内容についてはここであらためて書くことはほとんどありません。

それでも個人的な感想として、まだ書ききれていないいくつかの事柄が頭のなかの小部屋の隅っこに転がっているので、それらを拾い上げてここに書き記しておこうと思いました。


 
 

本文とはまったく関係ないイメージカットです(^_^;)

先月の撮影で豊平川河川敷まで行ったさい本番の赤電を撮り終わった後の夕暮れ時、行き交う電車を何気なく写したスナップ写真のうちの一枚です。映しだされた陰影がなんとも言えない物憂さを醸し出しています。





ライ麦畑という作品は今でこそ世界的な名作としての評価をほしいままにしていますが、一個の小説として考え直してみると、全編に渡り一方通行型の毒舌で書き通された、読んでいて決して愉快で面白いばかりの作品ではありません。

それどころか、背伸びして大人ぶっていて、やや小生意気な印象すら漂わせている、常に上から目線の物言いの主人公による、自身の同級生や担任の教師の批判に始まり、退学になって追い出された私立学校のいかがわしい経営方針や的はずれな期待ばかり寄せる親のあり方、そこから透けて見える社会の中のエゴな実情に向かっての軽妙なユーモアを交えながらも時にえぐるような皮肉と辛辣な口調の批判ばかりが、時と場所を移し変えながらも延々と繰り返される場面が続いていきます。

ここで注目されるのはストーリーの進行とともに、主人公の批判の矛先が他者や社会の実情などから自らの内面の醜さや幼さに徐々にシフトしていくことです。

物語が終盤に差し掛かる頃、主人公のあてどない放浪旅も行き着くべきところへたどり着きますが、それでもなお、一たび自分の内面に向けられた鋭い自己批判の矛先は収められるどころか激しさを増していきます。

そして主人公はたった一人で、自らの意志で心の放浪旅を続けてきたのですが、まるで目に見えて存在しない何かに追われていて、その存在から必死になって逃れようとしているかのような、あるいはまた、何か終末的な時が近づいてくるような息苦しさを伴う切迫感が、徐々に憔悴しながら静かに追い込まれていく主人公の内面を通して読む者の心にじわりと伝わってきます。

主人公の精神を徐々に追い詰めていった要因の正体が何だったのかについては読み手の数だけ読み解き方があると思いますが、ここで個人的な解釈を述べるなら、それはおそらく主人公の心の在り方の鏡写しとしての他者や世の中の闇と影だったのではないかと感じ取りました。


余談ですが人間の深層心理は、その無意識の階層の奥深くにおいて、さらに深く沈むほどに自分と他者、自己の内面と外界の存在の区別が曖昧になっていくという現象が起こっているようです。

ライ麦畑の主人公は一見して愚かしい他者や不可解で矛盾に満ちた世界とその住人たちを大きなスケールと視野から批判を繰り返していたようで、実は自分自身の外側や内面のちっぽけな側面ばかりを批判的に見つめつづけていただけのかもしれません。

絶え間ない自己批判に自らを晒し続ける主人公の生き様を通して、その結果どれほど自分の心に深い傷を繰り返し与え続けることになるか、その行為の行き着いた先に一体どれだけ成果と呼べる何物かを自らの存在の内に残せるのかを、もしかすると原作者のサリンジャー氏は読み手に考えさせたかったのではないかと思います。

物語ではたった三日間の彷徨の出来事で、しかも主人公を健全な心の世界に引き戻してくれる最後の救いの手が描かれていましたが、もしも実在のリアルな人生において一度自己批判の甘い優越感に囚われてしまったら、その誘惑に満ちた暗い堂々巡りの循環は3日間どころか3年でも10年でも、20年でも、30年でも続いて、とうとうそのまま一生分を潰やしてしまうことだって普通にあることです。

ライ麦畑は若い時代の傲慢さが招く深い落とし穴の存在を事前に知らせて警鐘を鳴らす作品でもあったと思います。


他者は自分自身の真の姿を写す鏡だと昔から言われていますが、自分と自分以外のすべての人間が住まうこの世界も自分の内面の在り方を写し出す巨大な鏡面で出来た舞台だったのかもしれません。

その鏡面に囲まれた舞台の上で繰り返し批判的な自己の側面を、他者の似通った側面という擬似的な自己の姿を通して見せられ続けなければならないのか、それは誰もがその舞台の上で自分が思っているよりもずっとうまく踊ることの出来ない踊り手のような存在だからです。

自分が思った通りの振る舞いを演じてついに自分自身とイコールになるまで、同じように思い通りうまく振る舞うことのできていない他者と同じ時間と同じ場所で互いにその出来栄えを確かめあえる距離間の中で、好む好まざる両方の場合において演じ合わなければならないことが、この人間が住まう世の中の隠されたてきた仕組みであり厳密な掟だったのです。

自らを否定して嫌悪したり、時にそれが怒りや憎しみに変わりその矛先が他者や世の中に向いてしまったり、逆に自分自身に向けられてしまったりするのは、それだけ自分自身が心底から成長して真から自分自身を認めることができるようになりたいという魂からの強い願いの現れです。

その反動から生じる絶望感は人間が一人きりで乗り越えなければならない魂における最後の壁かもしれません。

人間は自己愛と期待感に縛られたがちな存在ですが、その幼い自己愛を否定しないで磨き抜くことが自分自身を肯定できるようになる鍵です。

そのことを大昔の偉大な聖人の一人が唯我独尊の四文字が示す言葉の意味で言い表しました。

それは別に自分一人だけが偉くて尊いんだと言いたかったわけではないと思います。

自己否定によるネガティブなエネルギーを幼い自分を進歩成長させる建設的なエネルギーに転嫁してどこまで昇華できるかが本当の意味で自分自身との闘いであり勝負であると思います。

芯が腐った時点でその勝負は負けです。

自分自身に立ち向かうことを諦めなかった者が先を越していきます。

ごく個人的解釈ですが、ホールデン少年はその自己との闘争の道の入口に立ったのです。

それは誰でも簡単にたどり着ける門の入口ではありません。

その茂みの奥の暗がりに隠された小さな門を見つけられるのは心が澄んで魂が進んで選択した者だけです。
 
その試しの門をくぐり抜けた後は無数の段階を経るとても長く険しい暗闘の道のりが延々と続きます。

それは単なる成長の過程とは言えない混沌とした理解に苦しむ道のりです。

おそらくどういった物語もこの道における未知なる性質を正確に描ききれないでしょう。

ライ麦畑はその入口までしか描かれていません。

その先の可能性は読者一人一人の現実の世界の中での歩みに委ねられています。
 
自分に打ち勝つということは倒すことではなく許すことです。

自分自身に挑戦し受け入れることが出来た時、同じように他者を理解して受け入れる力が身につきます。

真にありのままの自分を受け入れて表現できる者同士でなければ本当の意味で互いに信頼関係を築くことはできません。

残念ながら互いの不都合を認め合うだけの間柄では裏表と利害のない関係には到達できません。


今回はライ麦畑の少し先の解釈の話をしました。

この続きは小説作品の世界の中で思いのままに書き込んでみようと思案しています。
 
 

 
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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