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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今日はとても抽象的で観念的な独り言です。


午前中に撮影に出かけたのですが、思ったような成果を上げることが出来ず、大きなミスショットではないにしろ、自分のイメージと半歩だけ噛み合わず、とてもしっくりこない後味だったので、後日また調度良い機会があれば再試行したいと考えています。

それでも、今日のような無収穫な日のうちでも、内心ではある閃きというものなのか、現実の撮影から一歩離れた感覚の中で心に引っかかるものが見つかり、最初それが不快に感じても、すぐ後からとても大切な示唆の入り口だったことに気付かされます。


今日はなるべくしてなったと思えればそれで良いとして話を進めます。


唐突なのですが、今日感じた心の引っ掛かりについて詳しく紐解いて行くと、自分でも驚いたことに、とうの昔に忘れ去っていたはずのある感慨、記憶をたどればおそらく14歳頃の自分が抱いていただろうおぼろげな、でもとても強かった問いかけの詳細な一面とその回答らしき内容がふいに現れてきたのです。


その時、自分は真実に基づいた何かを求めていたと思い至りました。


現実の行為や時間の流れを無視して、まるで今日の今その時に感じていたかのようにリアルな問いかけの復活に戸惑いながらも、当時の自分がいかなる理由付けによっても打ち消しようのなかった鋭い問いかけに対して、難なく応えられる今の自分が確かに存在することに、意外なほど清々しい気持ちさえ感じられます。

真実に基づいていない物事を理由もなく受け止めたくない、あるいはそれ自体を認めたくないことにこだわり続けてきたのかもしれません。

でも、それが結果的に正しかったことが証明されつつあることを告げられて安堵する自分が居ます。

たとえ99.99999..........%の他の人間がそれを認めることが出来なかったとしても何ら問題は無かったのです。

今までの集合的人間性のモデルは真実に基づいて思考し存在を認めることが出来るほど成熟してはいなかっただけだと告げられました。

これについて今は例えることでしか説明できない問題です。


一つの喩え話を始めます。


一枚の10円玉をめぐってある心の住人とその主人格のやりとりを交えた未完成な物語です。
  
唐突ですが、今そこにある一枚の10円玉を善と悪に分けることが出来ますか?

物理的に分けることは難しそうですが思考の中では自由自在に認識することは簡単そうです。

善と思われる一面だけを見てそれを善と見なし、悪と決められた一面だけを見てそれを悪と見なせれば良いのです。

これで一枚の10円玉は善と悪の2種類に別れることになりました。

ところで10円玉に善と悪のそれぞれがあると、それ自体のどこかに書いてあったり刻印されたりしていましたっけ?

確かに10円玉には額面と発行年号が刻まれた表面と鳳凰堂が刻印された裏面がありますね。

とりあえず表面を善として裏面を悪にしておくと大勢の人たちにとって分かり易くて良い感じですね。

いやいや、あんな数字と漢字だけが刻印された理屈っぽい表面よりも精緻な彫刻で描かれた優雅な裏面の方がよっぽど芸術的で好ましい、よって表が悪で裏が善というわけだ。

それぞれの見解をとって一枚の10円玉は善表、裏悪、表悪、裏善の4種類に分かれました。

まだ大事なことを一つ忘れています。

10円玉には特別希少なものがごく僅かですが紛れ込んでいます。

それは表だけを見ても裏だけを見ても普通の10円玉とほとんど区別が付きません。

それどころか、この特別希少な価値ある10円玉は他の真新しい10円玉や汚れた古めの10円玉よりもさらに古臭く汚れているので普通に手にした人は弾いてしまいやすいのです。

では、その特別希少な10円玉はどうやって見分ければいいのか、一つはとても古いものですがそれだけでは価値があるとは断言できません。

表と裏の境目がちょうど真正面に見えるようにくるんと半回転させるとその特別希少な姿を目にすることができます。

なんと、普通はのっぺりとした板厚の表面が見えるだけですが、この希少な10円玉には等間隔に整然と並んだ横縞模様がしっかりと刻まれているのです。

しかもこの特別な10円玉は相当昔に作られたっきりでもう二度と新しいものは製造されません。

大変貴重なものなのでこれだけは特別に例外として区別しなければならないものなのです。

ところで、これだけ10円玉についてあれこれ分析して意味付けをすることが出来たのですから、そろそろ実際の10円玉を手にとって観察してみようじゃありませんか。


実際の世の中には数え切れないほど沢山の10円玉が存在します。

 
つい最近造幣局から発行されたばかりの人の手垢のついていないピカピカのものから、人の手から人の手へと長年渡り歩いていい具合に赤銅色をしているもの、手垢にまみれてねっとりしているもの、何かに押し潰されたのか凹んで曲がってしまったもの、表面の淵に大きな切れ込みのような傷があるもの、錆びて緑青が浮いて緑がかったもの、生まれた年号が微妙にズレていて珍しいもの、額面の数字が妙に打ち間違えられていて見つかると廃棄されてしまうもの、、、。

それはそれはもう沢山の表情の違う10円玉があるのですが、何と言ってもせっかく善悪裏表と希少な価値について意味の違いを決めたのですから全ていずれかに区別する必要があります。

まず新しくピカピカした10円玉はどれも見栄えが良いので善のグループに入れます。

でも裏側の一面までは今は見ないことにしておきます。

あとはどれもこれも古い10円玉ということで似たようなものです。

先ほどご享受いただいた特別希少なものと、もう10円玉として使い物にならなくなったものはそれぞれ除外します。

とりあえずバランスを取るために善と悪はほぼ同じ枚数に分かれている必要性があります。

先ほど取り決めた新しくピカピカなものはどれも善としましたので、少しでもきれいなものをより善とし、もう薄汚れて錆びついてしまったものを悪とします。

さて、裏と表の区別はどうしましょうか?


それは元々どの10円玉も全て同じだから本当は区別しようのない問題だ。


表こそ善だと思っている人のためにキレイな表面を持ったものを表の善、裏の彫刻がとして美しいと好む人のためにキレイな裏の面も善としよう、残りの磨いても落ちないほど薄汚いものは適当に表も裏も悪ということにしておきなさい。

でも10円玉には全てのものに表面もあれば裏面もあるのが普通じゃないですか、頭の中の認識では好きな方を選べますが、実際に手にとってしまえば両方の面が目の中に入ってしまいますよ。

そこは簡単なことで解決できる問題だ、表だけなら裏側を削ってしまえばいいし、裏だけ残すなら表側を削って無くしてしまえばいいのだよ、あるいは少し難しくなるが、1枚の10円玉の表と裏を半分に切ってキレイに分割してしまえばいい、そうすれば裏は裏、表は表とはっきり分けて扱うことが出来て簡単かつ大変便利になるのだよ。

でもどちらか一方の面を削るなんて1枚1枚の10円玉にとっては大変な負担ですよ、特にもともと一枚だった10円玉を表と裏に分割するなんて、もしも失敗したらその1枚の10円玉の全てが台無しになってしまいますし、それはとても残酷で不自然なことですよ。

その残酷で不自然なことがごく自然で普通なこととして認められ受け入れられる事こそがこの人の世の中と言うものでありそれが最も重要なのだ、それこそが絶対のルールというものなのだよ、あらゆる全ての10円玉は世の中がそうと認めるからこそ10円玉として存在することが可能になるのだ!

その交換条件として全ての10円玉はこのルールに完全に従う必要がある。

表の10円玉には表の10円玉の、裏の10円玉には裏の10円玉のそれぞれの役割があるものだ。

それを認めないものは10円玉として存在することも生きていくことも出来ないようにしてある。

また善の10円玉が沢山欲しければ反対に悪の10円玉も同じ枚数だけ必要なのだよ、もともと善と悪とで一つの10円だったのだから、そうしておかなければ厳密に辻褄があわなくなって、つまるところ皆にとってかけがえのないほど大切なこの一つしかないこの世の中の仕組みが滅茶苦茶になって成り立たなくなってしまうんだよ、それは何としても避けなければならない由々しき事態だ!

この世の中にとってもう使い道の無くなった古い10円玉やいびつに歪んだ10円玉たちは順番に廃棄するか、それが出来ないものは道端にでも転がったままにして無視すれば良い。

そうそう、特に注意すべきことは先程からくどいほど忠告しているように、特別な刻印が施された10円玉は見逃すこと無く確保しなければ駄目だ、そのまま廃棄するにはあまりにも惜しいし、第一それらの特別な10円玉たちは1枚でも失われたらもう二度と同じものを作り直すことが出来ないからだ。

これらの特別な10円玉たちは表と裏に分ける必要はないし、それをやると価値が減じてしまう、さらにそういった特別な10円玉が一般の10円玉の中に紛れてもしもその存在と価値が知れ渡ってしまうのもマズイことだ、善でも無く悪でも無い、また善でもあり悪でもある、彼らのピュアな性質を羨ましがって、他の一般の10円玉たちが真似を仕出したらそれぞれの役割に徹することをサボるようになってしまう、それでは甚だ都合が悪くなる。

だからこれらの特別なカリスマのある10円玉たちは、一般の世の中よりも1段から数段高い位置に設けた舞台にまとめて祀り上げて普通の10円玉たちからようく見えるようにして区別しなければならない、この意味が分かるかな?

それで一般の10円玉たちは自分たちがごく普通の10円玉に過ぎないと悟って素直に気持よく自ら進んで課せられた役割に徹することができるようになるのだよ。

そもそも、10円玉は10円玉でしかなかったものが随分と差がついて違う話になってきました。

善でも悪でもなく裏も表も一体で特別でもない自然な10円玉はどうやらこの奇妙な世界には存在していないようです。

もしくは、善悪、裏表の区別があることがあまりにも長くアタリマエの事実として受け入れられ浸透してきたためか、どの10円玉も全てはもともと自然でピュアなただの10円玉として互いに等しい価値しかないという真実をすっかり忘れてしまったようです。


10円玉はあなたの私のそして全ての人の心であり魂です。
 
 
善と悪、表と裏、それらはみな心の区別、魂の分割です。

分けられた心は傷み、魂は別れた片割れを求めてさすらうものです。

物事に対する善と悪の区別はそれ自体で独立したものです。

それは何人も代表することのない公平な真理の法則に属し委ねるべきものです。

存在する全ての事物の表裏の違いは1枚の10円玉の裏と表の違いのようにもともと一体であることが自然な姿です。

人間の意識だけがこれらをバラバラに分割し別々のものとして区別して認識するのです。

それはごく当たり前の当然の事として普段は特に意識して顧みられることもありません。

でも、そうして分け隔てられた心は常に荒んで傷み魂は密かに悲しみを抱くようになります。

そしてあなたの中の他の10円玉たちの表と裏を、キレイで好ましい善の一面と、薄汚れて悪と見なされた他の側面をはっきりと区別して取り扱う時、あなた自身がそうしてそうされて心が傷つき激しく痛み自分と他者を憎悪するようになるのと同様に、他の者の心と魂を分割しようとしているのです。

自らの内側でこの事を知り、自覚し、絶え間ない葛藤と自己嫌悪の苦痛から解放されたいと芯から望むなのなら、それらの区別を意図して止めるしかありません。

他人がそれをやめても救われるのは他人のその人自身であって自分自身ではありません。

あらゆる人間と人間の関係と相互の認識において、心のある部分とある部分が細かく分割するような意識に基づき、ある者がある者へと傷つき傷つけられ、本来必要のない精神的苦痛やトラウマを生じさせて、愛しあうことと理解し尊重しあうことの代わりに、果てしなく終わることのない憎悪と怨嗟の応酬をもはや当然のこととして受け入れて、繰り返される日常生活の中のループする習慣として受け流し続けることで、わざと互いにすれ違い真正面から向き合うことを回避し、それでも正面からぶつかり合うことが避けられなくなったその時に、どちらか片方あるいは両方が決定的な一打を下して取り返しの付かない後悔の念を背負う不幸な結末に至る場合も決して少なくない時世です。

もう一度繰り返しますが、他の誰かや相手からそれを止めることを期待しても最初から無駄であり、他者との区別意識に基づいて自己のみを正当化したいという発想や、それで自他両方からの肯定感と評価を得たいという願望は全て未熟なエゴから発せられるもので、そういった自己の内面を認めるに至ることが出来たのなら、それはその時に一切を無効な概念として破棄する用意が整ったことを意味します。
 
自ら救われるためには自ら変わらなければなりません。
   
   

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ここ最近、熱い日が続いています。

こうしてタイプしているすぐ側からアブラゼミの鳴き声も聞こえています。

午前中のまだ涼しい時間帯に裏庭の名ばかりのベランダに腰をおろしている時に今年はじめてのトンボを見かけました。

北国の短い夏真っ盛りですが季節の移ろいは確実に進んでいるようです。

機会を見つけて撮影に出かけたいのはやまやまですが、最高気温が30度にもなる炎天下の中で1時間近くも列車を待っていなければならないことを考えると二の足を踏んでしまいます。

近距離とは言え自宅から徒歩と交通機関を乗り継ぎながら撮影地までカメラ一式を担いで往復するだけでも相当な負担になります。

もうラストまでチャンスは限られていますが、まずは無理をしないで天気と体調のタイミングが良い時に見計らって撮りに行こうと考えています。

寝台特急に関しては赤い電車の時のように出来る限り沢山のパターンを記録に残そうとは最初から考えていませんでした。

自分の家がある町の目の前の路線を走っていた赤い電車とは条件が大きく異なり、遠く本州と北海道を行き来する寝台特急は、その走行する全区間の全貌を捉えることは遥かに難しく自分が追い求めるには事実上不可能なテーマだからです。

なので、あくまで地元のごく手の届く範囲の中で自分が思い描く寝台特急の勇姿を象徴するようなカットをあと数パターンずつ最後までに記録できれば十分満足なのです。

それに、終焉を迎えつつある寝台特急を始め鉄道写真を撮ることに日々血眼になっているのかといえば決してそうではなく、日々こなさなくてはならない家庭内の庶事をかかさず片付けながら本命の創作活動を中心に作業を進行させなければなりません。

あと、もう一つ日々の生活で欠かせないことは基本的な体調を維持するための運動です。

若い時にホルモンのバランスを調整する機能を大きく壊してしまい、それ以来まともな体調だったことはほとんどない状態ですが、そういった半ば宿命的な体調不良と向き合い続けるために基礎的な体力と健康状態を維持することは少しでも健全な生活を送るために必要不可欠な要件です。

具体的に何か特別効果的なメニュー等をこなしているわけではありませんが、食事の内容を気をつけることと合わせて、よほど悪天候の日や寝こむほど具合の悪い日を除いて、ほぼ毎日買い物や銀行、郵便局などに行く用事をこなすとともに約3~5kmくらいの距離を歩くようにしています。

それだけの簡単なことですが、かれこれ10年以上続けてきたお陰なのか、最悪一歩手前の状態に陥ったごく一時を除いて本当に絶望するほどの過酷な状態までには至らずに済んでいます。

そういう経験から得たものも含めて創作の中で活かしていこうと思っていますが、なかなか自分が思い描いた通りの理想の物語まで到達できずに足踏みしている状態です。

でもそれは仕方なくそうしているのではなく、むしろ自分の意志でわざと歩みを遅くしている側面があります。





今年もこの日がめぐってきました。

現時点での人生行路を再点検しながら見なおしてみる一日です(-_-;)

もうすでに特別お祝いすべき年齢は過ぎていると思いますがケーキ買ってもらえました(;_;)

そして、ささやかながら自分自身へのご褒美としたことは、今日一日だけ残りの分量を気にせず好きなだけ青汁を飲みまくることです、、、orz



 
何もないと絵面がさびしいのでテキトーに庭のタンポポの写真なんぞを貼ってみました。

黄色い雑草花の輝きが眩しいくらいです。

自分の人生こうありたいものだとまでは思いませんが、そういえばタンポポってお茶にもなるんだっけと思ってみたり。





特別これといった感慨はないのですが、三十路の道に入り込んでから早三周年ということで、あらためて自らの思いのたけを確認したいといったところでしょうか。

毎年歳を重ねる毎に悲壮感とやらが募っていくのかと思いましたが、予想に反して気分が軽やかになってきたというか、二十歳代の頃まであった根拠のない無謀な自信過剰や自意識が消えて無くなったかわりに、今度は妙に根拠のない精神的な余裕のようなものさえ感じられるようになりました。

どちらにしても根拠の乏しい内面的な実感なのですが、確かに、若い時に在りがちな余計な思い込みからくる強い錯覚に縛られなくなったようで、わりと物事や自分の置かれた状況をありのままに近く見渡せるようになってきました。

もう少し分かりやすく言い換えると、自分の置かれた状況や関わる物事との関係に社会的な良し悪しはあまり関係がないということに思い当たったということでしょうか。

もっと単純に言えば他人の考え方や判断を気にする必要は無かったということです。

自分に自信がないと知らず知らずのうちに他人様の判断基準や考え方を仰ぎ見てしまうものですが、一見して自分とは正反対に自信満々に見える他の人の行いや考え方も、実はその人自身が必ずしもしっかりとした考え方や信念に基づいてそうしているのではなくて、その人もまた他の人からの視線や評価を仰ぎ見ながら、恐る恐る旗色をうかがうことで自信に代えているといった様相が透けて見えてくるようになったりもしました。




そんな未だ甲斐性のないアホンダラな飼い主を黙って見つめているにゃんちょんさん。

ちゃんとこちらの体調加減や機嫌の良し悪しまで推し量ってくれる飼い主とは似ても似つかぬほどお利口さんです。いつも無条件に寄り添っていてくれるにゃんちょんさんには言葉には言い表せないほど感謝しています。





創作活動の方は思いのほか順調に推移しています。

物語の骨格と主要な人物像のカタチがようやく固まってきました。

序章の一部分だけでも実際の原稿に書き出せる日は近いです。

一番の課題は体調管理で、それに次ぐ課題は書き手である自分自身の心境の変化によって作品の表現スタンスが二転三転してしまうことでした。
 
 世の中の流行の先端を追いかけるようなことは最初から考えていなかったので、その点ある種のブームやトレンドに乗り遅れるのではないかという不安や焦りに陥ることはありませんでした。

次に懸念されたのは、ここ最近の予想を上回る勢いでめまぐるしく変化する社会情勢に呼応するように、人々の価値観の在り方や趣味趣向の矛先が微妙にかつ断続的に変わり続けているという難しい情勢が上げられます。

ついこの前まで輝いていた比較的に有名な作品のストーリーパターンや人物描写が急に色褪せてしまったように魅力を感じなくなったり物足りなさを覚えるようなことが立て続けに起きています。

ある意味、創作家を志望する者にとっては残酷かつ高難易度な時代になったと言えます。
 
自分自身の作品の構想に向き合う段階でも、いったいどういった方向性と視点からストーリーを決めて人物像を描き出せばよいのか、迷いながら手探りで思考し続けるしかありませんでした。

そういった出口の見えない長いトンネルの中を進むような時期が続いた後、どうにかして自分なりの対応策と主に自分の内面の意識構造を見直すことで、この激しい変化の時代にも意識的に追い付いていける道筋が見えてきました。

よく作品の中の人物が一人歩きを始めるというようなことが言われますが、作品それ自体に生命が宿るように、半ば自動的に物語の構成と登場人物たちが動き始めるようになれば理想的です。

一昨年の全く勢いだけで書いた短編作の執筆時は途中で作風や人物像がブレて変わってしまうことを懸念するあまりに、合間の休息を極力避けて気合と根性で一息に書き上げるといったスタンスを採りました。

結果は理想には程遠い出来栄えだったことは以前の記事の中で吐露しましたが、今回はその反省を十分に踏まえた上で新たな対応策を練って名づけて”牛歩戦術”を採ろうと考えています。

一つの作品の構想につき、ほぼ無限とも言える視点と書き方のスタンスが存在します。

この最初の選択の違いで同じ構想と人物像の作品でも全く別な個性を持った異なる趣向の作品に変化します。

それは作品の最終的なクォリティーをも決めてしまいます。

自分が長年かかって生み出し育んできた作品の構想のどれ一つとっても無意味な駄作で終わらせたくありません。

これまでは失敗しないことに重きをおいて来ましたが、これからはもう一歩積極的に、どの一つの作品をとってもベストを尽くして傑作レベルを貪欲に狙っていけるように一層のレベルアップを心がけていきたいと考えています。

牛歩戦術を実施することで、執筆作業を1シーンずつ細かく区切りそれぞれの作業に専念し、疲れたら合間をおいて十分な休息をとり、体調が回復してから執筆作業を再開することで出来るだけ良好なコンディションを維持しながら作業を継続していきたいと思います。

一見してもっとも効率の悪い方法のように思えて出来れば避けたいと考えていましたが、作業の中断によるモチベーションの低下や作風の乱れさえ予防できれば、かえって慣れてリズムを掴んだ頃には効率よく書けているような気がしています。

頭の中で次から次へとランダムに湧いてくるアイディアを創作ノートに書きとめながら、未完成の断片がグシャグシャな状態で溜まっていく状態を繰り返すよりはずっと効率的で生産的だと思われます。

まあ、今のところはそんな感じですが、とりあえず今回の記事をもって三々三十路突入時の所信表明のようなものとさせていただきたいと思います。

今後もあまちゃん創作家の前途と成り行きを木陰からこっそり見守っていただけたら幸いです。
  
 




先の日曜日に投開票が終了した選挙に関連して感想などを書いておきたいと思います。

興味のない方はスルーできるように、内容は後半のリンク先で書いておこうと思います。



NHKのひざくりげ再放送を見ながらうるっと来てしまいした。

やっぱりいいなあ、空知と赤い電車。

赤電引退前後のついちょっと前の岩見沢の特集でしたが、最盛期の街並やそこで暮らす人たちの貴重な映像が出ていて見応えがありました。

旧駅舎の映像も懐かしかったです、改札の横に待合室があって、さらにその奥におにぎり屋さんがあってよく利用していました。

今度、岩見沢まで足を運んだ時は新装移転した天狗まんじゅうを買ってこようと思います。

短い時間ながら内容の充実した番組を最後までじっくりと味わいながら楽しみました。

そこには失ってはいけない魅力がたくさんある気がしました。

ひるがえって、同じ今の現実的な話題として正反対のニュースが巷を騒がしているようです。




世の中の小難しい事情について取り上げるのは今年はこれで最後になると思います。


そう何度も重苦しいことばかり考えていたら気分も身体も沈み込んで床にめり込んでしまいそうです。

ちょっと遅れた感もありますが、先日終わった選挙の結果について個人的な感想を書いておこうと思います。

結果が出ても、いったい何のための選挙だったのかと疑問符だけが残るような選挙でした。

比例代表の投票欄に「支持政党なし」という項目がありましたが、どうやらそれは選挙制度が変わったのではなく「支持政党なし」という即席の政党が今回の選挙に立候補していたということのようですね。

なかなか洒落乙なことをするものですが結果的にある少数野党を上回る得票率だったそうで、こういったところに本当の民意が反映されているような気がします。

個人的には投票先を決めていたのであっさり見過ごして投票を済ませてしまいました。

今回はあのよくわからない裁判官の罷免の是非を問う票にも初めてバツを付けさせてもらいました。

憲法が蔑ろにされていてるにもかかわらずしっかり守ろうとする姿勢が感じられなかったからです。

今回の選挙で与党が大勝したことからアベノミクスをはじめ現政権とその政策が7~8割方支持されたように感じられますが、戦後最低の投票率と得票ベースを考慮すれば実際には日本全体の有権者の3割程度の信任しか得られていないことになります。

ここに現在の選挙制度の内包する大きな矛盾が認められるわけですが、一つの選挙区で一人しか当選しない小選挙区制度では対抗候補が当選候補に迫るほど票を得ても落選してしまいます。

当選候補者以外に投票した有権者の民意は全て無駄になってしまう仕組みと言えます。

自分の住む地区の選挙区をはじめ日本全国の選挙区で見られた構図ですが、他党と一切強調しないことで有名な野党候補と有力な野党対抗馬が票を分かちあい結果的に与党候補が有利に票を集めるといったいつも見られるあのパターンです。

結果的に4割程度の得票で与党候補が圧勝してしまうわけですが、残りの6割の有権者が投じた票が無意味なものとして捨てられてしまうわけです。

対抗候補の票を全てあわせた数を上回る得票率で当選した候補は本当の意味でその地域の民意を勝ち取って当選を果たした候補と言えそうです。

それでも有権者全体の投票率の低さから考えると民意を全て汲み取れているとは言えません。

こういった不公平な選挙結果をできるだけ予防するために有権者の棄権に対して罰金を課す国さえあります。

そこまですべきかどうかはわかりませんが、選挙の公平な結果を求めるのなら投票率の低迷は大きな問題の一つであることは間違いないでしょう。

ぼくは明確な支持政党を持っていないのでいわゆる無党派層に属するということになりますが、今回の選挙で他地区の結果で良かったことは道南で脱原発を掲げる民主党の逢坂さんが接戦を制して当選を果たしたことです。

逢坂さんはニセコ町長時代にいち早く高速ネット回線を整備するなど都会に引けをとらないビジネス環境を整えることで移住者を呼び込み今の外国人観光客誘致成功の先鞭をつけた人物です。

函館の目と鼻の先の大間に最も危険なプルサーマル原発が稼働するような事態になったら福島以上の大変なリスクを背負わされることになります。

これからはどこの政党が正しいかという視点よりも一人一人の人柄や考え方からそれまでの実績などトータルで信頼できる人物が選挙で選ばれることで正確な民意をしっかり反映してほしいと思います。

毎回選挙が行われるたびに知らない顔の候補者が入れ替わり立候補されるよりも、やはり自分の住む地域にしっかり根ざした人物が立候補して信を問うてほしいと思います。

最後にもう一度、今回の選挙の争点となったアベノミクスについて少しだけ触れておきたいと思います。

アベノミクスが争点と言われていたほど積極的な議論にはならなかったように思います。

選挙CMで繰り返された「これしかないんです」のフレーズの通り本当に「これしかなくなった」ということになったと思います。

詳しく考えるよりも、もしもそれがうまくいかなかった時のための予備知識の備えが各人各様の立場で必要になってくると思われます。

一言で言い表せば外国から豊かさを買うことが徐々にできなくなっていきます。

その結果が最終的に確定した時点で戦後の豊かさの貯金を全部使い果たしたということになると思われます。

お金の額と価値の違いを理解できる知恵を持てるかどうかで備えの結果が大きく分かれてきます。

外国から豊かさを買い続けるためには支払うお金の額のなかに豊かな価値が含まれている必要があります。

豊かな時代に積み上げてきた価値が底をついてしまった時点でやり直しが必要となります。

数字の額は簡単に増やすことが可能ですが中身の本当の価値はそれほど簡単に増やすことは出来ません。

数字の額を増やした分の価値をどこかで生み出さなければ帳尻が合わなくなります。

来年からは必要とされる新たな価値をしっかり生み出すことが出来るかどうかが問われる正念場となりそうです。

外国の豊かさに頼らなくても自分たちで豊かな価値を生み出せるようにもう一度立ち直る必要があります。


選挙後の個人的な感想のまとめとして今年最後の込み入った時事ネタ記事でした。



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HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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