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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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北斗星のラストランを撮り終えて一段落ついたところで過去画像の蔵出しと仕上げを始めています。

いつまでも大事に蔵の中にしまっておいてもワインやウィスキーのように価値が上がるわけではなさそうなので、なるべく早く鮮度が落ちない内に出しておきたいと思っているのですが、何分一枚一枚生データからの手動仕上げなので、右から左へチョチョイのチョイというわけにはいかないものです。




昨年の春、まだ定期運行だった頃に新札幌駅ホームで何気なく撮った1カットですが、これとて今となっては撮り直しのきかない記録の一枚です。

ありきたりなカットでも出来るだけ丁寧に仕上げて捨てる事のないように心がけています。






基本的に一つの構図パターンにつき一枚撮り切りとしているので、沢山のストック写真を持ち合わせていないのですが、それでも思った以上に枚数が溜まっていて全部仕上げられるまでにはまだ相当の時間がかかりそうです。

中には旧式機材特有の大きくカラーバランスが崩れたカットもあって、そういった難物は記憶をたよりに出来るだけニュートラルな色合いに近づけるように、半ば修復と言ってもよい作業を繰り返すことになります。

撮影時にカメラが記録した生データからコントラスト、シャープネスの兼ね合いを見ながら仕上げて行きますが、若干派手目よりな仕上げになっても見た目に好ましい記憶色に近づけるところがミソです。

この辺りは人それぞれ好みの差が出やすい部分ですが、カメラがとらえた光の明暗に対して人間の肉眼で見た映像は暗い部分は明るく、明るすぎる部分は暗くといった具合に、脳が色合いも含めて自動的に見たいように見えるよう自動補正しているそうなので、機材が撮った時点でのニュートラルさよりもむしろ主観的に好ましく見えるほうが実際の印象に遠からずあたっているのではないかなと個人的に思っています。

北斗星が完全引退したところでいよいよ道内からは撮るべき被写体となる列車も限られてくることから、今までのスタンスで写真を撮り続けても、これまで撮りためたカットを上回る魅力的な一枚を撮ることは難しくなりそうだと感じています。

ただ惰性で繰り返し撮り続けても、過去の成果を上回ることもできないばかりで虚しさだけが募りそうなので、この先も鉄道を含めて写真を取り続けていくために何か根本的に自分の取り組むスタンスや考え方を変える必要がありそうです。

これまで人さまの作品をまじまじと見る方ではなかったのですが、日本最後のブルートレインとなった北斗星の大団円のそれぞれの成果を拝見したく思い、ネット検索をかけたりして目に止まった作品を縦横無尽に見ていきましたが、そのどれもが想像以上にハイクォリティーでただ驚くばかりでした。

ピントも構図も露出仕上がりもほぼ完璧で突っ込みどころがないばかりか、そういったもはやプロレベルの写真がごく当たり前のように何十枚も決めてくる様に圧倒されるばかりです。

これはどうこだわってみても、もはや自分のような即席B級写真を大量生産している人間が出る幕ではないなあと思い至った次第です。

北斗星だけに関して見ても、こちら側のDD51青釜x2先頭のみならず関東~東北のEF510や青函のED79まで含めても完成度の高い、高すぎると言ってもよいくらいの出来栄えです。

近年の撮影機材の目覚ましい進歩もさることながら、撮影者どうしの切磋琢磨による熟達の度合いこそが最大の決め手だと思います。

自分も負けてはいられないので、これまで以上に精進して一縷の隙もない完璧なカットをものに出来るようチャレンジし続けようと思います、、、と言いたいのはやまやまなのですが、それは果たして今の自分にとって相応しいスタンスなのかと自問すると、その答えは否と出ます。

体力的にも経済的にも年齢的にも厳しくなってきたという条件面での制約は否めませんが、でもそれらが一番の理由ではありませんし、それでモチベーションが下がるということもありません。

優劣を競う気持ちで写真を撮りたくないというのが一番の本音です。

自分の撮った写真の出来栄えにはこれでも一方ならない拘りや思い入れがありますが、それは自分以外の人に向けて誇示したり主張する為のものではなく、一重に好きな鉄道車両や情景の姿を自分が見て感じたままに静止した一枚の画として記憶に留めて置くためのものです。

気が付くと結構な長い期間にわたり撮影に勤しんできた経験から言えることですが、自分がその被写体にカメラを向けて撮影するにあたり、どのような気持ちで向き合うのかという心のスタンスの違いは最終的に写した一枚のなかに如実に顕れるものだと思います。

いざシャッターを切る段になってからイメージが大事とか色々あれこれと考えながらカメラを振り回していると、結果的に何と何を入れて撮ったのかイマイチ解りづらい結果になったり、単に雑念が増して失敗に終わるだけといったことになりがちなので、本番はシンプルになるべく余計なことを考えないほうが無難です。
 
その被写体を撮ろうと決めた最初の心の挙動が核となって結果に反映されます。

自分が最初にその写真を撮ろうと決めた時の装いのない始めの動機が結果である作品から伝わる個性や印象に強く結びつくと思います。

なので、常に自分の心のうちに何があって結果的にどういったニュアンスを込めたのかを自己観察することが大切だと考えています。

ここからはより幅広い意味で内観的な話になりますが、これまで自分の中で到底見つけることは出来ないだろうと信じて丸ごと棚上げしてきたある問いかけに対して今この時にこそ、その問いかけの答えを見出さなければならないと切実に思うようになりました。

写真撮影に関しても、この難しい問いかけに対して明確なものでないにしても、一応の回答を見出さなければ、これまでよりも一歩進んだ表現の領域に入ることが出来ないのではないかと感じています。

鉄道のような人工的な機能物や、または自然風景のように直接人間が関わらなくとも成立している分野に触れる際は間接的な表現に徹することで避け続けることも出来ますが、こと直接的に人間そのものを扱い表現しようとする個人的な創作においては、この問い掛けに対して段階的に答えを見出し続ける必要がより一層増してきます。

この難解そうで実は単純明快な問いかけが一体何を意味するものなのかを言葉だけで説明することは難しいですが、いずれ近いうちにそれらを表現できる端緒のようなものを見つけられそうだという予感はあります。

いずれにしてもこれまで長らく思考してきたことを実践に移すことあるのみです。

結果と結論はいずれ後からついてくると気楽に考えています。

来月以降、徐々に暑さも過ぎ去って、いよいよ秋が深まり始めますが、今夏をもって北斗星が廃止された後も来冬までカシオペアとはまなすが存続することが決まりそのことだけは素直に喜んでいます。

これまでの撮影スタンスの延長線にすぎませんんが、北斗星までで撮りきることの出来なかった若干のカットに限定して再び撮影に出ようと考えています。

これまでのスタンスから新しい表現のスタンスへ移行と飛躍を図ろうとするこの時期でも変わらず大切なことは、自分本来のスタンスを見失わず未消化のカットをものにして一時代の記録集を完成させることです。







今日の札幌発上野行き臨時北斗星を最後に日本の鉄路から青い寝台特急列車=正調派ブルートレインの歴史に終止符が打たれました。

つい先程、夕方頃に近場の見晴らしの良い場所から一人見送ってきましたが、まだ今日がその最後の列車だったという実感は湧いてきません。

いまだ根強い人気のあることからも、いささか早過ぎる退場であるような気がしてなりません。

新幹線ではカバーしきれない旅行客層のニーズを満たすためにも発展的な継続が叶わなかったことが残念です。

泣いても笑っても今日で最後の一往復ということで、どこで見送ろうか少し思案の後決めたのは豊平川を渡りきった河岸の土手でした。

一時間ほど前に現地へ到着し最後ということでかなり混雑しているかと思いきや自分が二番乗りでした。

くもりと日照りを繰り返す空模様の下で待っていると北斗星通過20分前くらいになると、まわりに続々と人が集まり始め、気が付くと自分のまわりには三脚の列とカメラを構えた人たちがズラリと並んでいました。

撮り鉄の人たちばかりかと思いきやサイクリングの途中で立ち寄ったと思しきチャリダーの人や、どういうわけか楽器ケースを担いでいる人やしき布をしいて日傘をさしながら編み物をしている女性など、普段は鉄道に興味のなさそうな人たちもたくさん集まっていました。




定刻よりも数分遅れてやってきた最後の札幌行き下り北斗星を豊平川橋梁を渡りきったところでサイド気味にまとめました。

通過数分前に晴れ間がさしてくれたおかげで青空の下を走る姿をとらえた明るい一枚となりました。





ラストランのプラチナチケットを射止めた幸運な乗客の皆様。

もうまもなく長そうで短い旅のフィナーレです。

お忘れ物のないようもう一度お手回り品のご確認をお願いします。
 
 
 
 
乗客の皆様が手を振っています。

一瞬の邂逅の間に手を振り返す余裕はなく、ただ夢中でファインダーを凝視しながらシャッターを切り続けました。これも旅の良き思い出の1シーンとなれば幸いです。





 
本当に去り際は一瞬でした。

余韻を確かめる間もなく人々は無言のまま帰り支度をはじめ一人また一人と軽い会釈とともに立ち去って行きました。最後の釣果を確認して納得すると足元に散らばった荷物をまとめていったん帰路につきました。





北斗星は一往復だけ乗車できる機会に恵まれ今では貴重な思い出となっています。

その時は急を要する用事で乗ったのでゆっくりと旅行を楽しめる条件ではなかったのですが、それでも行きと帰り共に開放型B寝台の夜汽車の旅を半寝半起きで堪能できました。

いつかまた今度はゆったりと個室寝台で乗車したいと思っていましたが叶わぬ夢で終わってしまいました。

後ろばかりを振り返ることはあえてしません。

でもやっぱり夜汽車の旅の魅力は尽きることのないものです。

いつか、時代が巡ってスピードと利便性ばかりを追求される世の中の在り方に疑問を投げかけられ、利益と効率のためではなく人々の意思で必要とされる乗り物として夜汽車の旅が取り戻される日が来るという一縷の夢に今は希望を託して前を向こうと思います。





今日はとても蒸し暑い一日でした。

とはいえ、本場の内地に比べればこれでも別天地のように快適だと言われてしまいそうな程度でしょう。

残りの運行日程が数える程となった臨時北斗星を撮影するため、天気と体調その他のタイミングが良い日は出かけるようにしています。

前日までの雨は朝までに止んでくれたので、やや遅めの時間に自宅を出ることができました。

向かった場所は前回と同じ豊平川河川敷の菊水よりです。




前回の菊水S字カーブで画角違いのパターンに挑むつもりでしたが、曇りがちの低コントラストな条件から予定を変更し河川敷に降りて一本ポプラを真ん中に置いた構図としました。今日のような天候と光線加減ではちょうど良い感じになったと思います。快晴の夏の日差しだとコントラストが上がりすぎてゴツゴツした感じになってしまいます。





撮るものを撮った後はすぐに退散します。

このまま河川敷を優雅に散策しようなどと思いつく間もなく帰路につきました。

たった30分未満の撮影待ち時間でしたが多量の汗が滴り落ちてきてメガネを曇らせるほどでした。

お目当ての列車通過10分くらい前になると俄に晴れ間がのぞき出してきて、そこからピンポイントで照射される強力な日差しのせいでちょうど身体の右側1/3だけがジリジリ焼かれるような感じでした。

もともと体温の調整がうまくできない体質なので後々の体調不良が怖いのです。

今日は北斗星以外にも少し待てば比較的レアな回送列車が来ることが分かっていましたが欲張らずに大人しく諦めました。

家に帰り着いてからシャワーを浴びた後から頭がガンガンしだして夕方までしばらく寝込んでいました。

日暮れ時にはとても涼しくて気持ちのよい風がふいてきて懸念した体調も大きく壊すこと無く回復しました。

まあ、いつもそんな感じですが、この先もマイペースでこなしていこうと思っています。





PS.)
今日の夕食時に家猫のにゃんちょんさんが唐突に何の前触れもなく毛羽立ちはじめて急にダッシュして押入れの奥へ隠れてしまいました。そのあと1分も経たないうちにドスンと鈍い衝撃が一回だけ走りました。これはいつもの大型車の衝撃ではなく地震によるものだと気づくのに時間はかかりませんでした。しばらくするとニュースのテロップに日高沖の小規模な地震であることが表示されましたが、このことで動物には人間には無いかすでに退化したイザという時のための鋭い感覚があるのだなということを再認識しました。そういえばつい今週の月曜日にも夕食後にゃんちょんさんがいつも寝ている椅子の上で急に飛び起きてとても怯えたような様子で悪い夢にでもうなされていたような感じでした。その日は夜まで落ち着かない様子でいつもよりも寝付くまで時間がかかりました。最近小康状態で落ち着いている地震火山活動が活発化する前触れかもしれないと少し心配になりましたがあまり気にしすぎてもこればかりは仕方ありませんね。ちなみに今のにゃんちょんさんは落ち着きを取り戻して座布団の上でくるまりながらくつろいでいます。何気ない日常が続くことに今日も感謝です。





今日は何とか外にでる気力もあったので残り僅かとなった寝台特急北斗星の記録パターンを撮影してきました。

向かった先はS字カーブをくねらせて通過する姿を撮れる有名ポイント、通称「菊水カーブ」です。

近隣では定番撮影地の一つですが今まで撮影目的で足を運んだのは数えるほどでした。

天気は予報に反して雲一つない快晴で、昼前の強烈な日光が真上から照りつけてくることで遠くの線路上は陽焔ゆらゆら、半逆光全開の光線状態は条件的に良いとは言えませんでした。

一時間以上前から来る列車相手にリハを繰り返しながら待っていましたが、豊平川沿いの涼しい風が終止途絶えることなく吹いていたことがせめてもの救いでした。




定刻より少し遅れ気味でやって来た北斗星を定番通りの構図で収めました。

こうして出来上がりを見ると懸念したゆらゆらの影響もなくスッキリとまとまりました。これでレパートリーの穴が一つ埋まったので満足です。






今日の撮影は狭い足場の定員一杯の自分を含む4名でした。

いよいよラストスパートに向かって沿線も賑やかになってくると予想されるので自分的撮影スケジュールも早めに回していきたいものです。

最後のシメがどんなカットになるのかまだ見定めていませんが、この期に及んでジタバタしたりせず、無理しない基本に則ったカットをたんたんと収めていこうと考えています。

これまで撮った中で未整理のカットと整合性が取れる組み合わせを実現させることが狙い目です。

 




一昨日、赤い電車保存プロジェクトから引き換えの品が届きました。

当初の予定より若干遅れていたようですけれど500件近い応募があったそうで仕分けが大変だったことと思います。(※下のポプラ号HMマウスパッドは以前に自前で購入した品です。)





素敵な絵柄のポストカードと本屋さんで買わずに待っていた写真集が届きました。

店頭に並んだ時にちらほら中身を確認していましたがこれでゆっくりと鑑賞できます。

全体をざっと見ていくだけで赤い電車の生き生きとした表情が蘇ります。

四季を通じた鮮やかな色彩と赤い電車の強烈なインパクトの対比がこれでもかというほど伝わってきました。

47年間という短くない時間を道都札幌を中心とした道央の鉄路を駆け巡って来た存在感は決して小さなものではなかったことを、この写真集の中の一枚一枚の力作が雄弁に語りかけているようです。

風光明媚な港町小樽を出発し日本海沿岸の断崖絶壁の張碓、恵比寿岩付近の名景勝地を通り抜け銭函から先は大都会のベットタウンである星置、手稲へ至り、高層マンション群が連なる琴似、桑園の副都心を過ぎると最大のターミナルである札幌駅に到着します。

名実ともに北海道の政治経済文化の中心地である道都札幌を出ると右手にランドマークの赤いテレビ塔を横目に通り過ぎ、反対の左手にはサッポロビールの旧赤レンガ工場の煙突や共に明治期から続く道内鉄道網の中枢の要であるJR苗穂工場を見送りながらやがて急流の豊平川を渡ります。

白石、厚別、森林公園を過ぎて札幌市内を抜けると春は桜で有名な鉄道防風林沿いに大麻、高架の野幌、高砂、近郊列車の折り返し駅である江別を過ぎるとすぐに秋に鮭が遡上する千歳川を渡って石狩川沿いの平野部へ踊り出ます。

続いて茶色く濁った水面の夕張川を超えて豊幌を出ると石狩から空知へ行政区域が変わります。

幌向から上幌向まで左手の防風林と道内有数の幹線道路である国道12号線を右手に並行しながら遮るもののない一直線を走り抜けます。

やがて右手から石炭輸送用の短絡線を改修した現ルートの室蘭本線と合流し旧操車場跡の広大な空き地を見ながら古くからの鉄路の要衝、岩見沢駅へ進入します。

明治期の古レールを組んで造られたホーム上屋の下に馬橇を引いた姿の農耕道産子の木造が置かれた岩見沢で小休止を済ませると米どころの本場である空知地方のど真ん中をさっそうと走り抜けます。

広大な作付面積の田んぼや畑が視界の中をどこまでも続く峰延、光珠内を抜けると平行する国道の下をくぐり左へ大きくカーブを描き急に山が近づいて来たように感じます。

夕張と並ぶ空知地方の大きな産炭地の一つである美唄に到着、続いて茶志内、奈井江、砂川と田園穀倉地帯中を走りますが、これらの駅はみな大きな炭鉱の所在地か連絡駅でした。

先日、痛ましい交通事故による悲劇が起きた現場付近を通って国道沿いを離れると、遠く富良野盆地へ至る山間から流れ下った空知川を長いトラス橋で渡り終えると根室本線の接続駅である滝川駅に到着します。

滝川は赤い電車がデビューした1968年(昭和43年)当時の終着駅でした。

日高山地を真横に貫通する短絡ルートの石勝線が開通するまで道東方面へ向かう大幹線だった根室本線と別れて江部乙へ至ると周囲は菜の花畑で有名な丘陵地帯となり、左手に秀峰暑寒別岳を抱く増毛連山を思ったよりも近くに仰ぎ見ながら徐々に標高を上げ始めたところで初めて石狩川を渡ります。

再び田園穀倉地帯の中を通りぬけ妹背牛、留萠本線の接続駅である深川に停車、次の納内を過ぎると広大な空知の田園風景が終わりを告げて長いトンネルの中へ吸い込まれていきます。

小樽ー滝川間電化とともに赤い電車がさっそうとデビューした翌年、石狩川沿いの奇岩景勝地で古くはアイヌの時代から魔が潜むと言われる神居古潭をバイパスするために造られた神居古潭トンネルを抜けると終点旭川はもうすぐです。

氷点下30度を下回ることもある日本で最も酷寒の気候の中でも確実に走れる画期的な電車として産声を上げた赤い電車711系が47年間の長ききにわたって、そのほぼ全ての期間を過ごしたのが函館本線の小樽ー旭川間でした。

1980年には千歳線、室蘭線の電化が完成、この時から赤い電車は工業地帯や馬産地で知られる太平洋側へも進出を果たしました。

国鉄から民営会社へ移行した後も新千歳空港駅の開業とともに乗り入れを果たし最近の学園都市線電化後も短期間ながら活躍しました。

こうして振り返ってみると北海道中央部の主要な地域や文化圏を赤い電車がもれなく繋いでいたことが伺えます。

そして47年という長い活躍の間に道内の歴史文化や人々の生活スタイルがどれほど大きく変化したかを考えてみると、ある意味、実年齢以上に幅広い変化を経験した時代の中を走り抜けたと言えそうです。

1960年代といえば自動車(カー)、カラーテレビ、エアコン(クーラー)が3Cとか新三種の神器と言われていた時代です。

そう書いているぼく自身はもちろん生まれていませんしちょうど両親の子供時代で知り合ってもいない頃です。

もっとも梅雨もなく夏も比較的涼しい北海道では3Cのうちクーラーは必需品ではなく、どちらかと言うと贅沢品の類でしたでしょうから、当時の大方の人たちはせいぜい扇風機までで団扇や扇子だけで済ませる人も多かったはずです。

(そういえば赤い電車にクーラーが付いたのは21世紀に入ってからでしたがそれでも驚きました。しかし最後まで半分は国鉄印の扇風機のままでした。)

岩見沢駅ホームで見られる木像ではなく本物の馬橇がでこぼこの雪道を夏場は荷馬車が土煙を立てて通りを行き交っていた時代です。

便所といえば垂直ボットン重力落下方式が当たり前で(田舎の駅では一部現役、かつての祖父母の家がそれでした。)清潔な温水便座付きの洋式トイレが普及するのは大分先のことです。

そんなアナログ一色の時代からパソコンやネットが登場しケータイがスマホに進化する今現在まで走り通したわけですから、実は後にも先にもありえない希優な存在だったのかもしれません。

北海道のど真ん中を長期にわたって走り続け、時代や世代を超えて多くの人々から親しまれた赤い電車は名実ともに地域の風土と文化に溶け込み一体となっていったと思います。

そんな北海道の歴史と文化にとってかけがえのない赤い電車が無慈悲に解体処分されていく中で、民間から保存活動を立ち上げて先頭車2両を救い出すことに成功したことは今考えてみても奇跡的な出来事だったと思います。

個人的な一ファンとしても活動を立ち上げて下さった方々の決断と行動に感謝とともに脱帽です。

待っていた贈り物が届いたので、この後は実際の保存地への移送作業の進展とレストランのオープンを心待ちにしています。

また近いうちに機会を見つけて途中の様子をこっそり伺いに行ってみようかなと思っていますが、まだどうするかは決めていません。
 
ここであらためて写真集に収められた生きた赤い電車の姿を眺めていると、これらの光景が単に過去形の記憶のままで終わってしまっていいものなのか、激しく疑問に思う気持ちが沸き起こります。

古いものが役割を終えて去って行くことは逆らいようのない厳然とした約束事ですが、その去っていく者たちの残した功績や引き継ぐべき役割まで無視して、何もかも粗大ごみとして処分してしまうだけで良いものかと何度も考えてしまうのです。

鉄道の分野に限らず、いつの時代も斬新なものが次から次へと現れては従来品に取って代わりますが、それらの新しく登場したものが必ずしもそれまであった古いものが持つ魅力や機能、役割まで全て受け継いでくれるものとは限りません。

それどころか一つの画期的なものの登場の影で従来からあったものの中でこれからも必要とされるものがいくつも同時に、その存在の意味と価値を殆ど顧みられること無く歴史の闇の中へ次々と消え去っていく現実があります。

無節操な新し物への礼賛とあわせて行き過ぎた金銭的儲け主義のために人々の原始的な欲求を駆り立て続けようとする限り、こういった悲しい盲目的な風潮は終わること無く続いて、その結果として人々が本当に必要とする当たり前の物事が疲弊と消耗を繰り返しながらことごとく世の中から消えていくという負の連鎖へと導かれていきます。

最後の結末として訪れるのは人々が信じて夢見た豊かさでも大きな経済的な利益でもなく、その正反対の社会全体にうず高く積まれた負債=借金の夥しい山々の待った無しの精算です。

本当の意味で必要のないものや分野に投じられた資金が最終的に増えて帰ってくることはありえないのです。

それがすぐに儲けが出て発展していたように見えたのは単純に儲かっている一部分だけを切り出して見せられていたことによる大衆的な錯覚です。

世の中全体を見ても、もっと広く世界中を見渡しても、あるいはそのさなかで生活している私たち一人一人の生き方や在り方についても、あらゆる分野や方面で超えられない限度の一線に近づいている兆候が見られます。

最後にもう一度、赤い電車の走った姿を通して見えてきた時代の変化と人々の移ろいに目を向け直すと、このままでは多くの人々にとって本当に必要だった大切なものを何もかも気がついたら失ってしまうよと無音の警笛を鳴らされているような気がするのです。

人々の意思の繋がりで辛くも生き延びる道を得た2両の赤い電車が失いかけている大切な何かを思い出して取り戻すための拠り所となってくれるような気がします。


PS)
今は望むべくもないかもしれませんが、いずれは何らかの形をとって鉄道文化の本格的な見直しと再復興が真剣に討論される時期が来るのではないかと思います。その時に今現在、全国で盛んになっている引退した往年の名車両の保存活動などを通して残された遺産がこれからの鉄道の在り方にとって取り戻すべき要素や魅力は何かを探りだすための指標として一役買うことになると予想してみるのも妙案ではないかと思います。昨今主流になった徹底した効率機能追求仕様の鉄道車両の最大の欠点は人々を惹きつける魅力に乏しいことです。魅力が乏しければ利用する人々にとって積極的な意識を持って選択する対象となりえず鉄道から足が遠のきます。新幹線のように早く快適に目的地へ運んでくれるというメリットだけでは何かが足りないのです。グローバル化の進展と高速ネット環境の普及の結果、国内のビジネス出張利用は縮小し反対に少子高齢化の影響や外国人観光客の増加による新たな行楽客の需要が増えつつあります。単に移動の手段のためだけにとどまらない、その列車に乗ること自体が目的化されるようなコンテンツ性が特定のイベント列車のみならず一般の通勤通学列車やローカル列車にも求められるようになるでしょう。速達性や機能性ばかりで味気ない銀色の車両ばかり溢れかえる現状は早晩に見直される時期を迎えていると思えて仕方ありません。はるばる本州各地から行楽客を乗せてやってきた新幹線が青函トンネルをくぐり抜けて到着した直後に都会の日常と全く同じ通勤電車に乗せられるのは果たして気の利いたサービスだと受け止めてもらえるのか今から心配です。そういった観点からもいったんは役割を終えた赤い電車や終焉を迎えつつある寝台特急の存在と魅力は大きいものがあると思います。大きく空いてしまった隙間を埋めるような古くて新しい魅力をそなえた進化した鉄道の在り方が今後ますます求められていくでしょう。
 
 


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HN:
鈍行翼
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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