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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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一昨日、赤い電車保存プロジェクトから引き換えの品が届きました。

当初の予定より若干遅れていたようですけれど500件近い応募があったそうで仕分けが大変だったことと思います。(※下のポプラ号HMマウスパッドは以前に自前で購入した品です。)





素敵な絵柄のポストカードと本屋さんで買わずに待っていた写真集が届きました。

店頭に並んだ時にちらほら中身を確認していましたがこれでゆっくりと鑑賞できます。

全体をざっと見ていくだけで赤い電車の生き生きとした表情が蘇ります。

四季を通じた鮮やかな色彩と赤い電車の強烈なインパクトの対比がこれでもかというほど伝わってきました。

47年間という短くない時間を道都札幌を中心とした道央の鉄路を駆け巡って来た存在感は決して小さなものではなかったことを、この写真集の中の一枚一枚の力作が雄弁に語りかけているようです。

風光明媚な港町小樽を出発し日本海沿岸の断崖絶壁の張碓、恵比寿岩付近の名景勝地を通り抜け銭函から先は大都会のベットタウンである星置、手稲へ至り、高層マンション群が連なる琴似、桑園の副都心を過ぎると最大のターミナルである札幌駅に到着します。

名実ともに北海道の政治経済文化の中心地である道都札幌を出ると右手にランドマークの赤いテレビ塔を横目に通り過ぎ、反対の左手にはサッポロビールの旧赤レンガ工場の煙突や共に明治期から続く道内鉄道網の中枢の要であるJR苗穂工場を見送りながらやがて急流の豊平川を渡ります。

白石、厚別、森林公園を過ぎて札幌市内を抜けると春は桜で有名な鉄道防風林沿いに大麻、高架の野幌、高砂、近郊列車の折り返し駅である江別を過ぎるとすぐに秋に鮭が遡上する千歳川を渡って石狩川沿いの平野部へ踊り出ます。

続いて茶色く濁った水面の夕張川を超えて豊幌を出ると石狩から空知へ行政区域が変わります。

幌向から上幌向まで左手の防風林と道内有数の幹線道路である国道12号線を右手に並行しながら遮るもののない一直線を走り抜けます。

やがて右手から石炭輸送用の短絡線を改修した現ルートの室蘭本線と合流し旧操車場跡の広大な空き地を見ながら古くからの鉄路の要衝、岩見沢駅へ進入します。

明治期の古レールを組んで造られたホーム上屋の下に馬橇を引いた姿の農耕道産子の木造が置かれた岩見沢で小休止を済ませると米どころの本場である空知地方のど真ん中をさっそうと走り抜けます。

広大な作付面積の田んぼや畑が視界の中をどこまでも続く峰延、光珠内を抜けると平行する国道の下をくぐり左へ大きくカーブを描き急に山が近づいて来たように感じます。

夕張と並ぶ空知地方の大きな産炭地の一つである美唄に到着、続いて茶志内、奈井江、砂川と田園穀倉地帯中を走りますが、これらの駅はみな大きな炭鉱の所在地か連絡駅でした。

先日、痛ましい交通事故による悲劇が起きた現場付近を通って国道沿いを離れると、遠く富良野盆地へ至る山間から流れ下った空知川を長いトラス橋で渡り終えると根室本線の接続駅である滝川駅に到着します。

滝川は赤い電車がデビューした1968年(昭和43年)当時の終着駅でした。

日高山地を真横に貫通する短絡ルートの石勝線が開通するまで道東方面へ向かう大幹線だった根室本線と別れて江部乙へ至ると周囲は菜の花畑で有名な丘陵地帯となり、左手に秀峰暑寒別岳を抱く増毛連山を思ったよりも近くに仰ぎ見ながら徐々に標高を上げ始めたところで初めて石狩川を渡ります。

再び田園穀倉地帯の中を通りぬけ妹背牛、留萠本線の接続駅である深川に停車、次の納内を過ぎると広大な空知の田園風景が終わりを告げて長いトンネルの中へ吸い込まれていきます。

小樽ー滝川間電化とともに赤い電車がさっそうとデビューした翌年、石狩川沿いの奇岩景勝地で古くはアイヌの時代から魔が潜むと言われる神居古潭をバイパスするために造られた神居古潭トンネルを抜けると終点旭川はもうすぐです。

氷点下30度を下回ることもある日本で最も酷寒の気候の中でも確実に走れる画期的な電車として産声を上げた赤い電車711系が47年間の長ききにわたって、そのほぼ全ての期間を過ごしたのが函館本線の小樽ー旭川間でした。

1980年には千歳線、室蘭線の電化が完成、この時から赤い電車は工業地帯や馬産地で知られる太平洋側へも進出を果たしました。

国鉄から民営会社へ移行した後も新千歳空港駅の開業とともに乗り入れを果たし最近の学園都市線電化後も短期間ながら活躍しました。

こうして振り返ってみると北海道中央部の主要な地域や文化圏を赤い電車がもれなく繋いでいたことが伺えます。

そして47年という長い活躍の間に道内の歴史文化や人々の生活スタイルがどれほど大きく変化したかを考えてみると、ある意味、実年齢以上に幅広い変化を経験した時代の中を走り抜けたと言えそうです。

1960年代といえば自動車(カー)、カラーテレビ、エアコン(クーラー)が3Cとか新三種の神器と言われていた時代です。

そう書いているぼく自身はもちろん生まれていませんしちょうど両親の子供時代で知り合ってもいない頃です。

もっとも梅雨もなく夏も比較的涼しい北海道では3Cのうちクーラーは必需品ではなく、どちらかと言うと贅沢品の類でしたでしょうから、当時の大方の人たちはせいぜい扇風機までで団扇や扇子だけで済ませる人も多かったはずです。

(そういえば赤い電車にクーラーが付いたのは21世紀に入ってからでしたがそれでも驚きました。しかし最後まで半分は国鉄印の扇風機のままでした。)

岩見沢駅ホームで見られる木像ではなく本物の馬橇がでこぼこの雪道を夏場は荷馬車が土煙を立てて通りを行き交っていた時代です。

便所といえば垂直ボットン重力落下方式が当たり前で(田舎の駅では一部現役、かつての祖父母の家がそれでした。)清潔な温水便座付きの洋式トイレが普及するのは大分先のことです。

そんなアナログ一色の時代からパソコンやネットが登場しケータイがスマホに進化する今現在まで走り通したわけですから、実は後にも先にもありえない希優な存在だったのかもしれません。

北海道のど真ん中を長期にわたって走り続け、時代や世代を超えて多くの人々から親しまれた赤い電車は名実ともに地域の風土と文化に溶け込み一体となっていったと思います。

そんな北海道の歴史と文化にとってかけがえのない赤い電車が無慈悲に解体処分されていく中で、民間から保存活動を立ち上げて先頭車2両を救い出すことに成功したことは今考えてみても奇跡的な出来事だったと思います。

個人的な一ファンとしても活動を立ち上げて下さった方々の決断と行動に感謝とともに脱帽です。

待っていた贈り物が届いたので、この後は実際の保存地への移送作業の進展とレストランのオープンを心待ちにしています。

また近いうちに機会を見つけて途中の様子をこっそり伺いに行ってみようかなと思っていますが、まだどうするかは決めていません。
 
ここであらためて写真集に収められた生きた赤い電車の姿を眺めていると、これらの光景が単に過去形の記憶のままで終わってしまっていいものなのか、激しく疑問に思う気持ちが沸き起こります。

古いものが役割を終えて去って行くことは逆らいようのない厳然とした約束事ですが、その去っていく者たちの残した功績や引き継ぐべき役割まで無視して、何もかも粗大ごみとして処分してしまうだけで良いものかと何度も考えてしまうのです。

鉄道の分野に限らず、いつの時代も斬新なものが次から次へと現れては従来品に取って代わりますが、それらの新しく登場したものが必ずしもそれまであった古いものが持つ魅力や機能、役割まで全て受け継いでくれるものとは限りません。

それどころか一つの画期的なものの登場の影で従来からあったものの中でこれからも必要とされるものがいくつも同時に、その存在の意味と価値を殆ど顧みられること無く歴史の闇の中へ次々と消え去っていく現実があります。

無節操な新し物への礼賛とあわせて行き過ぎた金銭的儲け主義のために人々の原始的な欲求を駆り立て続けようとする限り、こういった悲しい盲目的な風潮は終わること無く続いて、その結果として人々が本当に必要とする当たり前の物事が疲弊と消耗を繰り返しながらことごとく世の中から消えていくという負の連鎖へと導かれていきます。

最後の結末として訪れるのは人々が信じて夢見た豊かさでも大きな経済的な利益でもなく、その正反対の社会全体にうず高く積まれた負債=借金の夥しい山々の待った無しの精算です。

本当の意味で必要のないものや分野に投じられた資金が最終的に増えて帰ってくることはありえないのです。

それがすぐに儲けが出て発展していたように見えたのは単純に儲かっている一部分だけを切り出して見せられていたことによる大衆的な錯覚です。

世の中全体を見ても、もっと広く世界中を見渡しても、あるいはそのさなかで生活している私たち一人一人の生き方や在り方についても、あらゆる分野や方面で超えられない限度の一線に近づいている兆候が見られます。

最後にもう一度、赤い電車の走った姿を通して見えてきた時代の変化と人々の移ろいに目を向け直すと、このままでは多くの人々にとって本当に必要だった大切なものを何もかも気がついたら失ってしまうよと無音の警笛を鳴らされているような気がするのです。

人々の意思の繋がりで辛くも生き延びる道を得た2両の赤い電車が失いかけている大切な何かを思い出して取り戻すための拠り所となってくれるような気がします。


PS)
今は望むべくもないかもしれませんが、いずれは何らかの形をとって鉄道文化の本格的な見直しと再復興が真剣に討論される時期が来るのではないかと思います。その時に今現在、全国で盛んになっている引退した往年の名車両の保存活動などを通して残された遺産がこれからの鉄道の在り方にとって取り戻すべき要素や魅力は何かを探りだすための指標として一役買うことになると予想してみるのも妙案ではないかと思います。昨今主流になった徹底した効率機能追求仕様の鉄道車両の最大の欠点は人々を惹きつける魅力に乏しいことです。魅力が乏しければ利用する人々にとって積極的な意識を持って選択する対象となりえず鉄道から足が遠のきます。新幹線のように早く快適に目的地へ運んでくれるというメリットだけでは何かが足りないのです。グローバル化の進展と高速ネット環境の普及の結果、国内のビジネス出張利用は縮小し反対に少子高齢化の影響や外国人観光客の増加による新たな行楽客の需要が増えつつあります。単に移動の手段のためだけにとどまらない、その列車に乗ること自体が目的化されるようなコンテンツ性が特定のイベント列車のみならず一般の通勤通学列車やローカル列車にも求められるようになるでしょう。速達性や機能性ばかりで味気ない銀色の車両ばかり溢れかえる現状は早晩に見直される時期を迎えていると思えて仕方ありません。はるばる本州各地から行楽客を乗せてやってきた新幹線が青函トンネルをくぐり抜けて到着した直後に都会の日常と全く同じ通勤電車に乗せられるのは果たして気の利いたサービスだと受け止めてもらえるのか今から心配です。そういった観点からもいったんは役割を終えた赤い電車や終焉を迎えつつある寝台特急の存在と魅力は大きいものがあると思います。大きく空いてしまった隙間を埋めるような古くて新しい魅力をそなえた進化した鉄道の在り方が今後ますます求められていくでしょう。
 
 


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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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