北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今日はとても抽象的で観念的な独り言です。
午前中に撮影に出かけたのですが、思ったような成果を上げることが出来ず、大きなミスショットではないにしろ、自分のイメージと半歩だけ噛み合わず、とてもしっくりこない後味だったので、後日また調度良い機会があれば再試行したいと考えています。
それでも、今日のような無収穫な日のうちでも、内心ではある閃きというものなのか、現実の撮影から一歩離れた感覚の中で心に引っかかるものが見つかり、最初それが不快に感じても、すぐ後からとても大切な示唆の入り口だったことに気付かされます。
今日はなるべくしてなったと思えればそれで良いとして話を進めます。
唐突なのですが、今日感じた心の引っ掛かりについて詳しく紐解いて行くと、自分でも驚いたことに、とうの昔に忘れ去っていたはずのある感慨、記憶をたどればおそらく14歳頃の自分が抱いていただろうおぼろげな、でもとても強かった問いかけの詳細な一面とその回答らしき内容がふいに現れてきたのです。
その時、自分は真実に基づいた何かを求めていたと思い至りました。
現実の行為や時間の流れを無視して、まるで今日の今その時に感じていたかのようにリアルな問いかけの復活に戸惑いながらも、当時の自分がいかなる理由付けによっても打ち消しようのなかった鋭い問いかけに対して、難なく応えられる今の自分が確かに存在することに、意外なほど清々しい気持ちさえ感じられます。
真実に基づいていない物事を理由もなく受け止めたくない、あるいはそれ自体を認めたくないことにこだわり続けてきたのかもしれません。
でも、それが結果的に正しかったことが証明されつつあることを告げられて安堵する自分が居ます。
たとえ99.99999..........%の他の人間がそれを認めることが出来なかったとしても何ら問題は無かったのです。
今までの集合的人間性のモデルは真実に基づいて思考し存在を認めることが出来るほど成熟してはいなかっただけだと告げられました。
これについて今は例えることでしか説明できない問題です。
一つの喩え話を始めます。
一枚の10円玉をめぐってある心の住人とその主人格のやりとりを交えた未完成な物語です。
唐突ですが、今そこにある一枚の10円玉を善と悪に分けることが出来ますか?
物理的に分けることは難しそうですが思考の中では自由自在に認識することは簡単そうです。
善と思われる一面だけを見てそれを善と見なし、悪と決められた一面だけを見てそれを悪と見なせれば良いのです。
これで一枚の10円玉は善と悪の2種類に別れることになりました。
ところで10円玉に善と悪のそれぞれがあると、それ自体のどこかに書いてあったり刻印されたりしていましたっけ?
確かに10円玉には額面と発行年号が刻まれた表面と鳳凰堂が刻印された裏面がありますね。
とりあえず表面を善として裏面を悪にしておくと大勢の人たちにとって分かり易くて良い感じですね。
いやいや、あんな数字と漢字だけが刻印された理屈っぽい表面よりも精緻な彫刻で描かれた優雅な裏面の方がよっぽど芸術的で好ましい、よって表が悪で裏が善というわけだ。
それぞれの見解をとって一枚の10円玉は善表、裏悪、表悪、裏善の4種類に分かれました。
まだ大事なことを一つ忘れています。
10円玉には特別希少なものがごく僅かですが紛れ込んでいます。
それは表だけを見ても裏だけを見ても普通の10円玉とほとんど区別が付きません。
それどころか、この特別希少な価値ある10円玉は他の真新しい10円玉や汚れた古めの10円玉よりもさらに古臭く汚れているので普通に手にした人は弾いてしまいやすいのです。
では、その特別希少な10円玉はどうやって見分ければいいのか、一つはとても古いものですがそれだけでは価値があるとは断言できません。
表と裏の境目がちょうど真正面に見えるようにくるんと半回転させるとその特別希少な姿を目にすることができます。
なんと、普通はのっぺりとした板厚の表面が見えるだけですが、この希少な10円玉には等間隔に整然と並んだ横縞模様がしっかりと刻まれているのです。
しかもこの特別な10円玉は相当昔に作られたっきりでもう二度と新しいものは製造されません。
大変貴重なものなのでこれだけは特別に例外として区別しなければならないものなのです。
ところで、これだけ10円玉についてあれこれ分析して意味付けをすることが出来たのですから、そろそろ実際の10円玉を手にとって観察してみようじゃありませんか。
実際の世の中には数え切れないほど沢山の10円玉が存在します。
つい最近造幣局から発行されたばかりの人の手垢のついていないピカピカのものから、人の手から人の手へと長年渡り歩いていい具合に赤銅色をしているもの、手垢にまみれてねっとりしているもの、何かに押し潰されたのか凹んで曲がってしまったもの、表面の淵に大きな切れ込みのような傷があるもの、錆びて緑青が浮いて緑がかったもの、生まれた年号が微妙にズレていて珍しいもの、額面の数字が妙に打ち間違えられていて見つかると廃棄されてしまうもの、、、。
それはそれはもう沢山の表情の違う10円玉があるのですが、何と言ってもせっかく善悪裏表と希少な価値について意味の違いを決めたのですから全ていずれかに区別する必要があります。
まず新しくピカピカした10円玉はどれも見栄えが良いので善のグループに入れます。
でも裏側の一面までは今は見ないことにしておきます。
あとはどれもこれも古い10円玉ということで似たようなものです。
先ほどご享受いただいた特別希少なものと、もう10円玉として使い物にならなくなったものはそれぞれ除外します。
とりあえずバランスを取るために善と悪はほぼ同じ枚数に分かれている必要性があります。
先ほど取り決めた新しくピカピカなものはどれも善としましたので、少しでもきれいなものをより善とし、もう薄汚れて錆びついてしまったものを悪とします。
さて、裏と表の区別はどうしましょうか?
それは元々どの10円玉も全て同じだから本当は区別しようのない問題だ。
表こそ善だと思っている人のためにキレイな表面を持ったものを表の善、裏の彫刻がとして美しいと好む人のためにキレイな裏の面も善としよう、残りの磨いても落ちないほど薄汚いものは適当に表も裏も悪ということにしておきなさい。
でも10円玉には全てのものに表面もあれば裏面もあるのが普通じゃないですか、頭の中の認識では好きな方を選べますが、実際に手にとってしまえば両方の面が目の中に入ってしまいますよ。
そこは簡単なことで解決できる問題だ、表だけなら裏側を削ってしまえばいいし、裏だけ残すなら表側を削って無くしてしまえばいいのだよ、あるいは少し難しくなるが、1枚の10円玉の表と裏を半分に切ってキレイに分割してしまえばいい、そうすれば裏は裏、表は表とはっきり分けて扱うことが出来て簡単かつ大変便利になるのだよ。
でもどちらか一方の面を削るなんて1枚1枚の10円玉にとっては大変な負担ですよ、特にもともと一枚だった10円玉を表と裏に分割するなんて、もしも失敗したらその1枚の10円玉の全てが台無しになってしまいますし、それはとても残酷で不自然なことですよ。
その残酷で不自然なことがごく自然で普通なこととして認められ受け入れられる事こそがこの人の世の中と言うものでありそれが最も重要なのだ、それこそが絶対のルールというものなのだよ、あらゆる全ての10円玉は世の中がそうと認めるからこそ10円玉として存在することが可能になるのだ!
その交換条件として全ての10円玉はこのルールに完全に従う必要がある。
表の10円玉には表の10円玉の、裏の10円玉には裏の10円玉のそれぞれの役割があるものだ。
それを認めないものは10円玉として存在することも生きていくことも出来ないようにしてある。
また善の10円玉が沢山欲しければ反対に悪の10円玉も同じ枚数だけ必要なのだよ、もともと善と悪とで一つの10円だったのだから、そうしておかなければ厳密に辻褄があわなくなって、つまるところ皆にとってかけがえのないほど大切なこの一つしかないこの世の中の仕組みが滅茶苦茶になって成り立たなくなってしまうんだよ、それは何としても避けなければならない由々しき事態だ!
この世の中にとってもう使い道の無くなった古い10円玉やいびつに歪んだ10円玉たちは順番に廃棄するか、それが出来ないものは道端にでも転がったままにして無視すれば良い。
そうそう、特に注意すべきことは先程からくどいほど忠告しているように、特別な刻印が施された10円玉は見逃すこと無く確保しなければ駄目だ、そのまま廃棄するにはあまりにも惜しいし、第一それらの特別な10円玉たちは1枚でも失われたらもう二度と同じものを作り直すことが出来ないからだ。
これらの特別な10円玉たちは表と裏に分ける必要はないし、それをやると価値が減じてしまう、さらにそういった特別な10円玉が一般の10円玉の中に紛れてもしもその存在と価値が知れ渡ってしまうのもマズイことだ、善でも無く悪でも無い、また善でもあり悪でもある、彼らのピュアな性質を羨ましがって、他の一般の10円玉たちが真似を仕出したらそれぞれの役割に徹することをサボるようになってしまう、それでは甚だ都合が悪くなる。
だからこれらの特別なカリスマのある10円玉たちは、一般の世の中よりも1段から数段高い位置に設けた舞台にまとめて祀り上げて普通の10円玉たちからようく見えるようにして区別しなければならない、この意味が分かるかな?
それで一般の10円玉たちは自分たちがごく普通の10円玉に過ぎないと悟って素直に気持よく自ら進んで課せられた役割に徹することができるようになるのだよ。
そもそも、10円玉は10円玉でしかなかったものが随分と差がついて違う話になってきました。
善でも悪でもなく裏も表も一体で特別でもない自然な10円玉はどうやらこの奇妙な世界には存在していないようです。
もしくは、善悪、裏表の区別があることがあまりにも長くアタリマエの事実として受け入れられ浸透してきたためか、どの10円玉も全てはもともと自然でピュアなただの10円玉として互いに等しい価値しかないという真実をすっかり忘れてしまったようです。
10円玉はあなたの私のそして全ての人の心であり魂です。
善と悪、表と裏、それらはみな心の区別、魂の分割です。
分けられた心は傷み、魂は別れた片割れを求めてさすらうものです。
物事に対する善と悪の区別はそれ自体で独立したものです。
それは何人も代表することのない公平な真理の法則に属し委ねるべきものです。
存在する全ての事物の表裏の違いは1枚の10円玉の裏と表の違いのようにもともと一体であることが自然な姿です。
人間の意識だけがこれらをバラバラに分割し別々のものとして区別して認識するのです。
それはごく当たり前の当然の事として普段は特に意識して顧みられることもありません。
でも、そうして分け隔てられた心は常に荒んで傷み魂は密かに悲しみを抱くようになります。
そしてあなたの中の他の10円玉たちの表と裏を、キレイで好ましい善の一面と、薄汚れて悪と見なされた他の側面をはっきりと区別して取り扱う時、あなた自身がそうしてそうされて心が傷つき激しく痛み自分と他者を憎悪するようになるのと同様に、他の者の心と魂を分割しようとしているのです。
自らの内側でこの事を知り、自覚し、絶え間ない葛藤と自己嫌悪の苦痛から解放されたいと芯から望むなのなら、それらの区別を意図して止めるしかありません。
他人がそれをやめても救われるのは他人のその人自身であって自分自身ではありません。
あらゆる人間と人間の関係と相互の認識において、心のある部分とある部分が細かく分割するような意識に基づき、ある者がある者へと傷つき傷つけられ、本来必要のない精神的苦痛やトラウマを生じさせて、愛しあうことと理解し尊重しあうことの代わりに、果てしなく終わることのない憎悪と怨嗟の応酬をもはや当然のこととして受け入れて、繰り返される日常生活の中のループする習慣として受け流し続けることで、わざと互いにすれ違い真正面から向き合うことを回避し、それでも正面からぶつかり合うことが避けられなくなったその時に、どちらか片方あるいは両方が決定的な一打を下して取り返しの付かない後悔の念を背負う不幸な結末に至る場合も決して少なくない時世です。
もう一度繰り返しますが、他の誰かや相手からそれを止めることを期待しても最初から無駄であり、他者との区別意識に基づいて自己のみを正当化したいという発想や、それで自他両方からの肯定感と評価を得たいという願望は全て未熟なエゴから発せられるもので、そういった自己の内面を認めるに至ることが出来たのなら、それはその時に一切を無効な概念として破棄する用意が整ったことを意味します。
自ら救われるためには自ら変わらなければなりません。
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HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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