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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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昨日、石油列車のラストランを収めに出かける途中、少し珍しい気象現象を目撃しました。




バスの車窓からケータイで撮った画像の切り出しですが、虹色に輝くうろこ雲の様子が見て取れると思います。

これは彩雲?それとも幻日って言ったけ?と何気に思っていましたが、その日の夕方のニュースで環水平アークということを知りました。






だいぶ以前から忘れた頃に繰り返しニュースや新聞で目にしたり耳にする環太平洋なんちゃらを思い起こしましたが、もちろんそんなものではなく、どうやら気温が急激に上がったことによる気象現象らしいです。

そういえば今年は気温のアップダウンが激しく、つい数日前まで朝方など寒い時間帯にはごく一時的にせよ未だにストーブの出番が回ってきましたし、そうかと思えば日中は半袖までいかなくても暖かい時間が続き、日没後はまたコートを着こむという毎日です。

ここ最近は明らかに気候が変になっていることはすでに十分承知していますが、こういう珍しい自然現象を目にして感心するよりも何かこの先よからぬ異変の前触れかと変に敏感な意識になってしまいます。

そして気候の変動よりも個人的にとても気になるのは、その虹色のアークが発生した空の真下の地面のほうで、画像の下片に写っている辺りの丘陵地帯は大昔の地殻変動で出来た活断層が走っており、道央圏で今後起こりそうな地震域でも中規模の注意が必要とされています。

これまで同じ場所で太平洋側などで発生した中小規模の地震と連動しているような気もする筋雲などを目撃していますが(関連性は謎です)一応注意しておこうと思っています。




新さっぽろに着いてサンピアザのテラスの階段を登り1本目の石油返空列車を待っている間にも、後ろを振り返ると空に虹色のアークが輝いていました。

けたたましく鳴り響く報道と思わしき複数のヘリの騒音が遠くから鳴り響きちょっと不気味なシチュエーションでした。

よく空に向かって念力を送れば雲が散るという言い伝えがありますが、そこである種の穏やかな想念を込めて送り込んでみると(それが効いたのかどうかは不明ですが)そのうち消えて行きました。





昔から天変地異の発生にはその時々の世相と人々の想念が集まったエネルギーが関連しているというような陰陽師的な都市伝説がありますが、この科学的自然観全盛の時代においてもそういった目に見えぬ広範な波長の関連性みたいなものは存在しているように思えてなりません。

一本目の石油返空列車を見送った後もう一度振り返って空を見ると虹色アークの姿は跡形もなく消えていて、それを確認すると少しホッとした気持ちでテラスの階段を下りました。


おなじみの新さっぽろ副都心内を散策しながら簡単なおにぎり昼食を済ませてから、地下街で有名でない方のパン屋さんでおみやげのパンをいくつか1コイン以内で買ってからJRの駅へ向かいました。

キタカの残額を確認して改札を抜けて予定よりも少し早い快速エアポートで北広島へ向かうことにしました。

旭川発の特急カムイが化けた快速エアポートだったので車内はぎゅうぎゅう詰め一歩手前の状態、わずか一停車駅間の乗車なので狭いデッキでやり過ごすことにしました。


外の景色を見ることもできないまま北広島駅に到着、他の下車客と共に吐出されるようにホームに降り立つと乗っていた789系カムイポートはあっという間に発車して行きました。


通勤形733系が新たにエアポート用に導入される経緯も頷ける混雑ぶりでした。




北広島駅特有の開放的なドーム屋根に覆われたエントランスに降り立つと、そこでまたおいしそうなパンを売っている店を発見、これも土産の一つと言い聞かせていくつか購入しました。

早く到着しすぎても時間を持て余すので休憩して息を整えてから出発しました。






駅を出ると気温も急に上昇し夏を思わせるほど暖かくじわりと首筋に汗を感じつつ目的地へ向かいました。


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今日は何気ないヨモヤマ話を少しだけ記しておこうと思います。


個人的には今のこの時期というものを表題にも書いたとおり、じっと息を潜めるようにして耐え忍びながら、、、やがてそう遠くない内にやって来るであろう変化の時に向けて備える時期だと考えています。


たった今世の中で起きている種々様々な出来事に対して揺れ動かされるような必要もなく、醸しだされた平穏な空気の中でもにわかに増え続けている個人個人の閉塞感や混沌に対して絶望することも、だからあえて楽観しようと務める必要性もなく、ただ虎視眈々と終わりゆく時代の趨勢を見極めつつその倒れ際の姿をただ単に見つめるだけで時間をやり過ごそうと思います。


個人的には熱心に小さな創作行為に勤しんできましたが、その矛先はこれまでの時代的枠組みの中にはなく、はっきり言ってしまえば古い時代の意識のあり方にはもはや一切の用は無く、ひとえにこれから迎える新しい意識がモノ言う時代に向かって通用するような、しっかりとした精神的支柱を幾本も備えた強固な品質を奢った簡単には陳腐化しない娯楽実用作品に仕上げようと日々奮闘しています。


全てが変わっていくのが自然の中の必然です。

変わらないままでいようとする人間側の都合によった努力は間違っているのであって、今となっては有害ですらあるでしょう。

だから自分としては過ぎ去ってゆく時代の営みについては一切気にする必要がないと割り切っています。

その中にいつまでもそうしていたい人はそれでいいと思いますし、それでも差し迫った状況変化が安穏とした日和見的態度が許されずに嫌がおうにも新しい道筋を見つけてしまうピンチorチャンスに出くわす人たちも出てくるでしょう。

他の人のことは分かりませんが全体を通した気の流れについてはある程度感じ取ることが出来ます。

いずれにしても、僕自身としては希望を失うようなことはほとんどありません。

むしろこの先、個人的にも全体的にも新たな展望が見え隠れしてくるこれからの時代がとても楽しみでさえあります。

まだ新しい時代の要件を完全に満たしたワクワクを備えた作品には至っていませんが、今は先を急ぐようなことはせずに現時点で確認できる要素を一つ一つ丁寧に拾い上げて整理していこうと考えています。

古い時代の枠組からもたらされた意識の中のシコリを抱え込んだままでは、いつまでたっても心は重苦しいままですしそれではとても幸福とはいえません。

それならばと、少しでも新しい希望の片鱗を自らの意思と行動で探し出せる人たちがまた一人、また一人と現れてくれば、その分だけ未来は少しづつでも明るさと希望を取戻し始めることはもっとも自然な流れ=プロセスです。

どうか自分の意識でそれらを追い求めてみることをお薦めします。

少なくとも自分の意思からでなければほとんど無意味な徒労です。

ましてやそうしようとする自分の素直な欲求をもう片方の自分が自ら嘲る声に耳を傾けているようではますます意味がありません。

またそうしながらも外界の風前の灯火のような今まさに消えかかっている明るさに頼って何か自分にとって良い気分と安堵がもたらされることを期待したところでかえって虚しさが募る結果に終わるでしょう。

本当に実体のないカラの事実ばかりがつづら折りのように折り重なるばかりとなりましたから。

今日は少し詩的で情緒的なニュアンスで言葉を選んでいます。

ようは自分が見出したいと思う希望はその気持ちさえあれば自らの意志と力で見出すことは可能になりつつあるという話です。

深く考えすぎて疲れた時は一休みしてよく眠ることに限ります。

ちなみに僕自身は数年前に比べてよく眠れるようになりました。

 今はやや鼻風邪気味ですが体調は悪くありません。

そういう日常に感謝を抱きつつ明日も思索と創作に努めようと思います。




もう何だか訳の分からないタイトルで記事を書き始めています(^_^;)


最近、こういった自己啓発的な思考方法に凝っているとか、そういうことではありませんが、、、


創作活動と称しながら、毎日毎日、来る日も来る日も飽きることもなく思索を巡らしているかのようでいて、一方では日々の細々とした、それでも必要不可欠な雑事をこなしながら、意外なくらいに静かに意識の中の時間が過ぎていきます。


そもそも、このブログのエディッターを開いて記事を書いていることも、小説の構想を組み立てて執筆に当たることも、ある意味で独り言の延長線上であって、つまるところは自分の内面の中にいる本当の自分と呼べる意識との対話で成り立っていると言えます。


でも、最近、進んでいるようで進められていない、何か潮の満ち引きの流れの中に漕ぎだしたボートのような、微妙に乗り越えられない関門のような場所に迷い込んだ気持ちになっています。


少し弱気のけが出始めていますが、ある大きな変化に気付き始めていると言いますか、うまく例えて説明できない認識なのですが、自分の内外における区別なく、あらゆるレベルの問題や物事において、確かに大きな意味合いの変化が起きていることを、もうほとんど確信に近いほど感じ入っています。


相も変わらず、この「変化」という言葉を、捉えどころのない意味で使い続けていますが、今この時においては、この漠然とした「変化」を感じるという意味をもう一歩だけ具体的に言い表すために、ある種の「卒業」という言葉に近いニュアンスとして説明してみようと思います。


というのも、まずは自分のごく個人的な意識の中の問題ですが、他でもない僕自身が主に取り組んでいる創作においてのテーマとか目的といったものから、基本的な人間の捉え方といった根本的な性質に至るまで、はっきりと自己改定が必要な時期に差し掛かっている気がしています。


それも、これまでのように小賢しい小理屈を並べ立てて納得した気になるような手っ取り早い手段は通用せず、ただ道理の法則に身を委ねて、それでもその流れを敏感に察知しつつ感じ取る努力は怠らない、その上で気が付かない内に時間の経過とともに自分の内面も相応に変化していることに気づくといった感じです。


相変わらず持って回ったような、退屈な表現でしか説明できていませんが、こういった意識の流れの中で意味付けされたものが、もうすぐそのそばから流されて次の意味付けに置き換えられて、さらにそういった意味付けが行われていることさえ失念し消え去っていくような感覚が自分の内側のみならず、他者が併存する外側の世界にも無数に感じられるようになりました。


これはつまり、自分内側で感じられる絶え間ない変化の流れと全く同じ手触りの変化が、あたかも外側の世界で起きている現実の種々のレベルの出来事にも通じていると感じられる、あくまで僕個人の錯覚ともとれるリアルな感慨です。


そして、現時点でその意味するところを一言でくくるなら、様々なレベルの現実において起きている無数の意味あいにおける無数の「卒業」です。


これまで、誰しもがそれぞれ追い求めてきてやまなかったであろう無数の価値ある意味合いにおける実感が知らぬ間に薄らいで消失していくことで、その価値あるはずの意味合いを追い求めることからの「卒業」が自動的に成就されていくといった感じです。


それが今現在の各々の意識の中で現実に起きているさなかであり、問題なのは、それらが無数の「卒業」であるならば、同時かつ必然的に開始されるであろう無数に始まる新たな物語が、少なくとも僕自身には未だに見えていないということです。


ここで焦ったら負けだと自分にちょっとだけ発破をかけながら辛抱強くその物語が見えてくるのを待とうと思います。


今日はいつになく抽象的で曖昧でつまらない(いつもどおり)の独り言でしたが(そうしたくてしたのではなく)そういうふうにしか書き表すことの出来ない今の不可解な心情を何とか書き綴っておきたかったのです。





表題の通り、ある種の大きな変化が、いくつも立て続けに起きそうな予感と期待感が入り混じった奇妙な感慨に包まれて、個人的には少々戸惑い気味な今日このごろです。


もうすでに何年も前から、いいえ、それよりもずっと以前から何かがおかしい、変だ、いや待てよ、そう思っている自分の思考回路がちょっとおかしいのかといった塩梅の、やや混乱した意識を片隅で曳き釣りながら今日までどうにか過ごしてきましたが、後もう少しで、まだもうちょっと間があるかもしれませんが、それでもそう遠くないうちに確実に、その困惑した感情の要因である巨大な疑問に対してはっきりとした答えを得られそうな雰囲気を感じて、やや高揚した気分に浸りながらも、内心ではかなりホッとしています。


これから前代未聞の予測不可能な大きな変化に直面するかもしれないというのに、内心ではかえって安堵しているというのは我ながら奇妙ですが、その訳は、これまでに自分が他の誰かから頼まれたたり強いられたわけでもないのに、自らの意思で、と言うよりは内面から聞こえる確信的な直感の声に促されるままに、そういった巨大な疑念の塊に対して、少しづつノミで削り落とすかのように、細部に渡りながら自分なりに理解し納得できるように、一見して不可解な論理と向き合い続けた取り組みの結果、気がついてみると不可解な印象与えた疑念の一切の不可解さが、それ自身とともに自分の内面のはっきりしないモヤモヤした不明瞭な領域とともにキレイサッパリ雲消霧散していたからです。


それが起こる前からそういった理解の領域に自分が導かれていたことは幸運なことだったと思います。


これから、おそらく十中八九、多少遅いか早いかの誤差があろうとも、ほぼ間違いなく、この時代のあらゆる物事の一切全てに渡る、もちろんその時代の中で生きているぼくら普通の個々人の価値観や意識に対しても例外は一切無く、大きすぎる変化の波が押し寄せてくるはずです。


でも、それらは真に幸いなことは、その一波ごとがどのように見なされようとも、全体としては完全にポジティブな結末を迎えることが約束された変革であり、この地球上のほとんどの人たちにとって福音となる結末をもたらすことです。


これらの全ては受け止めるしか無いことです。


また、それだけで十分です。


なぜなら、いかなる立場にいようとも、この大きすぎる変化の最中で、それ自体をどうにかして、自分個人が置かれた立場と利害を超えてでもコントロールできる人物などこの地上に存在しないからです。


古い言い方をすれば、全ては天の采配次第で決められることだからです。


それは、一人一人の生きとし生ける個人の身の上に、一切の漏れも例外なく貫徹した永久の昔から存在する摂理です。


このことを最初のコトワリとして心の中に抱いている人は、たとえ何が起きようとも動じることは無いでしょう。


この事について重ねて言えば、この最初の理りを古くて非論理的な迷信のように嘲笑うことが、いかなる客観的で高度な論理をもってしても今後は不可能になります。


特別な理由を説明する必要はありません。


これからそうなるのではなく最初から根本的にそうだったから、ただそれだけです。


まさにこのことを素直に本心から受け止められる度量を自分の偽らざる心の中に持てるかどうかがその人の行末の明暗のはっきり分け隔てます。


人は自分の心の有り様に責任をもたなければならないと、自分でも常日頃思ってきましたが、その行いの如何が良いこと悪いことの区別なくダイレクトに自分自身に還元される時代がもうすでに始まっています。


今日のメッセージには大きな意味があります。


もちろん、その重要の度合いにについては受けての人達それぞれ受け止め方次第ですが。


だから今はこれらのことについて特別な意味をあえて見出そうとする必要は無いと考えても全く差し支えありません。


ただ、時勢の強い流れに従い、こういった類のメッセージは日を追う毎に、たとえこの閑散としたブログ上に限らなくとも、目にする機会が増えていくことでしょう。


もし、そういった出会いが重なったのなら、そのことについて、自分自身の意思と意識を駆使して探求されることをおすすめします。


今なら、まだそういった思索が出来る時間的な猶予がかろうじて残されているからです。


その時は日毎に近づきつつある、その気配を肌で感じる今年の10月はやはり少し趣の異なる特別な時節と相成りそうです。







秋分の日が近づいていますが、今年の九月はある意味、自分自身の内面にとって特別な節目の月になりそうです。


8月の末まで淡々と続けてきた執筆作業をピタリと止めて9月に入ってからは意図的に待機状態に入っていました。


今月はある種の感じられる気の流れが激しいというか、今までとは少し異なった感じの体調不良も伴いながら心理的にかなり揺れ動いた時期がありました。


それらの不快な症状がやや落ち着いたところで、その期間にあった内面における心境の変化などを自分自身に問いかけてみると、それらがもたらした変化の意味がおぼろげながら見えてきた気がします。


それは自分の一創作家としての心構えやスタンスそのものがまるっきり変わる必要があると強く感じ入ったことでした。


あくまで内面的な創作のスタンスにおいてのことで、これまで考えて作り上げた一切を変更して放棄しようということではありませんが、これまで客観性中心で捉えてきた人間模様と世界を、それらのすべての要素について自分の心から感じた要素を中心として世界と人間を再構築していこうと考えています。


というのも、創作家として生きる道を辿ろうと決めた自分自身のこれまでの歩んだ内面の過程と在り方を顧みると、本来優れた創作家の誰もが持ちうる自身の主観の目線が自分には最初から欠けていたというか、本当に子供の幼いころからそういった一面に全く無頓着で、自分の心の中心に映る風景をことごとく軽視して生きてきたことに今ようやっと気づくことが出来たからです。


後世に残る優れた創作家は、その人達が画家や音楽家、作家、役者、芸術家、その他いかなる表現者のいずれであっても、自分の内面の中心に映るビジョンを深く受け止めて理解し、それを他者へありのまま伝えることの出来る卓越した術と意識力を有していました。


ここで一言断っておきたいことは、後世に残るほどの優れた性質としてそういった能力の価値を見出しているのでなく、創作家を目指す云々以前の、一人の未完成な人間としての自分自身が、どうにかもがきながら次なる階段の一つを登って出口に至るために探り当てた一筋の光として純粋に求めているということです。


実際にこの出口の光を垣間見てからは、これまで自分がたどってきたあまたの紆余曲折と積み重ねの一切が、これから辿ると決めたこの道に至るための準備に過ぎなかったと真から納得できるのです。


これをもってして、自分の内面においては永遠に等しいほどの過去の蓄積のすべてについて、ようやく一区切りできたと思えてほっとしています。


しかし、それは同時に本当の意味のスタートラインに今ようやく立つことが出来たということを意味しているのであって、自分が一創作家として生きるにあたって、一体何を創造し伝え残していけるのか、今の段階ではキレイサッパリ白紙の状態で文字通り想像もつかない有様です。


それでも決して焦って答えを見出そうとはしません、これまでの社会性を意識し過ぎた客観性の時間の中で可能な限りの意味付けをしながら自分自身を説得して黙らせるという作業はもはや必要ないと看過しているからです。


これからは積極的な受け身の受け入れの時間の中で自然に答えが一つ一つ見つかるようになると思います。


これらのことに気づかしてくれたものは、意外にも今日の朝の番組内で人気沸騰中の朝ドラ「あまちゃん」の主人公を演じている女優能年玲奈さんインタビューでした。


いつものように眠い意識のまま「あまちゃん」を楽しんだ後、続けてはいった番組の中で能年さんが緊張気味にインタビューに応じている姿を何気なく見ていたら、フッと脳裏に思いついたことがありました。


それは演技を生業として生きることを選択した人達が、様々な人間の感情の有り様を演じながら絶えず感じつつ自身の心のなかにも響いて残るモノがもしあるとしたら、そのモノからもたらされる、あるいは残された産物が自分の心の中の同種の感情の存在を明らかにし、嫌がおうにもそのことを受け止めさせることを強いるということが演技をし続ける者たち共通の宿命的な因果として存在するのか否かという思いつきでした。


そこに普遍的な人間としての真剣な葛藤が垣間見えた気がしました。


自分の内面に存在する様々な感情や心情の在り方に急いで意味付けをして一時的に楽になったり、あるいは楽になるための意味付けを重ねて、本来そこにあったはずの自分の在り方とはかけ離れた自分の姿がいつのまにか取って代わって、それを見失ってから苦しむことも長い人生においては珍しいことではありません。


つまり、人は本来の自分自身を目指して生きることを維持するためには、自分だけの本来持って生まれた独自の時間がどうしても必要だということです。


自分独自の自然な時間の流れと社会一般の共通の時間は常に相反関係にあります。


だから生きている人間は誰もが例外なくここで葛藤することを強いられます。


社会共通の時間が定めてくれる自分の存在に対する意味付けは明確で、容易で、しかも曖昧です。


対して、自分自身の時間で生きることを継続することは兎にも角にも忍耐が必要で例外なくシビアで、しかも孤独であることが普通です。


どちらの時間の中の自分に対してもバランスを取って調和することが人として生きることの避けられない命題の一つです。


でも、なにをどう捉えて表現するかは本来、無限に自由なはずです。


その本来の自由を取り戻すことを自分自身の当面の課題に置くことを宣言してそろそろ終わりにしたいと思います。


取り留めもない独り言を最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。









2020年東京オリンピック開催が決まって世間ではその話題一色といった感じです。


個人的には、福島の汚染水報道が加熱している中ですんなりと決定に至ったことが少し意外に感じました。


他のライバル都市に比べてみると、スペインのマドリードは高い失業率と財政難、トルコは隣国シリアの内戦によって大量の難民が発生する問題を抱えているために不安視されたのかもしれません。


スペイン、トルコ共に地中海を挟んだEU圏内の両極に位置していますが、一番の懸念材料はやはり先立つものが底を尽きかけていることかもしれません。


比較の上で日本の東京が、たとえ福島の汚染水問題を抱えていたとしても、財政的な面と社会の安定性において、おそらく一番無難な選択として落ち着いたのでしょう。


何れにしても、福島の汚染水問題について、世界に向かって啖呵を切ったも同然なのですから、今後徹底した対策がとられて、晴れて7年後には全て過去の問題となっているかのごとく改善されることを強く願います。


そんなオリンピック開催決定フィーバーのさなかで、世界ではシリアに対するアメリカの軍事行動のゴリ押しがなされるかいなかで揺れ動いている様子がどうにも結びつかないというか、強い違和感を感じています。


このご時世に再び戦火を拡大するような行動を支持している国はごく僅かで、十数年前のイラク戦争が始まった時期とは大きく状況が異なっています。


とうのアメリカの国民でさえ6割が反対していますし、議会も下院では可決が難しい状況だということです。


先日ロシアのサンクトペテルブルグで開かれたG20サミットではオバマ大統領がプーチン大統領にノーベル平和賞受賞者が国連安保理決議も経ないで武力行為に及ぶことは似つかわしくないと釘を差されていましたが、至極もっともな正論のように思えます。


アメリカと強い同盟関係にあるイギリスと日本がいち早く軍事行動への不参加を決めて人道支援に徹すると表明したことは英断だと思います。


そんな最中にアメリカが支援しようとしている反体制派勢力の一部が残虐な行為に及んでいる動画が世界中に配信され、アメリカが支持する軍事勢力は正義であるとする構図が成り立たなくなっています。


そもそも、いざ戦争になったらひたすら残虐行為が繰り返されるだけで、どちらの勢力が正義でどちらが悪なのかということを決めつけることは不可能になります。


アメリカは世界で一番巨大な軍隊と軍事産業を擁する超大国であるがゆえに、10年くらいに一度、どこかで大きな戦争行為に及ばないと自国の体制を維持できないと言われてきました。


戦争に訴えかけなければならない世界情勢が終焉に向かわせなければならない時期が刻一刻と近づいている気がします。


平和の祭典であるオリンピックの開催が決まったニュースの影で、今再び大きな過ちを犯そうとする情勢が動いている事実に思いを馳せると、なんとも言えない苦い気持ちがもたげてきます。


そろそろ、世界中の国々が平和な関係をより強固に出来るような新しい関係を求めて動き出しても良い頃ではないでしょうか。


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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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