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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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秋分の日が近づいていますが、今年の九月はある意味、自分自身の内面にとって特別な節目の月になりそうです。


8月の末まで淡々と続けてきた執筆作業をピタリと止めて9月に入ってからは意図的に待機状態に入っていました。


今月はある種の感じられる気の流れが激しいというか、今までとは少し異なった感じの体調不良も伴いながら心理的にかなり揺れ動いた時期がありました。


それらの不快な症状がやや落ち着いたところで、その期間にあった内面における心境の変化などを自分自身に問いかけてみると、それらがもたらした変化の意味がおぼろげながら見えてきた気がします。


それは自分の一創作家としての心構えやスタンスそのものがまるっきり変わる必要があると強く感じ入ったことでした。


あくまで内面的な創作のスタンスにおいてのことで、これまで考えて作り上げた一切を変更して放棄しようということではありませんが、これまで客観性中心で捉えてきた人間模様と世界を、それらのすべての要素について自分の心から感じた要素を中心として世界と人間を再構築していこうと考えています。


というのも、創作家として生きる道を辿ろうと決めた自分自身のこれまでの歩んだ内面の過程と在り方を顧みると、本来優れた創作家の誰もが持ちうる自身の主観の目線が自分には最初から欠けていたというか、本当に子供の幼いころからそういった一面に全く無頓着で、自分の心の中心に映る風景をことごとく軽視して生きてきたことに今ようやっと気づくことが出来たからです。


後世に残る優れた創作家は、その人達が画家や音楽家、作家、役者、芸術家、その他いかなる表現者のいずれであっても、自分の内面の中心に映るビジョンを深く受け止めて理解し、それを他者へありのまま伝えることの出来る卓越した術と意識力を有していました。


ここで一言断っておきたいことは、後世に残るほどの優れた性質としてそういった能力の価値を見出しているのでなく、創作家を目指す云々以前の、一人の未完成な人間としての自分自身が、どうにかもがきながら次なる階段の一つを登って出口に至るために探り当てた一筋の光として純粋に求めているということです。


実際にこの出口の光を垣間見てからは、これまで自分がたどってきたあまたの紆余曲折と積み重ねの一切が、これから辿ると決めたこの道に至るための準備に過ぎなかったと真から納得できるのです。


これをもってして、自分の内面においては永遠に等しいほどの過去の蓄積のすべてについて、ようやく一区切りできたと思えてほっとしています。


しかし、それは同時に本当の意味のスタートラインに今ようやく立つことが出来たということを意味しているのであって、自分が一創作家として生きるにあたって、一体何を創造し伝え残していけるのか、今の段階ではキレイサッパリ白紙の状態で文字通り想像もつかない有様です。


それでも決して焦って答えを見出そうとはしません、これまでの社会性を意識し過ぎた客観性の時間の中で可能な限りの意味付けをしながら自分自身を説得して黙らせるという作業はもはや必要ないと看過しているからです。


これからは積極的な受け身の受け入れの時間の中で自然に答えが一つ一つ見つかるようになると思います。


これらのことに気づかしてくれたものは、意外にも今日の朝の番組内で人気沸騰中の朝ドラ「あまちゃん」の主人公を演じている女優能年玲奈さんインタビューでした。


いつものように眠い意識のまま「あまちゃん」を楽しんだ後、続けてはいった番組の中で能年さんが緊張気味にインタビューに応じている姿を何気なく見ていたら、フッと脳裏に思いついたことがありました。


それは演技を生業として生きることを選択した人達が、様々な人間の感情の有り様を演じながら絶えず感じつつ自身の心のなかにも響いて残るモノがもしあるとしたら、そのモノからもたらされる、あるいは残された産物が自分の心の中の同種の感情の存在を明らかにし、嫌がおうにもそのことを受け止めさせることを強いるということが演技をし続ける者たち共通の宿命的な因果として存在するのか否かという思いつきでした。


そこに普遍的な人間としての真剣な葛藤が垣間見えた気がしました。


自分の内面に存在する様々な感情や心情の在り方に急いで意味付けをして一時的に楽になったり、あるいは楽になるための意味付けを重ねて、本来そこにあったはずの自分の在り方とはかけ離れた自分の姿がいつのまにか取って代わって、それを見失ってから苦しむことも長い人生においては珍しいことではありません。


つまり、人は本来の自分自身を目指して生きることを維持するためには、自分だけの本来持って生まれた独自の時間がどうしても必要だということです。


自分独自の自然な時間の流れと社会一般の共通の時間は常に相反関係にあります。


だから生きている人間は誰もが例外なくここで葛藤することを強いられます。


社会共通の時間が定めてくれる自分の存在に対する意味付けは明確で、容易で、しかも曖昧です。


対して、自分自身の時間で生きることを継続することは兎にも角にも忍耐が必要で例外なくシビアで、しかも孤独であることが普通です。


どちらの時間の中の自分に対してもバランスを取って調和することが人として生きることの避けられない命題の一つです。


でも、なにをどう捉えて表現するかは本来、無限に自由なはずです。


その本来の自由を取り戻すことを自分自身の当面の課題に置くことを宣言してそろそろ終わりにしたいと思います。


取り留めもない独り言を最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。






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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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