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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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前説では今起きている出来事と今後について少し触れましたが、これから書くことは今後どうなるかではなく、どのようにしてここに至ったのかということを個人的な感想も交えながら書いて行きたいと思います。


今後どうなるかについてはぼくにもはっきりしたことはわかりません。


おおよその流れは把握していますが具体的にいつどこで何が起きるかについては全く白紙の未来であり、そういった予測についてはその筋の専門家やネット上にあるあまたの情報判断にお任せしようと思います。



個人的な経緯について振り変えることから始めてみますと、そもそもぼくがなぜ素人分際で社会や経済についてこれほど粘着して考えてきたかというと先日の記事にも書きましたが、人生の本質を理解するために様々な人生訓や宗教、哲学、歴史などを学んでいうちに、そういった古くから変わらない人間の一面を理解する一方で、現代の複雑な社会の中で一人の個人の人生がどういった影響を及ぼされ関係を持っていくか正確に理解する必要性を感じるようになったためです。


多分、そういったことに興味を抱くようになったのは高校の時お世話になったあるエキセントリックな教師による影響だった思いますが(授業を半分しか行わず社会情勢や芸能裏話、今で言うスピリチュアルな話題など一年を通してみっちり教えてくれる先生でした)潜在的な意味では中学校時代に人の考えていることと現実の有様のギャップに悩んだことや、幼児期に今考えればちょっと他の子と違った感覚で生きていた子だったようで三つ子の魂百までもと言うことだったのかもしれません。


最初のうちは社会情勢そのものを深く追求あするつもりはほとんど無く、小説を書こうと決めた時からはよりリアルな人間像に迫るため社会における個々人の有様を客観的に理解しようと努めましたが、その過程と並行して世の中は同時多発テロから始まった戦争の流れやリーマン・ショック前夜のアメリカにおける住宅バブルの様相など自然と社会的背景の大きな変化にも目が向くようになりました。


もともと社会の先行きに対して漠然とした懐疑を抱いている方ではありましたが、それがはっきりとした意識として認識できたのはリーマン・ショック以後の社会経済の流れでした。


世界全体の経済がアメリカの怪物のような消費力一点で支えられていたことや、中国の急速な発展もそれがは早まれば速まるほど危ういことも理解できましたし、各国の巨額の財政出動により目先の世界経済が急速に建てなおされたように演出される一方で、わずか三年にも満たない内に市場のバブルがリーマン・ショック以前の水準をこえてしまうなど、そういった経緯を知れば知るほどこの世界は一体いつまで持つのかという意識に傾いて行きました。


その時期、個人的には病気の回復をはかりながらどこかへ進学して自分ができることを身に着けて社会復帰を果たそうとまじめに考えていましたが、病気が回復する見通しもたたず経済的にも特別豊かな家庭ではないので無理に進学してかえって体調を崩し治療費と学費を払うだけで休学という結末に至らないためにも現状維持を選択しました。(その選択は結果的にベストではありませんでしたがベターな意味では正解でした。その当時は今の3倍体調が悪く無理して何かを出来る状態ではありませんでした)


そしてこの先自分は社会の中で順当に生活するために最小限必要な世の中のスケジュールに合わせて行動できる能力を欠いたまま生きていかざるおえなくなるかもしれないという想定のもと、たとえアンダーグラウンド(良い意味で)だったとしても何か自分のペースで出来る創作的なものを仕事にしようと思い、いずれは文筆で生計を立てられるようになることを目標と考えるようになりました。


なぜ特別得意でも好きでもない文章書きを目指したかというと、たとえ世の中がひっくり返って様変わりしても言葉と文章の需要は人間が人間である限り失われることはないでしょうし、もし自分の境遇が最底辺まで落ち込むことがあってもノートと鉛筆と辞書と若干の情報に自分自身のこれまでの積み重ねさえあれば、たとえ寝たきりでも(意識さえあれば)橋の下でも継続できる分野だと思ったからです。(聖書の中の”言葉は神とともに在る”という言葉の影響も大きかったです)


そうやって自分の内外の世界の認識が深まるに連れてこの世の中の変化の実相のより深い部分にも自然と意識が向くようになっていきました。


そうなってくると自分でも驚くほかない、これまであまり知られることのなかった世の中の仕組みについて、多くの人達が思い描くような事実とは異なる実体像を理解するに至りました。


それを踏まえた上で、さあ自分はどうしたらよいものかと思い悩み立ち止まる時期を経てたどり着いた答えがより普遍的な人生の有様を今後の時代の変化でも失われないような継続可能なかたちを小説で描き出すことでした。



(つづく)


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世界的に見ると欧州の債務危機がとうとうスペインに及びギリシャの総選挙の結果次第ではEU離脱がいよいよ現実味を帯びてくるなど風雲急を告げつつあります。


日本国内でも消費税増税に向けて大きくかじを切られようとしていますが、これは単に財政予算の不足という国内問題だけではなく、欧州各国の債務危機の火種となった格付け会社による格下げが今後日本にも及ばないためにはったりでも財政収支を改善したように見せかけなければならない事情が見え隠れします。


こういった経済の大変動がいずれ起こるとこのブログの中でもおりにつけ囁き続けてきましたが、これまで断片的な事情にしかあえて触れずお茶を濁してきましたが、その背景にある関連性について少しずつ出来るだけ簡潔に説明すべき時期に入ったと思いキーボードを打つことにしました。


上に書いた国内外の事象は氷山で言うところの水面から現れた頂点にすぎず、その巨大な本体ははいまだ水面の下に隠れたままとなっています。


ここで誓って言いますが、これから書こうと思う内容位は不安や怖れを煽って強めるために書いておくものではありません。


これから起こる水面下に隠れた変動にいざ向き合うとき、タイタニック号のごとく何の予備準備もしないままあわてふためいてパニックに陥らず変化の本質的構造を理解した上で行動対処できるように思考の整理をするためです。


ようは防災意識と同じで備えていれば最小限の被害で災難をかいくぐることが出来るということです。


東日本大震災の時も日本で起こりうる地震の被害がそれ以前の阪神大震災クラス以上は起こり得ないという認識が被害をあれだけのものにしてしまったことは否めない事実です。原発の安全対策についてのお粗末さは言うまでもありません。


これと同じことが今の日本や世界の経済情勢にも当てはまり、日本の経済はオイルショックやバブル崩壊後の混乱程度しか想定されていないことによって深刻さが増さないよう今のうちにしかるべき人たちが想定対処の準備をしてくれていることを願うばかりです。


前置きからかなり深刻な調子になってしまいましたがぼく自身はまったく深刻には考えていません。


起こるべくして起こる変化であり、その変化が通り過ぎたあとにはまったく新しい道筋が見えてくると確信しているからです。


なのでこれからどんなことが起きても冷静に見極めて静観しようと心に決めています。



(つづく)






今までこのブログで単に”作業”とか”創作活動”と称していたのは実は小説を書くことでした。


いきなりカミングアウトしても誰かが関心を持っていてくれるわけではないことは百も承知ですが、自分の気持の整理がようやくつくようになり、まだ自信を持って宣言できるレベルではありませんが、ありのままを報告しようと思いました。


自分がなぜ小説を書こうと志すようになったかというと、もともと文才があったわけではなく(それはこのブログの駄文を読んだだけでお分かりいただけると思います・・・orz)、もともと読書が特別好きだったからでもなく、ではどうしてかというと自分がこれまで10代の頃から考え続けてきた(ほとんど悶え苦しむほどに・・・汗)もろもろの人生観や哲学?を他者に誤解を与えることなく伝えられる最も適切な方法だと思ったからです。(※中二病の延長と思われても仕方ありませんね、、、。)


でも一番の理由はそういった理屈ではなく、ぼくが自分の人生で一番苦しく生きる希望を失いかけていた時に救いの手を差し伸べてくれたのが幾人かの作家による小説の中に記されたメッセージだったからです。


もちろん、ぼくが同じ道を志したからといって偉大な作家のように誰かの人生を救えるような小説を書けるとは思っていませんが、それでも最低限、読者の鑑賞に耐えうるクォリティを保ちつつ読んで単純に楽しめる娯楽作品とし、それでいて人生に直接役立つメッセージを織り込んだ作品を仕上げることを目指しています。


かれこれ、この道で生きていくことを目指そうと決意したのは5年ほど前のある出来事でしたが、それからその決意を両親以外に打ち明ける勇気が持てたのはつい最近のことです。


当初は3年ほど集中すれば満足行く一作品を仕上げられると思っていましたが、そんな甘いものではなく、結局満足の行く作品どころか5年経ってようやく納得の行くシナリオ構成と人物設定を終えたところです。


シナリオとストーリーはほぼ完成しているのですが、ここで壁にぶつかり一体どういった視点で描けばいいのかが決められずにいました。


そして、さらに問題なのは物語を描く視点が定まらなければ主人公や登場人物たちに作者である自分が上手く感情移入できない状態におちいり、彼らの価値観にどう共感してよいか連日暗中模索しています。


それでも、書き始めることが出来なかった理由は創作上の問題ではなく、自分の内面にいまだ未消化な部分が残っていて、そのことに長らく気づけなかったことにあると思い至るようになりました。


それは自分の価値観を正しい視点に置きたいという願望を捨てきれずにいたことです。


自分の言っている主張が正しいという前提で書かれた文章など誰も読みたがるものではないということは頭では分かっていたつもりでしたが、理解した事柄を伝えようとするあまり(このブログなどでは特に)つい感情的主張に走る傾向があったと思います。


そして自分自身の創作に対する自信の無さから、ついつい世の中の矛盾に目を取られ、そこに目くじらを立てながら自己正論を主張することで真意を伝えるかのごとく安直な逃げ道に陥っていたと反省しています。


本当はきちんとした小説を一作書き上げてから作家志望であることを公言しようと考えていましたが、壁にぶつかって足踏みしている自分自身にハッパをかけるために、あえて恥を忍んで大それた夢を語ることにしました。


そして創作活動に限らずぼくの人生全般において前へ進むことを拒ませていた病気以外の要因があることにも気が付きました。


それは上手く説明するのは難しいことなのですが一言で言えば人生と社会の公平性に対する疑問とこだわりです。


ぼくは自分が病気やその他の成り行きによって自分の人生を思うように選択できなくなってから、人生やこの世の中の公平や正当性はいったいどこからくるものなのかということを、自分のみならずできるだけたくさんの人たちの人生や考え方、また歴史や哲学、宗教などの中からも見出そうとしました。


一時期は運命や前世の悪行など(それはあったかもしれない・・・)のせいではと考えたり、またそういった不遇を社会の矛盾のせいにしようとは一切考えたことはないにせよ、昨今の世の中の世知がなさを見るにつけ、やはり個人の自己責任だけでは済ませられない全体の矛盾があることは否定出来ないことにこだわり続けてきました。


ぼくは重ねて言いますが、自分の不遇を世の中のせいにしたり、この世の中をそのものを恨んだりしたことは一度たりともありません。


ゆえにぼくは世の中も他人も家族も一切恨むことなく自分の置かれた境遇をありのままに受け入れて生きる希望を見出すことに全力を尽くしてきました。


そしてそれは可能であることをぼくなりに確信することが出来ました。


とはいえ、それはこうすればいいよと誰かに気安く説明できるようなものではありませんし、ただ単にぼくがそうしていくなかで納得できただけで、他の多くの人にとって一様にこうすればいいといえるものでもありません。


なので小説の世界の中でぼくの分身ではない主人公や登場人物たちが精一杯生きてもらうことを通してそれぞれの希望の形を一つ一つ伝えていければいいなと思っています。


ぼく自身の意識の中の奥深くで最後まで抵抗していた者の正体は今の社会の正義を着ることで自己の満足を得ようとすることに対する根深い嫌悪感でした。


こういった嫌悪感は一般的に青臭いと評される大人になりきれない、まさに中二病の延長線のような、社会で生きている人なら誰しもが感じて乗り越えなければならない当たり前の感情ですが、ぼくは今まで恥ずかしながらこういった感情を受け入れて乗り越える時期を逸してしまっていたことに最近になって気が付きました。


それが頭では分かっていても受け入れることができるほど内面が成長するまでに普通の人以上に時間がかかってしまったということです。


しかし、ただ迎合するだけで解決してしまっては安易な妥協で終わってしまうので、ぼくはその青臭い思案の期間に十分に納得の行く単なる妥協ではない答えを用意することが出来ました。(もちろんそれも小説のテーマとして織り込むつもりです。)


その青臭い考え方から見出された答えがこれから先に必要とされてくると思っています。


ここで誤解なきように書いておきますが、ぼくは小説の中で社会性の云々について直接的に訴えることは一切せず、B級娯楽の中で純粋に人間愛や人生について語るだけでその答えを表現しようと思っています。


長々と取り留めもなく書き続けてしまいましたが、一応の決意表明ということで書き記しておきました。






昨日と29日に相次いで見送り鉄に出かけましたが、そういった口実を作り気分転換に出かけるときはたいてい、精神的にちょっと詰まっていたり、目下取組中の作業で壁にぶつかっていたりする時だったりします。


ちょっとした汽車旅で脳内がリセットされるのはありがたい限りですが、そうしているうちも懸案をすっかり忘れ去ることができるのかといえば決してそうではありません。


ほんのささやかな旅の道中ですが、色々と考えさせられる光景に出くわすこともしばしばです。



昨日の帰りの車内で男女の大学生の会話を聞きました。


聞くところによると男性は浪人上がりの年上で、女性のほうは同級生ながらも年下の組み合わせだったようです。


まだ付き合っているという段階ではなく気の合う二人組といった面持ちです。


最初は大学の抗議やレポートの話題などありきたりなことばかり話しているようでしたが、途中から女性のほうが男性に向かって将来の展望や高校時代の経緯を聞くようになり、次第に同棲についてやちょっとした恋愛論などを話すようになりました。


どうやら女性のほうが男性の方に気があるらしく、それとなくアプローチをかけている最中のようでした。


う~ん青春しちょるなぁ~とか内心思いつつ聞き耳を立てまいなどと抵抗しようにも30cm背後で語られては自然と耳に入ってきます(^_^;)


それで男性の方はというと(女性との交際について)あれば正直嬉しいが、ないならないでそれもまた良いという気持ちのほうが強いという返事でした。


そういう優柔不断な男性に対してその女性は「そんな事言わないであなたは絶対子孫を残すべき」とかなりストレートな発言で応戦していました(汗)


こういった会話をはからずも聞いて思ったのは、女性の方もけっして下世話な考えで誘っているのではなく、その人なりに人生について真剣に考えた結果、その一人の男性を思い続けているんだろうなぁーということが伝わって来ました。


老婆心ながら思うことは、男女がそれぞれ異性との人生に対して真剣に考える時期は微妙にズレがあるもんだということです。


その男性も今時の大学生にしては珍しく物事を自力でしっかり考えられる人のようでしたし、でもそれゆえに要領の良さだけを求められる世の中の流れには遅れがちで不器用な一面もあるようです。


つまり男性のほうが相手との人生を真剣に考えられる段階にまだ至っていないということですね。


人生は何事もタイミングが難しいという実例のハナシでした~orz



実例といえばもうひとつ。


同じく岩見沢からの帰りの車中で出くわした大学生男女4人組。

こちらは例の狭い711系のBOXシートでスマオを片手に男女4人がわいわい騒いでうるさかったのですが、その中のムードメーカ的な男が向かいの膝つき合わせた清楚系な女性に気があるのかさんざんちょっかいかけていましたが、女性の方は嫌だという意思表示が出来ないタイプのようで終始視線をそらしていました。

それでも男性の方はスマホのカメラでどう見ても嫌がっているであろう女性の写真を撮りまくって、あげく落書きアプリでゾンビ顔かなんかに加工して見せびらかして喜んでいました。


これはどう見ても脈はありそうもないなぁ・・・。



大学生の恋愛模様にもけっこう格差があることを垣間見た実例のおハナシでした~orz




PS)
表題とは全然関係ない話題に飛んでしまいましたが、6月に入り世の中の微妙な空気の流れが少し荒れてくるような気配が感じられます。引き続き災害に対して注意意識が必要なのと、人々の中にも精神が荒れがちな者が多くなってきている気配がしますので、これについては外部の者に対して警戒するよりも、むしろ自分の内面に荒んだ気持ちを持って外部のそういった意識に同調しないよう心持ちをしっかり持つことが肝要です。一説によると6月以降は人それぞれの心持ち次第で良い状況を呼び込むか悪い状況を呼び込むか分化が進みやすいとのことです。これは意識が状況を生み出していくという単純な法則によるものです。






危機感を持ち続けるということはただ不安を抱き続けることではありません。


むしろそのやっかいな不安の種をなくすことはできなくても、その根本をしっかり理解した上で受け入れることです。


ただいまの世の中の雰囲気を見ても何か漠然とした不安感から来る苛立ちのような気配を随所で感じられます。


そして意味もなく物事に反感を抱くような意識に陥り正しく判断できなくなっているような人も見かけます。


それはおそらく言葉に表せない漠然とした不安感やストレスが、ここ最近の不透明な状況が続く中でたまり続けて、自分でも気が付かないうちに行き場を失っているかのように思われます。


そこでその不安の根本と向き合ってその正体を掴むことが出来れば、たとえその不安やストレスの原因を今すぐに取り除くことができなくても、何もわからずただ漠然と恐れている状態よりはずっと重荷が減るはずです。


ただ、ここ最近の状況を察するとその不安を抱かせるものの正体をはっきり見定めることはまだまだ困難なように思えます。

ぼく自身取り組んでいる作業との兼ね合いで常に世の中の掴みどころのない一面を先読みしようとしているのですが、その実感としてはもうしばらく時間が経てば何かはっきりと分かってくるものがあるように感じています。


このブログの中で再三にわたり経済や通貨のことについて何かと言及してきましたが、今の不透明な世の中の掴みどころの無さの中で、そういった分野から最も早く具体的な影響を表すと前々から感じていたからです。


お金や経済がこれからの変化の本質ではありませんが、今の現状ではそのお金や経済がこの世の中のあらゆる分野で関係してそれがなければ全てが成り立たない状況です。


ところがそのお金の価値そのものが大きく揺らいでいます。


ちょっと想像しがたいことですが、ある日から財布の中にある1万円札の価値が揺らいでくるということが現実に起こりつつあります。


つまり自分の持っている1万円札の価値が今日と昨日と明日で異なっているという日常が起こりうるということです。


今までの世の中においてはお金の価値ほど安定した価値判断の基準はありませんでした。


それが常に揺らぐ相対的なものにすぎなくなってしまうのがおそらく近い将来の姿です。


そういった価値判断基準の変化の影響は物価や社会的な問題にとどまらず、その中で生きて生活している仙人以外のすべての人々の人生に影響します。


その大きな変化に対応できるように今のうちに心のあり方を変えておくことが肝要です。


変化に対応できる心を備えておけば移り変わりゆく外の世界の変化に自分自身の根本まで脅かされずに済みます。


そういったことを考えてみると、今の漠然とした不安感の空気の正体は変化に対する本能的な恐れの蓄積にあるように思えます。


たとえ世の中が大きく変化しても人間としての生きる基本は何一つ変わらないとぼくは信じています。


その要の一つが生かされていることに対する感謝です。


こういうと馬鹿にされるかもしれませんが、漠然とした不安に襲われた時、そこからリカバリーする一番の特効薬は何でもいいからとりあえず感謝の念を抱くです。


人間が不安に陥るときは、実は潜在的に一番自分のことだけにとらわれている瞬間であり、その自己中心的な意識のオリを打ち破るには、その正反対にあたる自他の区別がない意識である感謝の念が一番有効なのです。


お金に基づいた意識はとかく自己中心的になりがちです。


当然、お金を中心にそれを一番信じているような状態では不安感は倍増します。


別にお金が悪者なのではなく、それに向き合っている個々人の心のあり方が反映するだけです。


なので、自分の心をシフトすることでお金の持つ意味も変わり状況もシフトします。


この先の時代もお金の存在そのものが無くなったり無価値化することはないと思いますが、その持つ意味やもたらされる価値の性質は大きく変わっていくと思います。



今日は思いついたことを取り留めもなく散文的に書いてみました。





ふと今朝思いついたので書いてみたいと思います。



振り返ってみると随分と長い間しつこい自己免疫疾患と付き合っているわけですが、今ではなんとか自分なりにうまく折り合いをつけて日々の生活を営めるようになっています。


それができるようになるまでに食生活や細かな体調管理などいろいろやってきことによるのですが、その中でも一つの要といえるものが今日のお題のオーバーワークをなるべく避けるということです。


今の世の中を見渡せば、ぼくのような病人に限らず健康な人でも何らかの体調不良を抱えている人が多いですね。


そのひとつの要因がオーバーワークの過剰な継続状態が習慣化していることが大きいように感じます。


とはいえ、この厳しいご時世ですから、仕事にしても学業にしても自分にちょうど見合った加減の仕事量を選べる人はごくわずかでしょう。


むしろ、だからこそ仕事や学業によらない自分でコントロールできる日常の中でオーバーワークを避ける工夫が必要になってくると思います。


そういった配慮を全くしないで長期間オーバーワークの負荷が続いてある線を超えてしまうと、人間が本来持ち合わせている疲労回復のリズムが壊れて元の状態に戻れない体になってしまいます。


そういったことが身体面で起こると自律神経失調症や慢性疲労症候群、精神面ではうつ病や統合失調症、また加齢による腰痛や関節痛などの症状もより早くあらわれるようになります。


そして免疫力が低下してくると、ぼくのような自己免疫疾患や感染症を引き起こし、これらとは別に体の抗酸化力が落ちてくるとガンのリスクも増大します。


こういったリスクがわかっていてもなかなか配慮することが難しく思えるのは、ひとえにこの社会の環境がそこで生きる人々の健康にとってまったく優しくないことにあるのですが、でもそれをいう前にやはり一人ひとりの生活習慣や意識の中に見逃してはならない要因があるように思えます。


その見落としがちな要因の一つがストレス解消=娯楽レジャーという考え方です。


一見すると、日々の仕事や学業でたまったストレスを余暇の娯楽やレジャーで発散するのは健康にとって良いことのように思えますが、これも程度問題で日々の忙しさの合間にできた僅かな余暇をすべて娯楽やレジャーに費やしてしまうと体を休める暇がなくなってしまいます。


とはいえ一生懸命働いたり勉強したりしたあとに趣味や娯楽をめいいっぱい楽しみたいのは自然な欲求ですからバランスを取ることが大切だと思います。


それでも体調を崩しがちだと自覚し始めたときは楽しいことを控えて体力回復を優先する勇気も必要です。


無理をしないで体を休めるということは意外に楽なことではなく忍耐が必要です。


自分の昔を振り返ってみても、もともと遺伝的に弱い体だったり外的なストレス要因が大きかったにせよ、日々の日常において健康に対する自制心をまったく持ち合わせないで無理を重ねてしまったことが、こんなにも長く病気にわざらわされてしまった要因だったと今では理解できます。


人間の心身はちょうどジュースの缶のようなもので、ある程度の衝撃や負荷には耐えられますが一度に急激な圧力がかかれば潰れて中身が吹き出しますし、弱い圧力でも長い期間繰り返し受け続けるとやがて同じように潰れてしまいます。


そして一度潰れてしまった缶は、なんとか修復して穴を埋めても完全に綺麗な状態には戻りません。


また中身の密閉も完全ではなく常に取りこぼすようになってしまいます。


そうならない手前で健康の大切さに気がついて配慮できるようになれれば幸いです。


かけがえのない健康を守って維持するために時には自分の欲求と向き合う忍耐と自制心も必要というお話でした。


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HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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