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夢と希望・・・、大人となった今では子供時代の都合の良いフレーズの一つにしか聞こえないのが寂しいですね。ぼくが子供の頃はバブル真っ盛りで小学校に入学、バブル崩壊後の90年代に小、中、高と成長して21世紀の到来からまもなくして成人を迎えました。あの時代を振り返ってみると今とは随分と雰囲気が違いましたね、何と言ったら良いのか、みな根拠もなく妙にアップテンポでハイテンション、夢や個性という言葉が持てはやされて、望めば誰でも特別な存在になれるような錯覚と気分が支配しているような時代でした。そうゆう華やかで活気がある表向きの一面がある一方で、裏側には強い不安と漠然とした虚無感が占めているという暗い一面もあったような気がします。そういった内面の不安や恐れを表面的な活発さで打ち消そうとした反動から、あのやっかいな自意識過剰文化を生み出してしまったのかもしれません。
そういった空気の中で醸造されたぼくらも現実社会に出ることによって、自分たちが居たそれまでの価値観と現実のギャップの壁にぶち当たった人も少なくないと思います。いつの時代も若者の自意識過剰からくる都合の良い理想像と、現実の自分に対する扱いの厳しさに対するギャップはつきものですが、ぼくらの世代はとりわけてその温度差が激しかったような気がします。個人的な成長の過程でぶつかる壁だけならいざ知らず、世の中に出てから今に至る僅か10年にも満たない間に世の中がこんなにも急速に冷え込み、これまでの矛盾がこれでもか~と言わんばかりに吹き出して自分たちの身に降りかかってくるとは思いもよりませんでした。そしてその変化の波はこの先いよいよ崩壊的な激しさに変わっていくでしょう。そういった激しい変化に真っ先にさらされながら生きなければならないことは今の若者の共通の宿命だと思います。
それを口実に自分たちが一方的な被害者だと誰かに訴えたいわけではありません。というよりも、今はほんの少しこれまでの過去を振り返って心の中の整理をする必要があると思うのです。あれほどキラびやかで勢いがあった自意識過剰文化も、実は未来が全く無い刹那の虚飾に過ぎなかったことが徐々に明らかになってきました。ぼくはこれまでの若者文化と呼べるものを全否定して悪者だと決めつけるつもりはありません、それはあまりにも乱暴すぎます。ただそこには一時の流行りものに過ぎなかったものと本質的に意味がる”本物”とがあり、未来に貢献出来る価値の無いものは自然に淘汰されて消え去っていく運命にあるということを前提に書いているだけです。いま社会が混沌としてきたなかで、誰もが浮かれた価値観の中で愉悦に浸っている余裕が無くなってきました。見た目の綺羅びやかさで負の本性を覆い隠せる時代が終わろうとしています。
もはや虚飾の衣を被せることができなくなった後に残るものは何でしょうか。剥き出しになった現実社会の厳しさと、もはや限度を超えた矛盾と理不尽さは改めて書き連ねるには及びません。一人一人の心の負の側面、依存と弱さ、不安と恐れ、その反動である刺激と虚無の繰り返し、比較と評価、、、優越感と劣等感、、、誰しもが抱える心のジャンクたちを隠れ蓑にスルーしてきた幼さの克服という宿題、、、それらを虚飾で美化することは最も醜い逃げ道です。呪いの言葉を吐いているわけではりません、これから本格化する古い社会規範の崩壊と新たな生成の過程において、その中で生きる一人一人の人間も自らの心の負と闘い克服する過程を否が応無く体験することになると思います。その現実と真正面から向き合おうとすることが、誰もが望む人生の幸福と真の夢と希望に至る細道の入り口だと言いたいのです。
夢と希望が叶う人生は特別な条件を満たした一握りの人間のためにだけあるわけでは無いと思います。今までの時代は様々な雑念とあらゆる不純物によって、本来人が幸せになるために必要な様々な要件、特に"自分は何のために生きるのか"といういつの時代も普遍的で必要不可欠な問いを、古臭くて時代遅れのダサイ考え方、あるいは青臭くて未熟な考え方として封印してきました。しかし、その古くてダサくて青臭い問いに答えを出さずして夢と希望を本当の意味で叶えることができた人物をぼくは知りません。
一番大切なことは、何のために生きるかという問いの”何の”部分に文字通り何を置くかです。ハイテンションとアップテンションが手をつないで踊り歩いていたような時代では、単純に自分の願望100%+苦労しなくてすむ楽な道を追い求めれば夢が叶って幸せになれると信じ込むこともできました。冷静になって考えれば矛盾だらけな要求なのは明らかですが、熱病にのぼせ上がっていたような状態ではその点をしっかり認識できなかったのも無理はありません。では何が理想的かというと、やはり人々に本当に貢献出来る目標を立てることだと思います。そのような道を選んで進むことができれば、たとえ負わされる苦労が多くとも確実に幸せと充実感を手にすることが出来ると思います。人のためになることを積み重ねることが幸せへの一番の近道であるということは、今も昔もこれからも決して変わることの無い普遍の真理だと思います。
でも上の話は様々な条件を満たした上でしか実現しない理想像です。現実にはあらゆる苦労や試練を乗り越えた上で、自らの幼さ未熟さを克服して人間性と技術を磨きあげなければ本当に人々が求めている要求に応えることはできません。書いているぼく自身が最たる例ですが、心身ともに欠陥品で未熟な精神しか持ち合わせていない者は、やはり上の上の話、つまり自分を取り巻く現実と内面の負と向きあって克服する所からスタートを切るしかありません。それは、すでに理想的な道を得た人に比べるとひどく見劣りする道ですし、たとえその先に確かな希望があることを確信できたとしても半端でなく長く険しい道程です。でも、その険しさに恐れおののいて現状に甘んじていられる道を神様は用意してはくれません。
人生は絶え間なく進歩と克己を要求されるものだと思います。そこを避けて通る道ばかり選んでいるとやがてはジリ貧に陥入り過去のどの時点よりも乏しい現実しか与えられなくなってしまいます。何故なのか理由は分かりませんが、大昔から人の世はそのように出来ているようなのです。現実の情勢はますます厳しいものになっていくかもしれませんが、ぼくらにはまだかろうじて若さと選択の余地が残されています。ようは今のリアリティをどのように受け止めて進むか、一人一人がそれを選択する自由と責任が与えられているのです。
PS.近頃の天候のごとく取りまとめの付かない文章ばかり書き込んで恐縮ですが、これも不定愁訴気味の半病人が脳ミソの整理整頓のために吐き出した戯言だと受け流していただければ幸いです~m(_ _)m
ようやく春の陽気も本格化してきました、今シーズンの冬は本当に長く感じました。ただ、明日にはまた寒気が入り込んできて寒くなるようですが、、、もうしばらく寒気と暖気の押し合いへし合いが続いた後、今度は桜の季節となりやがて新緑も芽吹いてきますね。今日、とりとめもなく話そうと思う内容は春の陽気にそそのかされたような全くの戯言です。暇つぶしのネタ程度に読んでもらえれば幸いです(^^A)
オリンピックがあったことが遙か昔のように感じられますが、世の中は相変わらず平静であるようで、それでいてどこか今までと違うような違和感を覚えるのはぼくだけでしょうか?世間に目を向ければ平均年齢70代の新党が立ち上がったとか、与党内閣の支持率低下と迷走ぶりがことさら報道され続けていたり、そうでなければ芸能やスポーツの話題がいつもどおり画面をにぎわしているといった按配です。でも、世界では水面下で大きく情勢が変わろうとしているのも事実なようです。特にアメリカの経済情勢は待ったなしの水準まできているようです。つい先頃、亀井大臣が発した郵政改革案の中で郵貯、簡保の上限額引き上げをめぐってすったもんだしていましたが、そのドサクサに紛れて郵貯資金をアメリカ国債購入に廻せる仕組みが作られたようです。これまで郵貯資金は日本の国債を買取る資金として優先的に運用されてきましたが、それゆえに国の財政がどんなに危機的な水準に陥っても間接的に国民の資産で買い支え続けるかっこうになり、国家の財政破綻という最悪な結末は回避できるという根拠になっていました。そこにアメリカが抜け目なく目を付けたわけですが、そうすることでアメリカの財政維持のために日本の虎の子が使われてしまうことになり、日本にとってはこの先数年後?に非常に困ったことにならないか心配です。
経済のことは難しいのでぼくには大雑把なことしか分かりませんが、それだけアメリカもなりふりかまっていられないくらい余裕が無いことは分かります。近い将来に状況がどのように変化していくのか予測することは難しいでしょう。でもここで少し長い目で先のことを空想してみることは必要かなと思います。半年先も分からない時に3年、5年、10年先を何となくでも予測するのは馬鹿げているような気もしますが、この先誰もがめまぐるしく変化する世の中で生活し続けることを余儀なくされるわけですから未来を想像しながら今を見つめるという姿勢を持つことも全く無駄だとは言えないと思います。
今の時期は進学、就職シーズンも一段落して多くの人々は新しい環境で一歩を踏み出している時期ですが、その一方で雇用情勢の一段の悪化、格差社会のさらなる拡大、中高年失業者の増加、自殺者の三万人超えなど、暗澹たる事象が取り上げたら切りが無いほど拡がり続けています。幸運にもそういったことにまだ無縁であったとしても、そう書いているぼくも含めて多くの人々が明日は我が身という不安を抱き続けながら生活しなければならない、そんな今のご時世は考えてみると全くもって不幸な時代と言わざるおえないかもしれません。
そうだからといって、悲観に暮れ続けたり批判に終始してばかりで前を向こうとしないでいては自分自身を取り巻く状況は悪くなるばかりで決して良くなることはないでしょう。本当に追い詰められていて苦しんでいる人に悲観するなとは言えません、でもまだ余裕があるのに批判に終止するだけで済ましてしまうことは大きな落とし穴だと思います。人間の心理の中には自分に手に負えそうも無い困難や不安を、他の対象を批判したりそこに原因を求めることで一時的な安心を得る性質があるようです。でもそれは根本的な解決にならないことはもちろん、問題を棚上げし続けることでまだあったはずの貴重な余力をいつのまにか失い、気が付いた時には本当に追い詰められていたという全く洒落にならない事態を自ら招いてしまいます。ここ数年、政治や経済が誹謗中傷合戦に終始して問題を棚上げし続けてきたことも、こういった心理が積み重ねに重なった結果だと言えなくもありません。例の高齢保守新党の旗揚げに際して、本気で国を憂いているのはもはや自分たちしかいないと声高に叫んでいた人たちの発言と、まるで自分たちだけが正しくて他の連中が間違っていたから日本はこうなったんだと言わんばかりの態度にもそれが表れていたような気がします。
でも上の指摘は他でもない書いているぼく自身にこそ向けられるべき戒めです。あの権力による個人に対する責任転嫁という呪われた呪文のような”自己責任”という言葉は大嫌いですが、自分の心の在り方を自分の意思で決めるという意味では、やはり自己責任という言葉がもっとも相応しい表現だと思います。自分や誰かの人生を判定するために自己責任論を振りかざすつもりは全くありません。ただ、これまで長い間に多くの人々がより良い変化と自由を求め続けた結果、個人が物心両面で厳しいプレッシャーにさらされ続ける状況を生み出した現実は受け止めるしかないと思うのです。そういった現実の避けがたいプレッシャーに即打ち勝つことは叶わなくとも、せめて自分の在り方を見失わない姿勢は守り続けたいものです。そして、いつかは自分にとって本当に相応しい生き方を築き上げたいと思います。そのためには今この時に悲観や批判に囚われているわけにはいかないのです。
あれよあれよという間に時間が過ぎて、気が付くと今日が閉会式という感じでした。いつも思うことですが、オリンピックの最後は祭りの終のごとく何とも言えない寂しさがありますね。今日の閉会式も開会式に負けないくらい派手なショーでした。あの氷柱をイメージした聖火台は開会式の時に故障のために予定していた一本が上がらず、本来の本数よりも少なくなってしまったことが話題になりましたが、今日の閉会式ではユーモアあふれる演出とともに残りの一本が立ち上がり再び聖火が灯されるというサプライズがありました。開会式の時に立ちぼうけを余儀なくされていた聖火ランナーの方も改めて役割を果たした格好となり、これで全てが終り良くまとまったのは見事な展開でした。
振り返ってみると今回も記憶に残る場面が数多く見られた忘れがたいオリンピックになりそうです。その中でも一番印象に残ったのは、やはり冬季オリンピックの花形種目であるフィギュアスケートでした。日本から出場した男女6人全員が入賞を果たしたことは本当に快挙ですね。それを上回るインパクトを与えたのは、史上最高の得点で金メダルを手にしたキム・ヨナ選手の活躍でした。キム・ヨナ選手の演技は、現時点の枠組みの中で最高の出来栄えだったことは紛れも無い事実ですから、浅田真央選手との対決の結果については全く異論を挟む余地は無いと思います。ただ、勝利を掴むために完璧な演技をやり遂げて、あれだけの結果を出してしまっては、この先により進化した演技を見いだすことは至難の業ではないかと思います。その点では、(T_T)の銀メダルに終わった浅田真央選手の方が先々により進化できる余地を残したことになり、今後の成長が本当に楽しみです。頂点を極めたキム・ヨナ選手は今後の競技生活について早い時期に引退することもあり得るのではないかという憶測が飛び交っていますが、たとえ一時期休養期間を置いたとしても再び氷上に戻って浅田真央選手との競演を続けてほしいと勝手ながら思います。そして、4年後のソチオリンピックでは大人に成長した二人の演技をぜひとも見てみたいものです。
今回のフィギュアスケートでメダル争いよりも印象に残ったことは、序列では下位に位置づけられている選手たちの演技が本当に輝いていることでした。靴ヒモが切れるというまさかのアクシデントに見舞われながらも堂々と滑りきった織田信成選手、4年前のトリノオリンピックでは緊張のためにベストの演技が出来なかった安藤美姫選手が成長して様変わりした演技を見せたことも嬉しい出来事の一つでした。そして個人的に一番印象に残った演技は、摂食障害を克服して出場した鈴木明子選手の情熱的な滑べりでした。鈴木明子選手の一途な思いのこもった演技は会場中の観客の心を鷲掴みにしました。評価の上では下位に位置づけられていますが、もし観客に与える感動の度合いを評価出来る仕組みが存在するなら間違いなくメダリスト級の演技だったと思います。LIVEで見ている時は、まさに手に汗にぎる思いで不覚にも涙が出そうなほど感動しました(--,)
男子フィギュアも印象的な演技が相次ぎました。今思い出してみても高橋の「道」の音楽に乗せた演技は最高でしたね、あの中世のヨーロッパを思わせる衣装と佇まいが何とも言えない魅力を漂わせていました。「道」は往年のイタリア映画ですが、そのテーマ曲に乗せた高橋選手の演技は道化師の悲哀を描いた筋書きのごとく、人生における様々な喜怒哀楽を表現し切った迫真の演技だったと思います。果敢に挑んだ4回転ジャンプを転倒しながらもすぐさま立ち上がり、真っ直ぐ前を見据えながら次のステップを踏んだ瞬間の表情が忘れられません。五輪シーズンに向けて本格始動する矢先に膝の靭帯を断裂する大怪我を負って手術する道を選択、長く険しいリハビリ生活の中で復帰へのプレッシャーから逃避を図ったこともあったそうですが、それらを一つ一つ乗り越えて目標とする五輪の舞台へ返り咲いた姿とその演技が重なって見えました。
男女ともにフィギュアスケートのレベルはこれまでに無いほどに進化したと思います。それは技術や記録、勝敗面に関することでけではなく、一人一人の選手が自分自身の表現を極めてそれを越えていこうとする姿勢がより鮮明になってきたことに現れています。競技において勝敗を分ける要素以上に、フィギュアスケートが本来持っている観客を感動させる表現を生み出すことに、各々の選手が真剣に取り組んだ結果だと思います。前回のトリノオリンピックにおける荒川静香選手の劇的な金メダル以来、フィギュアスケートはより表現を深める方向に進化したと思います。今回の、キム・ヨナ選手が表現を重視しながらも得点を効率良く積み重ねる合理的な演技で史上最高の得点を記録しました。次回のソチオリンピックに向けて、各選手の演技がどのような方向を向いて進化して行くのか、これからも注目していきたいと思います。
今回のオリンピックで印象に残る場面はフィギュアスケートのみならず、あらゆる種目、あらゆる国の選手のエピソードに及び、とても一回の記事では取り上げきれないほどです。書いていてふと思ったことですが、自分とは直接関係ないはずの選手たちの活躍にどうしてこうも多くの人々が感動することが出来るのでしょうか、考えてみると不思議なことですね。いつもオリンピックを見ていて感じることですが、一人一人の選手の競技に望む姿勢や、その舞台に至るまでの過程、支える人々とその期待に答えようとする姿から、人生や人間の本質について見えてくるものが沢山あります。この広い世の中において何らかのスポーツに勤しむ人々は沢山いますが、オリンピックに出られるほどのアスリートは選ばれた特別な存在と見なさざるおえないでしょう。ぼくも含めて多くの人々は特別な存在として見なされることの無い普通の人生を送っています、たとえそこに大きな隔たりがあるにせよ、もし自分の意志と力で人生を歩む道を望むならアスリートの教訓から学べることは沢山あると思います。
アスリートの最終目標は並み居るライバルとの競争を制して金メダルを獲得することですが、それが人生の最終目標ではない気がします。フィギュアスケートをはじめ、あらゆる種目、競技をこれまで見てきて、そこでは勝敗を超えた何かが絶えず産み出されてきたように思います。多くのアスリートは熾烈な競い合いの先にある、その捉え所のない”何か”を求めて一心不乱に頑張っているのだと思います。ぼくも含む無名の人生を送る多くの人々にとっても、つまるところは自分の人生で本当に納得の行く何かを見つけられるかどうかという点においてはアスリートと同じなのだと思います。
いよいよ閉会式が華やかなフィナーレを迎える時は、その派手な演出とは裏腹に終わりゆく祭典の寂しさがひしひしと伝わってきました。最後にカナダの文化を同国の有名人が紹介する場面で、あの「Back to the Future」のマイケル・J・フォックスが元気な姿を見せてくれたことは嬉しかったですね。彼はパーキンソン病を煩い長い闘病生活中ですが、予想以上に健康そうだったので安心しました。もう数年前のことですが、彼の手記を読んで難治性の病気と向きあう困難さと、それでも直向きに生きようとする姿に大きな感銘を受けました。当時、療養生活の長期化避けられなくなっていたぼくはこの本に随分と勇気づけられました。余談が長くなりましたので、そろそろ締めに向かわせようと思います。他にも思いつく限りさまざまな印象的場面がありましたが、とにかく今回のオリンピックも沢山の感動と人生の教訓を学ばせてもらいました。今から4年後のソチオリンピックが本当に楽しみです。その頃までには、ぼくの人生と健康も今より少しでも進展するように頑張らなくてはなりませんね、、、(^^A)
明日はいよいよ女子フィギュアスケートのフリーの演技が始まりますね。昨日のSPもハイレベルな演技が続出して目が離せませんでした。一番の注目は、なんといってもほぼ完璧な演技を見せた浅田真央選手と、それをさらに上回る完成度を見せつけたキム・ヨナ選手の金メダル争いですね。この戦いの行方はどちらに転んでもおかしくはありませんね、結果は神のみぞ知るです。おそらくは、これまでの実績と演技の完成度で上回るキム・ヨナ選手のほうが金メダルに一歩近いのではないかと思いますが、追う浅田真央選手も新しいプログラムを完璧に演じきれば勝負の行方は五分五分で分からなくなります。その浅田真央選手の五輪向け新プログラムについて、この前の日曜日に興味深いドキュメント番組が放送されました。
その番組では浅田真央選手が新プログラムの「鐘」を完成させるために、ひたすらハードな練習をこなす姿を追っていました。浅田真央といえば「仮面舞踏会」というほど定着したこれまでのプログラムとは打って変わって、抑圧されるロシア民衆の苦しみを表現したと言われる「鐘」という重苦しい曲に変えた理由が素人のぼくにはよく理解できませんでした。でも、このドキュメント番組のおかげで新しいプログラムがロシア人のタラソワコーチの秘策中の秘策であることが分かりました。これまで女子フィギュアスケートにおいてジャンプと表現を高レベルで両立できた選手は皆無だったそうで、浅田真央選手の潜在能力に惚れ込んだタラソワコーチがジャンプと表現を最高のレベルで両立する前人未到の演技をさせるために創り上げたプログラムが「鐘」なのだそうです。
最初に「鐘」のプログラムを浅田真央選手が演じている様子をテレビで見たときはあまりにも重苦しい雰囲気が、これまでの浅田真央選手のイメージとはかけ離れている印象で正直なところ違和感を感じるものでした。演技の出来も散々たるもので、本人も不甲斐ない自分に落ち込んでいるようでした。五輪に向けてイメージを一新する方策が裏目に出てしまったのではないかと心配するほどでしたが、それも当然の成り行きだったのです。先の番組では「鐘」のプログラムの意図するところについてわかりやすく解説されていましたが、具体的にはジャンプと表現を高次元で両立するために、普通ならば長くとるジャンプ前後の”間”を限界まで切り詰めて、その間にもステップを組み入れてジャンプとその他の演技を途切れることなく一つの流れの中で演じきるというものです。言葉で言えば簡単そうですが、それを実現した人はまだ誰もいない難易度が非常に高いハードルです。浅田真央選手の才能と実力を持ってしても、自分のものにして演じきるまでには相当の時間と練習を要したのです。お披露目後、徐々に完成度を高めて直前の大会ではかなりのレベルに達していましたから、技術面での不安はもうないと思います。それは五輪入りした際の浅田真央選手の自信に満ちた表情からも伺えます。
明日の浅田真央選手のフリーの演技はそういった一面を意識しながら見ると、また違った醍醐味が味わえるかもしれませんね。いまだにトリプルアクセルとかダブルトーループなどの技の違いがハッキリ分からない素人ですが、こういった予備知識を教えてもらえるとより深く演技を楽しむことが出来てありがたいです(^^A)
対するキム・ヨナ選手の演技は対極的な内容で、演技の合間ごとに”間”を演出することで演じやすくした上で、さらに万一のミスに対してもリカバリーできるようにするなど全体的に勝つための合理性を極めたプログラムです。浅田真央VSキム・ヨナ両選手の宿命の対決で軍配がどちらに上がるかは時の運ですが、どちらの選手もベストの演技をしてほしいですね。ぼくとしては真央ちゃんを応援するのはもちろんですが、キム・ヨナ選手の演技も嫌いではありません。真央ちゃんの迫力の中にも朗らかさと温もりをたたえた演技とは対照的に、クールでキレがあるちょっとツンとしたキム・ヨナ選手の演技も魅力的です。彼女のやや好戦的ともとれる佇まいも、韓国中の期待とスケート界の未来をたった一人で背負っているという背景があるせいかもしれませんね。
今日は男子フィギュアスケートのフリー演技がありましたね。結果は日本中のみなさんが御存知の通り、高橋大輔が見事に銅メダルを獲得しました。テレビで演技を固唾を飲みながら見ていましたが、いやぁ~本当に感動しましたね~。オリンピックを毎回見ていて思うことですが、それぞれの選手がプレッシャーをかき分けながら必死で演技しているオーラが画面を通して伝わってくるような気がします。小塚は4回転を決めるなど、初めてのオリンピックとは思えない見事な滑りでした、次のソチ五輪で日本のエースに成長しているのでしょうね。織田は靴ヒモが切れるというまさかのアクシデントで気の毒でした、それでも観客の声援に励まされながら最後まで演技をやりぬいた姿は感動的でした。オリンピックには魔物が潜むと言われますが、今回のアクシデントがそれなのでしょうね。オリンピックはまさに筋書きの無いドラマです。
魔物といえば、金メダルを取ったアメリカのライサチェックはモンスターのような強さでしたね。その演技は完全に勝ち行ったと思えるようなものでした。勝利に対する執念が剥き出しになっていたというか、何かアメリカという国の素の表情を垣間見た気がしました。ライサチェックのあとに演技した全ての選手は、おそらく例外なく、彼がリンク上に残して行った黒いプレッシャーと戦うことを余儀なくされたと思います。直後の織田もそのプレッシャーに飲まれてしまったのかもしれません。最後に滑った、あの王者プルシェンコでさえも緊張に揺らいでいる様がはっきり分かるほどでした。
高橋は演技序盤、かかんに4回転に挑戦しました。転倒してしまいましたが、それすらも演技の筋書きであったがのごとく立ち直り、以降は本当にすばらしい演技を見せてくれました。右膝の大怪我から復活しての快挙は本当にスゴイことですね。以前、リハビリに打ち込む姿を追ったドキュメントを見ましたが、その時はオリンピックに出られるかどうかすら五分五分だと感じるほどでした。あの時の苦痛をたたえた姿を覚えているので、今日の結果には感無量なものがあります。高橋選手は自身をアスリートとして申し訳ないほど弱い人間と評していましたが、むしろ自分の弱さに苦しむことが出来るほどの精神だったからこそ、そして絶望的な怪我を負っても諦めずに信じ抜く強さがあったからこそ、最後にあれだけの輝きを見せることができたのだと思います。
ライサチェックは4回転は捨てて勝利を確実にする滑りで金メダルをモノにしました。王者プルシェンコは自身の8年間ジャンプで転倒したことが無いというプライドをかけて全てのジャンプを成功させました。日本の三選手は、そういった強豪相手に一歩も引くことなくベストを尽くしました。高橋が史上初の銅メダルを獲得して、織田、小塚が入賞をはたしたことはすばらしい快挙です。まさかのアクシデントに見舞われた織田選手は本当に気の毒ですが、胸を張って帰ってきてほしいですね。
メダル争いを演じた上位選手もさることながら、日本の小塚選手と同世代の若手選手の活躍が相次ぎました。アメリカのちょっとオカマっぽいウィア(19)は、リンクに上がると一変してライサチェックに迫るほどの完璧な演技を見せましたし、カザフスタンの七三分けがチャームポイントのデニス・テン(16)も驚くほどうまい演技を見せてくれました。また、各国のベテラン選手が最後の大舞台として今回のオリンピックに望む姿も多く見られました。アスリートのピークは短いものですね、そういった選手の多くがぼくと同世代だったことも別な意味で感慨深いものがあります(^^A)
早くもオリンピックは後半戦に入りますが、男子に引き続いて女子フィギュアも本当に楽しみですね。結果がどうなるかよりも、三者三様のベストな演技が出来ることを一観客として祈っています。
バンクーバー五輪が開幕して世間はスポーツの話題でたけなわのようですが、一方で経済情勢はギリシャが破綻寸前であったり、五輪が開催されている同じカナダの極北の地で秘密サミットが開かれたりと何やら雲行きが怪しくなってきています。アメリカではリーマンショック以来の経済建て直しが遅々として進まずドルのデフォルトまでささやかれています。水面下では何らかの対策が急速に進められているようです。ぼくには何が起ころうとしているのか全く見当がつきませんが、バンクーバー五輪が終わった後に世の中の変化が急速に進むような予感がします。
これから先は取越苦労の杞憂にすぎないかもしれませんが、何となく時代の谷間が近づいてきているような気がしてなりません。今すぐに国の財政破綻や資本主義経済の崩壊などという大それた事態が起きるとは思っていませんが(いつでも起こりうるという心構えはあります)、歴史を振り返ると一つの時代、一つの社会体制が永遠に続いた例はありません。今現在殆どの人が当たり前と思っている市場主義と民主主義による自由社会も、いつかは役目を終えて新しい体制に取って換えられることは間違いないことだと思います。問題はそれがいつ起こるのかということですが、それは誰にも分からないことだと思います。それでも実感としてそう遠くないうちに起こるような気がします。実体経済の100倍のお金が還流してそれにほとんどの国が依存している経済はどう考えても異常ですし、いつかは限界が来ることは明白です。
万一そういったことが起こると、一部の例外を除いて世界中の人々がこれまでに経験した事が無い、常識や価値観が一辺にひっくり返るような衝撃を経験することになります。過去の歴史に例を求めれば、戦前、戦中から戦後に至る激動の時代、もっと以前は幕末から明治維新、最も近年では社会主義体制が崩壊して冷戦が終結した時代です。最後の例は遠い外国で起きた例ですが、それぞれの時代に共通して起こったことは、人々の間で普通に存在していた価値観や人生のリアリティが、ある時点を境にして根こそぎ奪われ消失したということです。教科書の上では、歴史上の重大な転換点をこともなくスムーズに乗り越えたかのように記されていますが、実際にはその時代を生きた数え切れないほど多くの人々の人生や価値観が混乱の中で変えられたり失われていったりしたのです。
では、そういった時代の谷間をくぐり抜けてきた多くの人々はどうしてきたのでしょうか。絶望の中で人生の歩みを断念してしまった人も少なくなかったでしょう、しかし、それでも大多数の人々は何とか生き続けてやがては新たな希望と人生のリアリティを取り戻したのです。だからこそ何が起きても希望を捨て去る必要は無いのだと言えます。なぜなら、その時代を生き抜いた人々の困難を乗り越えようとする営みが新しい時代を創造していったのですから。この先そういった時代の大きな谷間に遭遇しても、かつての時代よりも幸いなことは、人の命や形あるものが全面的に破壊され尽くすようなことが、まず起こりえないだろうということです。おそらく、目に見える形の悲惨さよりも、今の時代を生きる一人一人の人生や価値観が問い直されるような、精神的な衝撃が強くなるのではないかと思います。
ここでまた繰り返しになりますが、明日にでもそういった万一の事態が起こる可能性は低いと思います(思いたい・・・)、不安や恐れをいたずらに煽るつもりはありません・・・(^^A)
昨今は平穏無事な時代から混乱の時代へ移り変わろうとしている過渡期の時代かもしれません。そういった時代には、いくつかの必要な心構えがあります。まず最初に、本当に必要なものとそうでないものを選り分けて不必要な執着や願望の対象はいつでも捨て去る準備をしておくべきです。そのようにして自分の心の中を整理し身軽になった上で、今度は自分の人生の本当の目的、役割について真剣に考えてみることです。ここで、これまでの価値観や感覚の延長線上で考えても無意味です。例えば、自分の人生のいついつ、どこどこで何々を手に入れて、他の誰かさんと比べて見劣りしない生活をしよう、そんな考え方は混乱極まる時代には相応しくありません。また、辛いこと苦しいことはできるだけ避けて、それよりも楽しいことをたくさん見つけて嫌なことをまぎらわそう、当たり前のことですが、いざという時そんな生き方は通用しないと思います。
困難な時代を乗り越えるために真に必要な要素は、自分の生きる目的を自覚することだと思います。人間の歴史は古今東西、動乱と変動の繰り返しでした。自分の人生において、どうすればもっと多くの収穫を得られるのだろうか、そういった考え方で生きられる幸せな時代のほうが歴史の上では圧倒的に少なかったのです、むしろ例外と言ってもいいくらいです。自分の生きる目的を見定めるということは、いついかなる時も人生の道しるべとなります。そして、それは自分の意思と力で見定めなければならないことです。もし、本当に世の中が困難な時代に突入したときに、自分の生きる目的を思い出して、それ以外は脇目も触れずに貫き通す覚悟が必要です。もちろん、それは自分本位を貫くということではなく、むしろ反対に誰かから必要とされる役割を担うことや、大切な存在を守り抜くことを意味します。
こういった心構えで生きるということは、アスリートの精神に似ているのかもしれません。アスリートは絶えずライバルと競りあって勝利することを目指し、一方で自分の肉体を限界までいじめ抜くことで、また精神をプレッシャーと多大なストレスにさらすことで、自らの弱さの限界を乗り越えようとしているのだと思います。多くの人々がアスリートの姿を見て感動する理由は、アスリートと同じように観る人の心の中にも人生の真実の意味を見出したいという根源的な欲求があるからだと思います。半ば人生を諦めてしまったような人でも、心の奥にある何か求めてやまない気持ちを完全に消しさることはできないと思います。それは人間の魂の底に絶えず真実を求める要求が植え付けられているからではないでしょうか。書いているぼく自身、本物のアスリートのようになれるわけではありません、それでも今のような先行きの見えない時代を生きる上で、アスリートのようにストイックに真実を求め続ける生き方は一つの見習うべき手本のような気がします。
ぼくにも決して小さくない夢があります。それは、時代が変わっても決して失われることの無い真実の一面を、ぼくなりに何かの形で表現しきることです。そう思っているだけではなくて、いま実際にそれを手掛けている最中です。それはぼくにとって一筋縄にいかない難しい課題です。まだそれを創り上げてはいないので何をしているか口にだすことは出来ませんが、思いのほか時間がかかったとしても完成させることはできると思います。ただ作るだけなら、やり方さえ学べば誰でも作れるものですが、それを他の誰かにとって価値あるものに仕上げることが難しいのです。それが多くの人に必要とされて売り物になるかどうかは分かりません、でも、たった一人でもそれを手にしてくれた人にとって意味のある作品に仕上げてみせるという自負はあります。
時代や人生において、先々に何が起きてどうなるかは誰にも分かりません。だからこそ、自分の人生を迷うことなく賭けることのできる夢や希望が必要なのだと思います。厳しい時代の波に飲み込まれても、逆にそれを乗り越えていく人は、いつの時代も困難を恐れず前向きに生きている人々です。
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発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」