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「自分は愛の無い家庭に育った・・・」加藤被告が自身の発言の中で度々語っていることです。本人がそれを言う事で何か同情を誘うような体の良い言い訳のようにも聞こえますが、これも被告の偽らざる実感だと思います。この点については率直に理解できるところもあります、ぼくもこれまで生きてきた中でそういった思いを誰もが大なり小なり抱いてきた様子を垣間見てきているからです。ぼくは加藤被告の家庭環境について詳しくは知りませんし、被告の家族や両親についての本当の気持がどうだったのかも分かりません。でも一つ言えることは、加藤被告が言うように愛が全く無かったのではなく、むしろ両親や家族は被告のことを愛していましたが、その愛し方がどこかでボタンを掛け違ってしまったのではないかということです。ぼくにはそう思えるのです。
前回の記事で加藤被告は錯覚に錯覚を重ねながら、とうとう行き着くところに行き着いてしまったと書きましたが、子は親の鏡という言葉の通り加藤被告のそれと全く同質な思い違いが両親の愛の中にもあったのではないかと思います。加藤被告は社会や他者に対して、自分の願望を叶える都合の良い舞台、自分の考えや行動を常に肯定してくれる上で、これもまた願望を叶えてくれる手段としてしか認識できなかったように思えます。それはそっくりそのまま両親の価値観や人生観の反映でしょうし、そして加藤被告も両親からそういった要求を受けて、絶えずそれに応え続けることに何の疑問も持てなかったのだと思います。両親はそういった要求を我が子に求め続けることが、被告はそれに必死に応え続けることが愛であると信じて疑わなかったのではないかと思います。
そういった客観性が不足した考え方で外の世界を生き続けるということは、つまづきと壁にあたることの連続だったと思います。でも、客観性が不足して壁にあたるのは古今東西の若者がフツーに経験して乗り越えていく過程です。ぼくはそういった人生の壁を乗り越えていくために必要な基本的な考え方は、人生における時間の捉え方にあると思います。錯覚や矛盾のように思えることも、そこを越えて次の峰に至る道筋だと考えることができれば、たとえ一方ならぬ時間と労力を要したとしても、困難は自然と過ぎ去っていくものだと思います。ところが加藤被告のように”今、この時”に全てを求めると行き詰まります、人間は過去や未来を集約することで思い通りにすることはできません。
本当の自分を受け入れることも、他者を理解して認めることも、孤独の壁を乗り越えることも全ては時間を知ることから始まります。人は時間の流れと絶え間ない連続の中で生きていることを受け止めて、その中に確かな希望が存在することを信じることができれば、もはや絶望に支配されることはありません。しかし、人が時間の流れを見失い比較の罠に嵌った時に、人間のあらゆる好ましくない性質が姿を現します。比較は全く無意味です、なぜなら一人一人全く違った道筋と時間を生きているわけですから。また、人生において望ましいことと望ましくないことをより分けることも不可能です、それは時間の流れを無視することで生じる錯覚です。自分の時間を見失って絶望に因われてはいけません、絶望は人の心を冷たく残酷にするものです。
愛と称して、その実、自分が望む願望の虚像を押し付け、それ以外は一切受け入れずに排除する。そんな残酷な仕打ちが、今を生きる多くの人たちの”愛”の実態ではないでしょうか。その残酷な愛に対する絶望が、加藤被告をあの凶行に駆り立てて、被告の言う”憎むべき勝ち組”などでは決してない、遺された人にとってはかけがえのない愛すべき存在だった七名の尊い命を奪ってしまったのは本当に悲しいことです。
加藤被告は自らの甘えと弱さゆえに勝手に絶望し、関係のない多くの人たちを傷つけ命まで奪い自身の人生も破滅に追いやってしまいました。被告は、その要因を自分自身の愛に恵まれなかった境遇のせいにしたいように見受けられますが、もしそうなら筋違いです。たとえ、どんなに必要な要素が欠如した境遇であろうとも、人にはそれを自らの意思と行動で乗り越えていけるだけの力と責任が与えられているのです。自分の中に愛が欠如しているということを知ったということは、それはそのまま本当の愛を知る道筋につながる暗示でもあったのです。今さら何を言っても遅いのは分かっていますが、絶望のすぐとなりに希望の道が用意されていることに、なぜもっと早くに気が付くことができなかったのかと思わずにはいられません。
本当の愛は、今この時に完全な姿と形を持って存在するわけではありません、それは絶えず流れて変化する時間の中に存在します。ゆえに手に入れて所有したり誰かから与えられることもありません、ただ人生の長い時間と過程の中で少しづつ気付いていくだけで良いのだと思います。ぼくと同世代の若者も、すでに子を持つ親になっている人も少なくありません。親になって我が子を目の前にしたときに、本当に我が子を愛するとはどういうことなのか、一度立ち止まってじっくりと考えてみるべきだと思います。そうすることが、もしかすると我が子の心のなかに"加藤被告”を生み出さずに済む一番の方法だと思います。
(おわり)
前回の記事の続きですが、現実の人間関係について、もう少し深く考えてみようと思います。前回の記事に、人は周囲から期待される”その人”であり続けるように努める義務を背負うと書きましたが、これを言い換えると人は対象とする人や物事との関係によって、その時の自分の在り方があらかじめ決められてしまう存在だとも言えます。例えば親の前では良い子かどうかは別として、親から見た子でなければなりませんし、友達から見た友人として、恋人から見た彼氏、彼女として、学校及び先生から見た生徒として、会社から見た社員として、などなど、対象とするものと自分との関係をいくつも演じ分けなければなりません。英語で個人を意味する”Personal”はもともとギリシャ語のペルソナが語源で、その和訳は”仮面”だそうです。なるほど~と頷かされる話ですが、まさしく人間関係は仮面を介した個人同士のつながりであることがわかります。
加藤被告に限らず、誰しもが他者から自分の存在を認めて欲しいと願っていると思います。先に述べた通り、どんなに自分が理解されることを求めてみても、相手が求める関係性のごく狭い範囲でしか自分を表現する機会はありません。また、その中で期待に応えるために一生懸命に努めても見返りとして受け入れられる部分はごくわずかだと思います。加藤被告はそのことを理解できなかったのではないかと思います。被告は自分が即座に他者や社会から許容されることを夢見る一方で、現実には拒絶される経験ばかりが圧倒的に多かったのではないかと思います。その反面、自分以外の人たちが人間関係や社会において順調に立場や関係を創り上げていく様子を目の当たりにして、それがあたかも自分以外の人たち全てが何の障壁もなくそれらを築き、全面的に自分の存在を受け入れられていると錯覚したのではないかと思います。
その錯覚と自分を取り巻く現実の落差が、被告の社会や他者に対する憎悪をさらに増すことになったのは想像に難くありません。このことに限らず、被告の価値観の中にはそういった錯覚につぐ錯覚で現実が完全に見えなくなっていたのだと思います。ここに加藤被告の存在が無視できない最大の理由があるように思います。被告のように自ら生み出した錯覚によって完全に思考が支配されているような場合はそう無いことだと思いますが、そういった錯覚を生み出す要因やその一部分については、今を生きる普通の人たちの中に当たり前に存在していることだと思います。
加藤被告の認識において、錯覚の他にもう一つ重大な問題があります。それは、自分の本当の姿を受け入れる勇気と術を両方とも持ち合わせていなかったことです。自分が欠点だらけの不十分な人間だという現実を受け入れることができなければ、それはすぐに強烈なコンプレックスに変わります。どんな人にとっても、等身大の自分をしっかり受け入れるということは苦しいことかもしれませんが、そこを最初に乗り越えなければ自分を取り巻く現実的な問題に対して何一つ有効な対処ができなくなってしまいます。自分に降りかかる問題の多くは自分の外側に原因があるのではなく、自分の内側に原因が在る場合がほとんどだと思います。現実の自分を受け入れて願望の自分像と安易な自己正当化を捨て去らなければ、自分に降りかかる困難は全て他の何か(誰か)のせいにするという重大な錯覚をまた一つ意識の中に作り出してしまうことになります。そういった錯覚で生きることの末路は、出口の見えない堂々巡りを繰り返すか、最悪は行き詰まりの人生です。
でも実際はそういった錯覚や矛盾だらけの人生を送り続けていると周囲との摩擦や軋轢をきたして、いずれは本人に改善と変化を促す流れが生じるものです。普通はそこまで絶望的な状況に陥いるずっと前に、自然な不可抗力に促されて変わらざるおえないようになって少しずつ良い方向に進んでいくものですが、加藤被告の人生は不幸にもそうはなりませんでした。加藤被告の場合、自分を受け入れることをかたくなに拒み続けるために、間違ったプライドの壁を周囲に築き自ら拒絶を強める道を選んだように思います。一方、内側の意識においては錯覚と御都合主義で練り上げた世界に住み、それがあたかも現実の正しい認識のように思い込ませることで完全な自己完結をなしたように思います。そうすることが信念を持つことで自己を確立する正しい道であるという、これもまた大きなそして危険な錯覚を意識の中に作り上げていったのだと思います。
このように加藤被告の人生の経緯を一つ一つ考えていくと、同じ時代に同じような価値観の中で育ったぼくたちの暗い一面を覗かせる鏡であるかのように感じられます。加藤被告をそうたるように作り上げた要因は、たしかにぼくたちがこれまでに生きてきた、またそれ以前から続いてきた時代の空気と価値観の中に潜んでいるのだと思います。そこを見極めていかなければ、アキバ事件の真相も加藤被告の存在の正体も、さらにはぼくたち同世代と前後の世代が抱える価値観の齟齬と人生のジレンマを解決することもできないと思います。
ぼくは、その謎を解く鍵の一つは「時間認識の欠如」であると思っています。次回はそのことについて書いていきたいと思います。
今日の夕刊の一面に加藤被告謝罪の見出しが大きく出ていました。今さらこの事件について、あれこれ書くのは正直ためらう気持ちもあるのですが、書くべきことが思いついたので記しておくことにします。この事件については多くの人がそう思っているように、忌まわしい事件であると同時に加害者についても社会的な被害者の一面があることについて複雑な心境を感じています。
今日のニュースの中で、事件の被害者の方が加藤被告から謝罪の手紙を受け取り、それについてあえて返信したことが取り上げられていました。その被害者の方は腹部を刺され、今でも神経が繋がっていないことから痛みが生涯取れない身体になり、やむなくタクシードライバーの職を辞することになるなど、一命を取り留めながらも人生に甚大な被害を被りました。それでもあえて被告とやりとりをする決断をした理由は、この事件後も類似の事件が後を絶たず、加藤被告の人生の経緯を理解しなければこの先も類似の事件を防ぐことはできないという思いからだったそうです。
ぼくは加藤被告の犯した罪ついて全く情状酌量の余地が無いと思いますが、同じ世代、同じ時代を生きて育ってきたものとして無関心ではいられないという思いもあります。加藤被告の謝罪の手紙の一節が報道されていましたが、その中に「自分は愛のある家庭というものについて全く経験が無いので、自分の犯した罪を反省しつつも、愛するかけがえのない存在を奪われる辛さについて実感を持って想像できないことが歯がゆい」と語った上でさらに「自分の存在が唯一受け入れられるネットの掲示板から完全に阻害された喪失感と同じようなものでしょうか」と結んでいました。
一瞬、自分が犯した理不尽な仕打ちについて自覚が全く欠如していることに怒りを覚えましたが、冷静に受け止めてみると、これは加藤被告の偽らざる心境であることも認められます。手紙の中でもう一つ取り上げられて気になった記述は「自分は小さな頃から”良い子”を演じ続けなければならなかった、今も”良い子”を装い続けているのかもしれない」という彼の心境が現された部分です。この”本当の自分を理解されない” ”ありのままの自分をさらけ出せない”というある種の疎外感を抱き続けてきたことについて、多くの同世代の若者から共感を覚えるという感想が聞かれます。ぼくもこの点については心情的に理解できる一面がある一方で、根本的に捉え方が間違っているという思いもあります。
というのも、いかなる人間関係においても大なり小なり”良い子”を演じ続けなければならないのは自然なことだと思うのです。人は生まれた時から名前をつけられて、その瞬間から周囲の人間から期待される”その人”になるように努めることを義務付けられる生き物です。それはよちよち歩きから言葉を話し始めて、幼稚園、学校へ通い、大人になって社会に出て働き、結婚して親になり、やがて老いて死ぬまで背負わなければならない義務の重みです。その重みを途中で放棄すると、たちまち不和を招いたり他の誰かに理不尽な負担を強いることになります、そして時にはそれが取り返しのつかない悲劇にもつながります。そもそも、世の中の人がみんな”良い子”であることをやめてしまったら平和な社会は維持されません。
そうは分かっていても、時には重荷を置いてありのままの自分を誰かに受け止めてもらいたいという思いを抱き続けるのもまた自然なことだと思います。でも現実には、ありのままの自分を無条件に受け止めてくれる人はこの世に誰一人存在しません。それは自分自身を顧みればはっきり分かることです、かつて誰かを完全に理解して受け入れたことがあったか、またそれが自分に出来るのか、おそらく不可能なことだと思います。たとえ親子であっても、親友、深く愛し合っている恋人同士や夫婦であっても、相手の存在を完全に受け止めることはできません、誰もが自分が自分であることに精一杯なのですから。
だからといって、人生は氷のように冷たい孤独の路が永遠に続くとは思いません。自分は誰からも無条件に肯定されたい、否定せされずに受け止めてくれる人が欲しい、そういった未熟な依存や甘え、またそういった欲求を少しでも満たすために絶えず他人から見返りを求め、その上で相手を支配して所有しようとするエゴ、それらをみな捨て去ることができた上で、同じようにそうする誰かと出会った時に真の他者との信頼関係が成立します。これは家族、友人、恋人、夫婦、その他どのような人間関係にも言えることだと思います。でもそのような真の人間関係を築ける場合は極稀です、一生のうちにどのような間柄であれ、たった一人とでも真の人間関係を築くことができれば、それは大きな幸福に違いありません。でもそれを実現させるために、自分の精神を向上させることは簡単なことではありません。実際には人生の様々な体験と忍耐を通して少しづつ近づいていくしか無い問題だと思います。加藤被告はその道程の厳しさに早い段階でくじけてしまったのかもしれません。
(次回に続く)
国と地方の借金を合わせて1,000兆円の大台を超えているようですね。今年は歴史的な政権交代が起こり、その後の鳩山政権による事業仕分けによってようやく税金の無駄使いに歯止めがかけられ始めました。今更言うまでもありませんが、国、地方あわせて無駄な公共事業や無数の天下り団体による予算の食いつぶしなど、はたから見ていてもとうてい納得できない有様です。当然、国民の大多数の人たちがそういったことに対して怒りを燃やしているわけですが、多分それは自分たち国民から吸い上げた血税をあんなワケの分からない事業や連中に好き放題浪費されていることに対して許しがたい思いからであると思います。
ここで少し冷静になってよく考えてみると、そういった道義的責任よりもはるかに現実的な問題があることに気付かされます。国の借金は、まず一般国民が払う税金のうち多くの割合が返済に当てられます。それは国がこれまで増やしに増やしてきた借金のツケ(国民一人当たり800万円強)を払わされること以外の何者でもありません。もちろん毎年それだけでは足りないので借金を返済するための借金を毎年重ねています。かくして借金は増える一方で減らす見通しはまったく立っていません。これらは国の借金によって国民が直接的に損を被る部分です。しかしこれ以外にも、これまで国民が気がつかないうちに大きな負担を強いられ続けています。そしてそれは今の経済状況が続く限りますます重い負担となって国民の肩にかかってきます。
借金がこれほどまでに膨れ上がってしまったわけですから、それが返済することが不可能なことが確定した時点でXデーを迎えます、つまり国家の財政破綻です。そうならないために世の中の上層部は官民上げて血眼になっているわけです。具体的には大企業にハッパをかけて業績を上げさせて、それによって景気を上向かせ何とか税収を確保しようとすることです。大企業は利益を上げるために必死になります、人件費など必要なコストを削り最大限の利益を上げようとします。得た利益はより一層の競争力強化と株価対策の配当に回され、一般社員の給与にはほとんど回されません。そういったことが大から小、上から下へ、グローバル企業から地域の地場産業に到るまで連鎖していきます。
多くの国民が非正規雇用や時間外労働などで馬車馬のように働かされている理由がここにあります。また、一方で働きたくとも働けない雇用難の理由もここにあります。天文学的な数字に膨れ上がった返す当ての無い借金の返済と国の体制を維持するために国民の労働の対価を当て続けるしかないのが現状です。こういった傾向は今に始まったことではありません、日本という国が明治の幕開けとともに近代国家を目指して走り出した時から今に到るまで本質的には変わっていません。つまりそれは、先々の発展を担保に借金をして投資をはかり、利益が得られれば次なる借金をしてさらなる発展を図るという、常にリスクと負担を背負いながら上昇し続ければならないというやり方です。それは本来小さな島国で資源も少ない日本が背伸びに背伸びを重ねて現在の経済大国の地位に上り詰めた代償であるともいえます。
戦前の投資対象は軍備の拡張と他国の領土の侵略でした。借金をして軍備を拡張し、いざ戦争となれば是が非でも勝って賠償金なり領土なりを得なければ国が立ち行かないという時代でした。それはやがて破滅的な戦争へと突き進み、あまりにも多くの人々の命と焦土の代償を払いようやく停止するまで続きました。戦後の時代は高度経済成長を通して奇跡的な復興と大発展を遂げました。軍事力による侵略という手段は捨てましたが、相変わらず先々の発展を当て込んだハイリスクな上昇戦略をとり続けた成果でした。でも、そろそろ歴史から学ばなければならないのは、本来小さな島国に過ぎない日本が無理を重ねて大国であり続けようとすれば、遅かれ早かれ行き詰る時が確実にやってくるということです。今、世の中は再び長期のデフレに突入しようとし、戦後まもなくの1946年以来の借金が税収を上回るという事態になっています。これらの事実からも、日本が長年にわたってとり続けた”成長戦略”が寿命を迎えつつあることが伺えます。
日本だけではありません、これまで世界中で主に先進国とそれを追いかける新興国も同じように先々の発展を担保に競いあうように投資を続けてきました。そうしてグローバル市場経済を確立していったわけですが、それもほころびが見え始めてそれが徐々に大きくなっています。それらにブレーキをかける地球規模の環境問題や政府の財政難と雇用難、またリーマンショックやドバイショックなどいつ起こるか分からない突発的な経済危機に対する懸念など、どこの国も同じような出口の見えない末期状態を呈してきています。それはかつての帝国主義が行き詰まり、出口を見失った時代とよく似ているように思います。
おそらく年が開けてからは、明日には何が起きているか分からないという時代に突入すると思います。そしてそれは時間の問題でもはや避けることは出来ないように思います。せめてあまりにも急激な変化を避けて、スムーズに軟着陸ができるように祈るばかりです。こういった悲観的で込み入った話をすると眉をひそめる人や、いまだに景気が良くなりさえすれば全てうまくいくと思っている人も多いと思います。特に後者については、他でもない景気が良いときに官は経済発展のためと称し大規模で無駄な公共事業を乱発し、民は大きなリスクに手を染めながら金儲けの大事業を見通しも立てないまま次々に打ち出し、それらのために官民上げて国民からいかにお金を巻き上げて、さらなる労働と負担を強いるかを画策してきたのですから、単純に景気が上向いたからといって一般庶民の生活が決して良くなったりしません。それはここ最近の時代を見ても、例えばバブル崩壊後や小泉政権下の規制緩和と”戦後最長の好景気”のあとに、はたして大多数の国民生活が良くなったかどうかを見れば分かることだと思います。
そういった現実が目の前に迫ってきていると分かっていても、大多数の人は妙に楽観的で現実感が持てないでいるように思えます。しかし、それも無理もないことだと思います。そういうぼくも、もしそういったことが現実に起きたときに何が起こるか予想しようとしても、あまり的を得た推理はできそうもありません。大切なことは、たとえ何が起きても絶望して希望を見失わないことだと思います。これも歴史から学べる真実ですが、時代の谷間を通り抜けると必ずそれ以前よりも良い時代が姿を現します。たとえ今の世界経済が立ち行かなくなって一時的に大混乱に陥っても、必ず落ち着くところに落ち着きます。その時、日本はもはや経済大国では無くなっているかもしれませんが、逆に本当の意味で豊かで成熟した国に生まれ変わるチャンスでもあると思います。これからの時代は足るを知り、今あるものを大切に活かすことが重要になります。一人一人がそういったことを実践することができれば、時代の谷間も恐れることなく乗り越えることができると思います。
PS.ちょっと内容的にフライングな感じもしますが、来たるべき年に向けてこれくらいの覚悟と気持ちの用意が出来ていればかえって良いように思います。
明日は4年ぶりの衆議院議員選挙の投票日ですね。言うまでも無く、今回の選挙は国の行く先とぼくたちの将来の生活を賭けたこれまでにないほど重要な選挙です。若者の政治離れとか無関心による投票率の低下などが言われて久しいですが、若者は是非選挙に行くべきですね。自分の一票くらいで世の中が変るわけではないし、どっちになったからといって何か得するわけでもないからメンドクサイなどと言う人も多いですが、これは長い目で見ると若者みんなが損することになります。極端な言い方ですが、政治家にとっては票を入れてくれる国民だけが重要なのであって、それ以外の国民は用がないのです。若者だけが極端に政治に参加しなくなると、必然的に政治の対象も若者以外の世代に重きを置くようになって、若者に対して本来必要なはずの政策が為されなくなるばかりでなく、若者が不利になるような状況を押し付けるような政策も実施されるようになってしまいます。若者の雇用難と派遣労働の解禁による労働環境の劣悪化が最も分かり易い例です。
これは長年にわたる若者の政治無視と選挙離れの手痛いしっぺ返しでもあるのです。政治による若者冷遇や弱者いじめをこれ以上許し続ければ、若者のみでなく国民全体が今以上に大変な目にあうのは火を見るより明らかです。そういった、これまでの悪い成り行きを反省しつつ、政治家にこれ以上、国民無視の好き勝手な行いをゆるさないためにも、できるだけ多くの人達が選挙に行って一票を投じるべきだと思います。
巷で叫ばれているように今回の選挙は政権交代が最大の争点ですが、ぼく個人の考えとしてもそれに賛成です。60年の長きにわたって一つの政党が政権の座につきているのはどう考えても健全なことではありませんし、その長年にわたる弊害の蓄積は政治と官僚の癒着やその結果の800兆円にのぼる借金など目に余るものがあります。自民党の利益誘導型のバラマキ政治はもう完全に時代遅れです、それをこの先も延々と続けていけば国家財政も国民の生活も、そう遠くないうちに破綻してしまうでしょう。
また官僚という組織が一般企業などと決定的に違う点は、競争による自然淘汰がなされないことです。役所において一つの部署や事業が役割を終えて不要になっても、廃止されることも無く存続し、自分たちの存在理由を維持するためだけに無駄な公共事業を乱発し国民の税金による予算を食い潰し続けるのです。そんな腐った組織が増殖し続けて今でもこの国を蝕み続けているわけですが、それを止めるには本来官僚よりも強い権限を持った政治家が大鉈を振るって退治するしか方法はないのです。しかし、長年官僚と蜜月関係を結んで甘い汁を吸い続けて、官僚の手下のようになってしまった自民党の政治家にそれが出来るわけがないのです。
木の良し悪しについて判断する時は、その実の良し悪しを持って判断しなさいという諺がありますが、小泉政権の構造改革の是非についても当てはまると思います。改革には痛みが伴うと言いながら断行し、実際多くの国民が今もその痛みに呻き続けている有様ですが、この改革そのものの是非以上にその後の成り行きにこそ問題の本質があるように思われます。結局、あの改革で真っ先に恩恵を受けたのが、税制優遇や規制緩和で労働コストを削減して大利益を得た大企業ですし、その結果税収が上がってこれまでどおり利益誘導型政治による公共事業乱発をやり続ける見通しがついた政治家と官僚の便宜がはかられたにすぎませんでした。おまけに大企業はそれで得た莫大な利益を新規事業や株主配当にあてて残りは内部留保にあてて溜め込み、労働者の待遇を上げるなどして社会に還元しませんでした。一方、政府は財政改善のために無駄な事業を削減するといった大義名分をかざして、真に必要な医療や社会保障を削って、その裏で高速道路や新幹線の新規建設を推し進めるなどして、完全に国民を無視した政策を強行していきました。
国民の生活を全く省みない、大企業や官僚とそれに連なる政治家にとって理想的な社会体制が出来上がったかのように思われた矢先に、あのリーマンショックが起きて全て吹き飛ばしてしまいました。小泉政権も改革を断行したのち、重鎮政治家やそれに連なる大企業や官僚の便宜を図ることだけでなく、すみやかに痛みを伴った国民生活の改善のために手立てを打ったならば、本当の意味で名政権として歴史に名を残したかもしれませんね。
いずれにしても明日の投票日を持って全ての審判が下るわけですが、たとえ民主党の政権が誕生したからといって、すぐにバラ色の未来が開けるわけでもありません。むしろ、これまで以上に問題が噴出して社会全体がより混迷の色を深めることにもなるかもしれません。これからは国民生活と、大企業や利益誘導政治と官僚などの利害が鋭く対立する時代になってきます。そういったなかでぼくたちのような多くの一般国民の利益を政治家がきちんと主張しているかどうか、一人一人が政治に関心を持って目を光らせていく必要があると思います。そのための第一歩が選挙に行って、きちんと与えられた一票を投じることだと思います。
写真は北大構内のサクシュコトニ川の水辺の光景です。木陰が日差しをさえぎり、その下で人々が思い思いに午後の一時を過ごしていました。
施療を終えてから買物までの間、久しぶりに北大の構内を散歩しました。気温は高めでしたが緑あふれる構内を心地よく風が吹きぬけて、その中をキャッチボールをしたり地べたに座って談笑している大学生を横目に見ながら歩いていると、平和そのものと言った雰囲気を満喫できました。
ついこの間に読み終わった小説が大学を舞台にしたもので、主人公がちょうど今日の光景と同じような穏やかな昼下がりのキャンパスを歩いていると、自分以外の人間がみんな幸せそうに見えて、そんな光景とは裏腹に孤独感を募らせるという描写がありました。そのことを思い出しながら今日の穏やかな北大の構内を歩いていると、たしかにその小説の主人公のような感傷的な気分がもたげてくるのも肯ける気がします。
そこで、この空間を満たす幸せな雰囲気と、そこにいる自分以外の他者がみんな幸福に満ち溢れているように感じられることについて、ちょっと文学チックな思索に耽りつつ考えてみました。たぶん、ぼくを含めてこの空間にいる人たちのうちどの一人をとっても、何の悩みも憂いも無いような純粋な幸福の中にある人はほとんどいないでしょう。それどころか人知れず深刻な悩みや苦しみを抱えている人もいるかもしれません、そうでなくても日々や先々のことがらに追われてとても穏やかとは言えない日常を送っている人も多いと思います。
それにもかかわらず、こういった公園のような人々が憩う空間で幸福感に満ち溢れた雰囲気が醸し出されるのはよくある光景で、公園でなくともある種の空間にはそういった雰囲気が見出されるものです。この実体のないままに醸し出され感じ取れる雰囲気と、個々の人たちのありのままの実態との間にある距離と違和感は何なのでしょうか?それを解く鍵として、最初に思いついたのが一人一人の人生における本来的な幸福の小ささです。
ぼくは自分自身の人生や他の人たちの人生について考えてみると、一人一人が得られる幸せは実に小さくささやかなものであるということに気が付かされました。そして、今ここでぼくがはっきりと思うことは、人が現実に手に入れられる幸福は常に今ある小さな幸福であり、先々の期待の中にあるような大きな幸福ではないということです。
誤解なきように補足しますが、別に将来に大きな幸福を求めることがいけないと言う意味ではありません、むしろその中にこそ希望や向上心を見出すことができるわけですから、その意味では大事なことです。それでも小さな幸福にこだわるのは、たとえ人並みならぬ努力の末に人生の偉業を成し遂げて大きな幸福を具現化できたとしても、またそれに及ばずとも世間一般における人並みの幸福を何一つも欠くことなく手に入れることが出来た場合でも、最後にはごく小さな幸福に帰ってその中で本当の満足が得られるものだと思うからです。そしてまた、人は大なり小なりこの大小二つの幸福の間を往ったり来たりするものだと思います。
小さな幸福というのは、例えば衣食住に事欠かないことであったり、病気をしないことであったり、家族や友人、恋人など愛する人が健やかであれることなど、あるいはもっとささやかに、今日のような穏やかな光景に出会ったとき素直に心地よさを感じられることだったりするのではないでしょうか。そういう一見あたりまえの幸せが続くことがいかにあたりまえではないか、悲しいことにそれらが途絶えてしまってから初めてその”小さな幸せの大きさ”に気が付くものなのかもしれません。
でもそういった小さな幸せが途絶えてしまうことが避けられないことが、どんな人の人生にも起こりうるものです。そんな辛い現実に直面した時、大小の幸福の灯火はあっけなく消えうせてしまうかもしれません。それでも、たとえどんなに絶望や虚無が迫ってきても、今ある現実を耐え忍び、希望につなげて明日を信じて生きてゆけるような境地を得られることが究極の意味での幸福なのではないか、そんな風に考えることもあります。
こんなことをとりとめもなく思い描きながら、大学内を歩き、立ち止まり、カメラを構えたりして、大学を出て家電量販店で買物をし、電車に乗ってもなお漠然と考えながら家まで帰りました。そしてこのブログを書きながら、ゆっくりと結論をまとめてみることにしました。
今日のような穏やかな空間に立ち込める雰囲気は、そこにもとからある自然の普遍的な心地よさと、そこに憩う人たちの様々なレベルの幸福感を足しあわせて反映したような、それを大きな一つの塊として感じとることによって生じるものではないかと結論づけました。若い時はその”幸福感の塊”に惑わされて、多大な幸福がすぐにでも我が物になるのが当然のように錯覚したり、そこから見えない幸福を追いかけて駆けずり回り、疲れて、虚無に陥り、他人をねたみ、いらぬ憎しみや嫌悪を抱いてしまうようなこともよくあることだと思います。
自分自身の欲望の反映と、その迷いから離れて足元の幸せに目が行くようになったとき、そしてその小さな幸せを守り抜こうと心に決めた時、人は大人になるのだと思います。つい先ごろまで読んでいたあの青春小説もそんなことを語りかけていたのだと思います。
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発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」