北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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前回の記事の続きですが、現実の人間関係について、もう少し深く考えてみようと思います。前回の記事に、人は周囲から期待される”その人”であり続けるように努める義務を背負うと書きましたが、これを言い換えると人は対象とする人や物事との関係によって、その時の自分の在り方があらかじめ決められてしまう存在だとも言えます。例えば親の前では良い子かどうかは別として、親から見た子でなければなりませんし、友達から見た友人として、恋人から見た彼氏、彼女として、学校及び先生から見た生徒として、会社から見た社員として、などなど、対象とするものと自分との関係をいくつも演じ分けなければなりません。英語で個人を意味する”Personal”はもともとギリシャ語のペルソナが語源で、その和訳は”仮面”だそうです。なるほど~と頷かされる話ですが、まさしく人間関係は仮面を介した個人同士のつながりであることがわかります。
加藤被告に限らず、誰しもが他者から自分の存在を認めて欲しいと願っていると思います。先に述べた通り、どんなに自分が理解されることを求めてみても、相手が求める関係性のごく狭い範囲でしか自分を表現する機会はありません。また、その中で期待に応えるために一生懸命に努めても見返りとして受け入れられる部分はごくわずかだと思います。加藤被告はそのことを理解できなかったのではないかと思います。被告は自分が即座に他者や社会から許容されることを夢見る一方で、現実には拒絶される経験ばかりが圧倒的に多かったのではないかと思います。その反面、自分以外の人たちが人間関係や社会において順調に立場や関係を創り上げていく様子を目の当たりにして、それがあたかも自分以外の人たち全てが何の障壁もなくそれらを築き、全面的に自分の存在を受け入れられていると錯覚したのではないかと思います。
その錯覚と自分を取り巻く現実の落差が、被告の社会や他者に対する憎悪をさらに増すことになったのは想像に難くありません。このことに限らず、被告の価値観の中にはそういった錯覚につぐ錯覚で現実が完全に見えなくなっていたのだと思います。ここに加藤被告の存在が無視できない最大の理由があるように思います。被告のように自ら生み出した錯覚によって完全に思考が支配されているような場合はそう無いことだと思いますが、そういった錯覚を生み出す要因やその一部分については、今を生きる普通の人たちの中に当たり前に存在していることだと思います。
加藤被告の認識において、錯覚の他にもう一つ重大な問題があります。それは、自分の本当の姿を受け入れる勇気と術を両方とも持ち合わせていなかったことです。自分が欠点だらけの不十分な人間だという現実を受け入れることができなければ、それはすぐに強烈なコンプレックスに変わります。どんな人にとっても、等身大の自分をしっかり受け入れるということは苦しいことかもしれませんが、そこを最初に乗り越えなければ自分を取り巻く現実的な問題に対して何一つ有効な対処ができなくなってしまいます。自分に降りかかる問題の多くは自分の外側に原因があるのではなく、自分の内側に原因が在る場合がほとんどだと思います。現実の自分を受け入れて願望の自分像と安易な自己正当化を捨て去らなければ、自分に降りかかる困難は全て他の何か(誰か)のせいにするという重大な錯覚をまた一つ意識の中に作り出してしまうことになります。そういった錯覚で生きることの末路は、出口の見えない堂々巡りを繰り返すか、最悪は行き詰まりの人生です。
でも実際はそういった錯覚や矛盾だらけの人生を送り続けていると周囲との摩擦や軋轢をきたして、いずれは本人に改善と変化を促す流れが生じるものです。普通はそこまで絶望的な状況に陥いるずっと前に、自然な不可抗力に促されて変わらざるおえないようになって少しずつ良い方向に進んでいくものですが、加藤被告の人生は不幸にもそうはなりませんでした。加藤被告の場合、自分を受け入れることをかたくなに拒み続けるために、間違ったプライドの壁を周囲に築き自ら拒絶を強める道を選んだように思います。一方、内側の意識においては錯覚と御都合主義で練り上げた世界に住み、それがあたかも現実の正しい認識のように思い込ませることで完全な自己完結をなしたように思います。そうすることが信念を持つことで自己を確立する正しい道であるという、これもまた大きなそして危険な錯覚を意識の中に作り上げていったのだと思います。
このように加藤被告の人生の経緯を一つ一つ考えていくと、同じ時代に同じような価値観の中で育ったぼくたちの暗い一面を覗かせる鏡であるかのように感じられます。加藤被告をそうたるように作り上げた要因は、たしかにぼくたちがこれまでに生きてきた、またそれ以前から続いてきた時代の空気と価値観の中に潜んでいるのだと思います。そこを見極めていかなければ、アキバ事件の真相も加藤被告の存在の正体も、さらにはぼくたち同世代と前後の世代が抱える価値観の齟齬と人生のジレンマを解決することもできないと思います。
ぼくは、その謎を解く鍵の一つは「時間認識の欠如」であると思っています。次回はそのことについて書いていきたいと思います。
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鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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