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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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人間は大雑把に二種類に分かれるそうです。


自分の心の中で思うことに責任を持とうとする人とそうでない人です。


本当は人間を区別することはいいことでありません。またそれを理由に裁いたりするべきでもありません。


でも現実社会では、こういった見えない領域の問題でストレスを感じている人は多いものです。場合によっては不幸な結果をもたらしかねない人間関係が見落とされていることもあります。


意識が進んだ人や本物の信仰心を持っているような人はほとんど気づいていることですが、人間にとって本当に大事なことは表面的に整った体裁や他人からの評価ではなく、むしろ他人からは一切見られない自分の心の内面のあり方だということです。


こういった意識を持って生きるということは、自分自身に大変厳しい自己評価基準を課すということです。


人間はそういうことが分かったからといっていきなり清い心になれるはずもなく、庭に例えると絶えず茂る雑草を日々狩り続けるとか、またレンズで例えると気づかぬうちにカビが生えて悲鳴を上げながらアルコールで拭きまくるなど、日々自己の内面と葛藤するという修行状態になります。


なんだかんだ言っても、やっぱり人からよく思われたいという欲はありますし、自分の何かが評価されて注目を集めると気持ちがいいものです。


そういったところまで厳しくジャッジしてしまうとヘタをすると自己嫌悪に陥ります。


それも度を越すと知らぬ間に歪んだ意識を他者に転嫁してブツけているということにもなりかねません。


ようはバランスが大事ということなのですが、ここでも大事なことはやはり心の内面を中心にとるか表面の行いと他者の評価を基準にとるかという選択です。


後者の基準で生きる最も大きな間違いは、自分の心のなかで思うことが他者には何ら関係はなく、また見られて知られることもないし、ゆえに恥ずかしくもなく損することもなく、逆にいくら心でいいことを考えたり思ったりしても何の得をすることもないという意識に陥ることです。


さらに他人と比較することで自分はそれほど悪くない、もっと悪くて醜い人はいくらでもいるとか、人間なんて化けの皮を剥げばみんな自分と一緒みたいな逃げ口実や正当化をはかったりします。


でもこれは本当は損なことなんです。


昔からの哲学にすべての現実は人間の思いによって創られる、ゆえに人間の思い次第で現実を良くも悪くもできるという考え方があります。


これによればよりよい心の状態を保てば自然に良い状況が自分に訪れます。


反対に心のなかを雑草ボーボー状態の荒地にしているとそっくり同じような状況が自分に訪れます。


つまり運気も自分の思い次第で創り出せるかもしれないということです。


そして現実社会の中では稀ですがそういった厳しい意識で自分を律している人たちがいます。


そういった人たちはまずオーラが違いますし、有名無名、外からの評価の高低も関係ありません。


そしてもうひとつ現実社会の中で見落とされがちな偉人たちが存在します。


それは自分の心にとことん正直なありのままの自分をさらけ出しながら生きている人たちです。


自分の心をありのままにさらけ出すということは、美しさ以上に醜さがまさる人間の本性を表に出すということですから人から好かれたり高い評価を得られないことのほうが多いものです。


そういった人たちの中でも一握りですが、そのことを恨まず憎まず他人に転嫁せず、ただ受け入れて生きている人たちがいます。


こういう人のことを昔の例えで隅の親石といい、これにつまずく(ないがしろにする)ことは神様からバチが当たりやすいと言われてきました。


元来、人はみな他人との人間関係を円滑に運んで高評価を得られる能力に恵まれているわけではありません。


人はみな自分が持って生まれた力量と条件の中でベストを尽くす他なく、たとえ乏しい中でも活かし切ることが修行であり人生の目標となっている人たちが沢山います。


そういった生き方をとおして自分の内面の乏しさを満たし醜さや未熟さを昇華していくことが人生です。


だからどんな人も馬鹿にしてはいけませんしそれが心にかなったことです。


それに反して、自分の心と向き合わず他人の評価と整った外面ばかりを求める生き方は人の意識からそういったことを簡単に忘れさせます。そして自分の醜さも他人のそれで埋め合わせをしたり自己正当化をはかることで帳尻が合わせられると勘違いします。


でも人間は自分の心だけには嘘はつけません。


すべては自分の心が覚えていますし、そこから逃れることは出来ないものなのです。


結局はそういった自分の嫌悪から逃れるために意識をそらすばかりにエネルギーを使い、知らない間に刹那的な人生を歩むことになってしまいます。


心をないがしろにして生きると最終的にその人自身が一番不幸で損をするようにできているのです。


聖書の物語の中でイエスはこういった人たちを表面は白壁のごとく美しいが中身はガイコツと言って激しく非難するとともに嘆き悲しみました。


結局、イエスはそういった人たちに十字架にかけられて、不本意ながら身を持ってそういった人たちの過ちを示すことになったわけです。


どんな聖人や救世主でも他の人の心を変える力を持っているわけではありません。


自分の心を変えることができるのも、その結果に責任を持てるのも自分自身しかいないということです。


真の自由とはそういったことを意味します。



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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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