北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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まぁ、誰も気にしていないでしょうが、一応のカッコ書きとして、、、
当ブログにていつも勝手気ままな独り言を書きなぐっていますが、文字通り「独り言」カテゴリーでは自分自身の考えに基づいた内容をかいてあります。
一方で「創作メモ」のカテゴリー内で書いてあることは、小説他、創作物の中で使用するためのアイディアの断片や考えの整理が中心で、一連の手記風の記事も、ある登場人物の価値観を想定して視点を変えて考えたことなどが中心で、たとえ大本のアイディアが自分のものであったとしても相当ゴネ繰り回した代物になっています。
まだ肝心要のものが出来上がっていないので心苦しいのですが、小説自体はそれらとは打って変わって大変さっぱりした文体の内容になっています。
これから自分が書こうとする小説はすべて基本的に単純明快であればあるほど良いと思っていますし、大事な伝えたいメッセージの部分については中学生でもしっくり来るものにしたいと思っています。
伝えたい核心のおおよその答えは判っているのですが、それをどう上手くまとめて伝えるのかという技術面で大変苦心しております(・・;)
おりしも、人々の価値観がゆっくりと変化する方向へ動き出しているタイミングなので、こういった流れに乗りながら柔軟に対応していくことも難易度の上昇に拍車をかけています。
そんな中で、執筆作業に入ってからはあえて他人様の作品は読まないように心がけていたのですが、いま、その誓いを破って一冊のマイナー小説を読んでいます。
「聖なる預言」という知る人ぞ知るスピ系舶来小説なのですが、これがどうしてこうして中々もってスゴイ小説で、これからの人間性の意識変革を読み解く上で革新的な見解をいくつも記しています。
肝心の小説自体のレベルは可もなく不可もなく、ハッキリ言えばやや地味なくらいの冒険SF風小説なのですが、その語られる言葉の値打ちが分かってしまった以上、けっしておざなりにして通り過ぎることの出来ない小説だと思っています。
というわけで、またボチボチ創作と読書の地味ぃ~な並行作業に戻ります。
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※以下、ある人物像の背景としての考察。
人生の目標は二重構造になっている。
一つは表面的なもので、常識的および社会的認識に適ったものだ。
もう一つは、その表面的な目標の影に隠れた、ごく個人的かつ内面的な意識によるもので普通は漠然としている。
もう少しわかりやすく言い換えれば、表面的な目標、それも一生をかけるような大きなテーマとは限らず、日常の生活の中でごくありふれた、繰り返される些細な行動目標や欲求の対象に至るまで、そういった大小の目的意識を伴うすべての対象に向けて当てられる充足感の感情的なモノサシと言うこともできる。
内面的な人生とは、表面的な社会的目標の影に隠れた小さな欲求として芽生え始めるものかもしれない。
意識して取り組む大小の目標物に対して、無意識の感情は常に自分にとっての充足感の如何によってジャッジしているとも観察されるが、はじめはそういった影の欲求意識というごく小さな存在として意識に締める程度にすぎないが、一定の時間とその中での大小様々な経験を経ることで欲求判断が一巡すると、心の充足を求めることが徐々に難しくなっていく。
心の充足の基準に従い、様々な経験や対象を追い求めても、そのスパイラルを一巡、二巡、と繰り返していく内に欲求は肥大化し、かつ現実の物理的限界による制限を増すことで相対的に充足感は減じていく。
普通、個人の人生の可能性は有限であるから、この欲求の肥大化に反比例して減じていく充足感の著しい減少を誰しもが受け止めなければならなくなる。
この時、一つの選択の可能性が生じて、その飢餓感を誤魔化す方を選択せずに、その欲求の根底にあるモノの正体と向きあおうとするならば、先に記した表面的人生の目標と、ある漠然とした内面的人生目標の逆転というチャンスが訪れる。
漠然とした自己充足欲求に過ぎなかった内面の意識が俄に明確な意味を求め始めるのである。
その時、人は始めて内面の人生を生き始めるスタートラインに立ったと言える。
自己の内面の感情的欲求に過ぎなかった幼い意識に、明晰な知恵と意味を与えることによって、本当の自分という存在を確認することが始めて可能となり、それは単に欲求に従っていた古い自分との緩やかな決別であり、新しい自分自身の創造と発見でもある。
ここまでたどり着かなければ人はついに自分自身すら知らないままで終わることもある。
何らかの理由で社会的人生に行き詰まりを感じている時が転換の合図かもしれない。
なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、今がちょうど時代の転換点で、これまでの常識的価値観による社会性が、それにしたがって生きる多くの人たちに対して人生の明確な目標と到達点を提示できる力を失いつつあるからだ。
しかし、本当は社会の情勢と内面的人生観は一切関係ないのだ。
なぜなら、たとえ社会が順調な良い時代にあったとしても、その時代の中で先を進むような、あらゆる分野において多くの人たちの目標となる結果を生み出してきたような人たちの多くは、その過程において外なる世界の放浪を経て内なる世界の構築に気が付きその中から自分自身の進むべき道を見出してきたからだ。
その過程はおそらくこれからも変わらず有効だろう。
ただ一つ、これからの時代に困難になりつつある問題は、表面的な社会性と内面的な充実を図る生き方の調和が難しくなるということだ。
もしその両立が困難な状況になった時、両者の選択および一種の乗り換えが必要になる。
それはひとりひとりの自由意志による選択に任されている。
一般に、内面的人生を優先して生きるということは純粋にオリジナルな生き方をするということであり、周囲や社会からの理解と承認を無条件で受けられるわけではなく、また他者の人生や外の世界に完全な解答を期待しても得られることはなく、文字通り全くの手探り状態から自分自身の意志と力で築き(気づき)あげていくほか道はない。
それでも、自分の生き方を貫きながらもそれが他者に貢献できる要素が本質の中にあれば、周囲の理解と承認を得ることと社会性を同時に獲得する努力は無駄にはならない。
ある人にとって社会性が提示する人生の目標が頭打ちで限界を感じさせるものでしかないならば、勇気と準備を備えた人から、内面的充足を超えた生き方を求めるコースへ順次乗り換えて行かざる負えなくなるのは自然の流れといえる。(時代の転換点においてはそれが半ば強制的に起きる場合もある)
内面的人生の探求といっても決して大げさなものではない。
最も簡潔に言い換えれば、外の世界(社会)から獲得することを基準とした人生から、内面のビジョンを基にした創造的(生産的)人生への転換である。
現在の社会の行き詰まりの根本要因は、社会の中で生み出される”真の意味で”生産的な価値よりも獲得競争(奪い合い)のほうが著しく優ってしまっているアンバランスにある。
その時代のアンバランスを是正するためには全体の変革によってではなく、個々人の意識の転換と進化によってのみ実現されるだろう。
その個々人による意識の転換をはかるためには先に上げた”逆転の過程”を経る必要があるのだ。
その秘めた意味と価値を体験して認めることができた時、それまでのすべてが決して無駄ではなかったと思えることも付記しておく。
また、一旦内面の人生に舵を切った者に対しては、ある不思議としか言いようのない導きを感じることも多々経験するということも言われている。
それは本当の意味で失われることのない希望が存在する道を選択できた時に生じる普遍的な充足感からもたらされるものだろうと推察される。
以上は目新しい主張ではなく古くから言われてきた事の簡単な焼き直しである。
時代の性質は何度でも繰り返されることの顕れにすぎない。
10月10日の今日を記念して、駄文終了。
部屋から見える西日は今日も強烈な輝きを放っております(^_^;)
もうほとんど語る気も失せているのですが、明らかに何かが変わりつつあるようですね。
でも、そこに恐れや不安を感じる必要はないと思っています。
すべては起こるべくして起きているのでしょうし、アタリマエのことに過ぎないと思うからです。
すべての人にとって強固だと思われた現実が実はそれほどのものではなかった気がしてきます。
強固な現実がただひとつ確かに存在しているようで、実はそのひとつの現実を一つの存在として捉えているのはひとりひとりの人間の意識にすぎないわけで、ゆえに強固な現実そのものを本当の意味で知る人は未だ一人もいないような気がします。
言葉足らずの舌っ足らずですが、これから起きる大きな変化のエッセンスの核心はそんなところだと思います。
意識は広い世界を体験していますが、それをしているのはちっぽけと思われがちな自分の意識であって、それは生きている人の誰にとっても同じであり、誰にとっても等しい現実です。
つまり、一人の人間の意識よりも大きなものも小さなものも実は本当の現実には存在し得ないのです。
それが存在し得たとしても、ひとりひとりの意識のキャパ以上のものは、自分の中であれ他人の中であれ存在し得ないことは、よ~く考えてみると明白なものでありオカルトでも妄想でもありません。
一人の人間の意識のキャパを測り升として現実を捉え直してみると、自分にとっても他者にとっても明確な実像を得ることができます。
一人の人間の意識は常に拡大しながら収束していきます。
これは特別なことではなくアタリマエのことですね。
実は自分も他人も各々の意識の収束した世界の住人だったのです。
これは簡単な例えのようでありのままの現実です。
だから、ひとりひとりの人間にとって自分の意識=心の在り様ほど大切なものはないのです。
同様に、他人の意識の中の自分はその人の持ち物であり自分では自由にすることはできません。
他人の中の自分をどんなに大切にしようとしても徒労に終わります。
相手に対して良き自分であろうとした意識だけが自分にとっての現実です。
自分の意識がどう在るのか、たとえまったく他者を目の前にしない、完全に心の内にある時間であっても、自分の心のあり方を決められるのは自分自身において他にありません。
このことの意味がストンと腑に落ちる人は幸いです。
これがわからない人は常に他者と外側の世界と戦わなければならないと思い込んでいる人です。
この言葉に対してさえ戦わずにはいられないでしょう。
戦う人の心の中には常に戦いの世界があり、その人は常にその世界の住人で在り続けるのです。
繰り返しになりますが、その人の世界はその人だけのものであり、それは自分自身にとっても同様です。
だからそっとしておきましょう、そして自分の心の世界は静寂であるほうが良いです。
今、これまで多くの人々から長年にわたってカタイと信じられてきたある構造が壊れようとしています。
硬い物はいずれ壊れる運命にあります。
柔らかく形がないけれどシャープな輝きを放つ今日の西日が教えてくれたことです。
仮に「N」としている長編三部作ですが、これをきちんと完結させるにはどう考えても、あと3年はかかりそうなので、それとは別に用意してあった中短編小説から仕上げることにしました。
自分にとって一番大切な作品である「N」がお蔵入りしたわけではありませんが、途中で挫折して終わらないように、また時間を浪費せず結果を出すことを最優先に取り組んでいこうと思います。
PS.)
長編「N」はある特殊な分野を題材にしており、正直な所、その分野に対して勉強不足な点は否めず、もっと時間をかけて認識を深めてから本格的に書いていこうと思います。それまでの間、今の自分でも無理なく書ける作品をコンスタントに仕上げながら「N」のアイディアを貯め続けようと思います。
夏バテと歯痛もようやく収まりつつある今日この頃。
今月から歯科口腔外科で根の治療を始めていたのですが功を奏してきたようです。
季節はずれの真夏日もどうやら昨日までのようで体調も回復しつつあります。
正直、夏バテと歯痛のダブルパンチは身に応えました・・・(_ _;)
その間、小説の執筆は止まっていて、何とか導入部だけを書き終えたところでしたが、次に本編の内容へ書き進めるために色々と試行錯誤を続けていました。
色々と考えあぐねた結果、自分の小説の書くべきスタンスを決めることが出来ました。
今、書いている小説は長編三部の群像小説で、正直、若葉マークの作家モドキが手がけるには無謀すぎるほどの文量とスキルが要求されますが、これを乗り越えなければ本物の作家にはなれないという気負いとともに始めてしまいました(^_^;)
本筋のストーリーとシナリオは殆ど完成しているので大筋は決まっていますが、どういったスタンスで書き進めていくのかという点では手探り状態が続いています。
当初は、現実の人生がシームレスな連続した時間であることから、とくに区切りを設けずに流れで書いていこうと思いましたが、これには連続してコンスタントに途切れることなく書き続ける体力と集中力が求められるので、半病人の虚弱体質でいつバタンキューするかわからない自分には向かないと、早々に軌道転換することにしました。
複数人物が準主人公格の群像劇なので、かねてから主筋の流れとは別個に小話を挿入する気でいましたが、それを一歩進めて、物語の中により小さな物語のコンテナを作り、それを立体的に積み上げていくことでストーリー全体を構成することを思いつきました。
さらに、主人公の心情と行跡をダイナミックに表現する主筋に拘ることは諦めて、この小さな物語のコンテナを積み重ねることに徹することにしました。
こうすることで実際の執筆作業が小さな物語を書ききる単位で完結できるので、今回のように執筆期間に間が開いてもリカバリーしやすく、小分けの執筆作業で済むので体力がないものにもやさしいスタンスです。
とはいえ、小分けで完結する物語=短編小説なので、これをしっかり書き上げられる能力が必要です。
ぼくはこのあたりの発想力が乏しく正直なところ苦手分野です。
でも、ここをしっかり抑えなければ短編であれ長編であれ旨い小説は書けないので頑張ります。
短編の神様と呼ばれるような作家の作品から盗むのがぼくのような素人にとっては近道なのでしょうが、あえて天の邪鬼になって自己流の確立にこだわりたいと思います。
その結果が目に見えた凡作以下の出来になったとしても、この自分なりの起承転結の形がそのまま自分の作家としての作風となると思うのでやってみようと思います。
そのためには、まだしばらくの思考作業が必要なので気長にやっていこうと思います。
パソコンデスクの横の窓から鈴虫の鳴き声が聞こえてきます。
寝ている時も鳴き続けていますが何とも良い音色ですね。
相変わらず夏バテ気味で元気がありませんが、鈴虫の歌声に癒されながら養生しています。
そんな停滞期でも思考は止めずに毎日あれやこれやと思いを巡らしているのですが、なかなかコレといった答えが見つからず悶々としています。
今、現実で起きている変化に自分の想像力と認識力が追いついていません。
無理に行き急いでも仕方がないので、できることをこなしながら待ちの姿勢でじっくり構えて行こうと思います。
一言で変化といっても、現実社会の変化、経済情勢の変化、自然環境の急変、それらの変化から予測される事態の推移、その結果起こるであろう人々の価値観と人生観の大きな転換、そして自分が小説に書くべき題材の焦点を定められること、ざっとここまでが常識の範疇として捉えられる変化の領域だと思います。
それらに加えて若干常識領域から離れた名目として、スピリチュアルな領域による変化について、ネット上で様々に語られる可能性について、どうしても目が離せません。
物によってはまったく荒唐無稽、あるいは空想の産物としてしか常識では認識できない物事について語られていますが、よく読んで調べてみると、現実社金との一定の整合性と倫理的な必然性を兼ね備えていることが分かります。
その中で個人的に最も重要だと感じられることは後者の倫理的な必然性です。
現在の人間社会の状況と価値観は共に行き詰まりつつあると思います。
現状の延長線には社会の健全な発展も、その中で暮らす一人ひとりの個人の成長進歩も殆ど望めなくなっていると思われて仕方ありません。
そういった閉塞状況を打破するためには、相当な規模のブレイクスルーと、新たに現状よりもはるかに高度な文化的な倫理観と人間性を兼ね備えた文明社会の雛形と、人々をそこへ向かわせる未知なる魅力的な領域の存在が必要になってくると思われます。
ところが現状の世界には、そういった絶対的に進んだ文明社会を持った国や地域、あるいは文化領域はまったく見られません。
それどころか陳腐化した社会制度とインフラ構造、停滞と焼き直しの繰り返しに陥っている文化とその結果による退廃的な人間性しか残されていないように思えます。
そういう必要性から鑑みると、主にスピリチュアル領域から始まった変革と未知なる価値観による啓蒙と予告は俄に重要な意味を持ち始めているように思えます。
それらがいかに突飛な予測と言えども、いかに常識的価値観を持ってしても、その可能性の全てまで消し去ることはできません。
たとえ半信半疑でも、そういったメッセージの数々に触れながら自らの狭い意識の壁を超えて少しづつ心の目を広げていくことに務めるべき時が来たと思います。
目にしたメッセージの中で語られていた中で取り分けて心に残ったことは、現状の人々の価値観の視野の狭さについて、その根本にある要因がいくつか端的に語られていたことです。
そこには、人間は自らが見たいと望む現実だけを認識することに長けていて、その見たいと望んだ出来事や分野だけをつなぎ合わせて自分固有の世界観を作り上げる才能があり、それを平均的現実感と重ね合わせることで自らの価値観を世界そのものと同化して見る傾向があり、それゆえに錯覚から逃れられない宿命があるというような意味が記されていました。
また、もっとシンプルな要因として、人間の文化と価値観には長年に渡る生存競争によって培われた生き残り願望が根強く、ゆえに競争意識の枠の中でしか思考できない傾向があり、これによって自分と異なる他者との区別、対立が著しく生じやすい精神ならびに文化構造を脱し切れないと指摘されていました。
これらの指摘はまさに的を得たもので、これからの人間性と文化の進化向上にとって真っ先に解決しなければならない課題のように思われます。
なぜなら、これらの指摘された性質を理解して克服することができたなら、人種や文化の違い、個々人や国家間の利害と価値観の違いから生じる対立構造を解消できる方向に進むことができると思われるからです。
少々理屈ぽっくなりましたが、これらは僕個人としても小説の題材の中で表現して昇華したい題目です。
今日は久々の更新になりましたが、秋の夜長に鈴虫の音色を聞きながら駄文を並べてみました。
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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