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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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最近、人は夢を見ていないと生きていけないのではないかと、しきりに感じるようになりました。


特段、意味深なことを言うつもりはありませんが、本当は、人は現実よりも、その現実から生じた種々雑多な夢の中から、自分が見たいものを随時選びながら日々を過ごしていることのほうが多い気がしてきました。


その数々の夢の集合がこの社会であって、その経過の蓄積が歴史となって折り重なりながら今に至ると言えるかもしれません。


なので、いつの時も人々は、今この時を、ありのままに認識していると言うよりは、そこから派生した夢の断片、言い換えれば未来に続いていきそうなビジョンのベクトル、もっと単純に願望と欲求の矛先の具体的なもの、などを夢見ながら生きている、そんな解釈が成り立つような気がします。


ですが、夢は一方で、夢のままで終わらせずに現実化しょうという飽くなき欲求と挑戦を伴うなうのならば、より苛烈で残酷な一面を見ることにもなります。


夢を現実のものとするためには、物理的にも、精神的にも、あるいは先天的な要因や環境面など、たんに努力するだけではどうにもならない諸条件を含めて、不条理なほど不確定要素に左右される、高いハードルをいくつも超えて、その上でさえも成し得ないことがほとんどです。


だから人は一人だけで夢を見るのではなく、集団で一つの方向性を持ったビジョンを夢見るようになりました。


そのほうが確実に、かつ大きなスケールの夢を実現させることが可能になるからです。


しかし、そこには甘い誘惑にも似た、個人の資質を無視した、そこに参加するすべての人が報われるかのような、巧妙な嘘が潜んでいます。


人々が集団で、壮大なスケールの夢を見続けていようとも、その夢が叶い報われるための、高く不可解なハードルの数々は、依然として有効であることを忘れてはいけません。


そこに残酷な落とし穴があるとします、しかし、大方の人々は、その落とし穴にはまってしまうことを、心の奥底から恐れ、忌み嫌っていても、その集団が見る夢の船から一人降りてしまうことのほうが、なぜか、より恐れているものです。


その集団が見る、ある一時の夢のなかで生まれ、育った僕には、その夢の船が一体どこから来て、どこへ向かっていて、またいつ去っていくのか、知ることはかないませんが、おそらく、また次の船がやって来る頃には、その船の住人にとっては明らかなことになっているように、僕らにとって、かつて在った夢の船の存在のうちの幾つかについては、同じように明らかにできるという確信があります。


夢を見ることの残酷さについて、もう少しだけ。


今、夢を見続けることに疲れ始めている人が多い、ような気がします。


正確には、夢を現実化する際の方法論についての迷いに疲れた、もしくは、その夢のもたらす結果について、途中で信じられなくなった、夢を見る自分に気づくこともなく鏡の中にいる自分に、ただ何となく疲れた表情を見ることもある。


注意すべきことは、夢をみることでもたらされる残酷さは、決して遠くから来るのではなく、いつも、自分の最も身近な五感の中から現れ、集団で見る夢の中で孤立する自分に気付かされることです。


でも慌てることも、それで気落ちする必要もありません。


いわば青い鳥です。


見ているものは全て青い鳥に過ぎなかったと、先人が教えてくれています。


自分の心が見続けているものの質と、それを見続けている自分の心が確かなら、問題はおそらく、ほとんど消えて無くなるでしょう。


クオリティ・オブ・ライフ


わが人生の品質を決める基準はいかに?


ISO9002とかではなさそうですね。


今日はちょっと、フワフワした文章を書いてみました。



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CA3J0224.JPG 
一年に一度の節目の日が今年もきました。

これといって祝うことも無いのですが、やはり31度目の節目ということで多少の感慨はあります。

ということで今日を記念してテキトーにとった路地の空です。






現時点での心境としては、年齢そのものを意識するよりも、いま取り組んでいる小説執筆がきちんと完了して一区切りつくことのほうが頭の中の大部分を占めています。


思い返せば去年の今頃は執筆活動を始める直前で、構想を練りに練って入念に仕上げているような状況でした。


それまでにもう数え切れないほど思索を繰り返して、そこから生まれたアイディアの断片をまとめて数作品分の着想を得ましたが、どんなに沢山の良い作品のベースが生まれようとも構想はあくまで構想に過ぎず、形として存在するものは何一つありませんでした。


それがこの一年の間に思い切って書き始めることが出来た上に、それが長い作品の冒頭部分に過ぎないと言えども、きちんと形になったということは僕にとっては決して小さくない一歩でした。


途中、これまでに経験したことのないような体調不良に見舞われましたが、何とかやり過ごしながら執筆活動を続けられています。


今のところ体調は7割型回復していて、まだ無理はできませんが、冒頭に続く本編の執筆に取り掛かるための準備を進めています。


理想としては、長編第一作の「N」を出来るだけ早く仕上げてしまいたいのですが、この「N」は非常に手の込んだ独特のテーマと構成になっておりまして、自分自身でも手に負いかねるような難所が次から次へと湧いてくるようなシロモノです。


とはいえ、出来上がるとごくフツーの青春群像物語になっているはずなので、そんなに奇をてらったような作品ではありません。


でも、そのごくフツーの物語の中に、骨太な要素をしっかり折りたたんであるので、それらを余すこと無く表現するために、ほとんど全てのシーンを手を抜くこと無く仕上げる必要があります。


とにもかくにも、今日、明日と続くだろう一日一日を大切にしながら、その日できることを精一杯やるだけです。


それと今日やったことと言えば、家の冬囲いをやっと完全に取り外すことができました。


ここ一週間、5月というのが信じられないほどの低温が続いていましたから撤去が遅れに遅れていました。


例年なら半月以上前に終わっている作業ですが、連休明けになってようやく片が付き、ホッと胸をなでおろしています。


今日は本当に久々の青空がのぞき清々しい一日でした。






立て続けに記事を書いています。


ところで”SFB”ってなんですかね、勝手に作った造語なんですけど、、


セルフ・フィード・バック、略して”SFB”


くだらないだけで何の意味もございません(;´∀`)


さっき書いた記事を読み返して急に思いついたことを忘れないようにメモしておこうと思います。


次に書くシーンの構想において、主人公が三人の全く異なった個性の人物と立て続けに出会い会話することの意味について、


例えば、自分にしても他の誰かにしても、その人自身の内面を自分で本当に確認したいと思ったら、それを自分一人だけで試みようとしても、たいていは堂々めぐりするだけでかえってモヤモヤが増えるばかりで、だからそういった場合は、よく話が聞ける誰かに相手してもらって、その相手に向かって自分の内面にあるものを何とか言葉で伝えようとすることを通じて、それが相手に伝わる以上に、伝えようとした自分の意識の中で整理がついてはっきりしてくる、あるいは全く気が付かなかった一面に初めて思い至るような結果になると思います。


そのプロセスを主人公と三人の人物との関係を通してそのまま表現すれば良いと思い至りました。


あともう一つ、だいぶ前に書いた創作メモについて、


極悪人ではない、ごくフツーの人たちの中に存在するエゴや悪について、これをどう捉えるべきか悩んでいましたが、これについても唐突に結論が出ました。


例えば、自分が幸せでないときに他の誰かが幸せそうにしていることが許せない、呪ってやりたい、など、


現実にはかなり多そうなパターンですが、自分の幸せの度合いと他人のそれとはそもそも全く関係ない、比較しようのないもの。


これが分からなければ誰もほんとうの意味で幸せになれないというのは真実です。


逆に言えば、自分の幸せの如何にかかわらず、他者の幸福を望み祝福できる胸中に至った人が増えれば、この世の中はかかなり穏やかで精神的に豊かになっていくように思われます。


長編「N」の作中で描く人間悪について、この辺りに的を絞ってテーマ化できるか検討に入ります。


自分自身の言葉のSFBから浮かんだアイディアを記しておきました。






こんにちは、また更新があいてしまいました。


相変わらず絶不調の最中なのですが、腫れや炎症も8割ほどひいてきて快方まであともう一息といったところです。


今回は中途半端に無理をせず徹底して身体と神経を休ませることにしています。


ただ黙って時を過ごすのは思ったよりもはるかに忍耐が必要で、正直なところ焦りや別なストレスと向き合うことになって辛いところですが、これも乗り越えなければならない壁だと思って前向きに捉えようと思っています。


ここまでの経験から自分の身体のリズムと回復力では、どうにもならないほどダメージが蓄積した場合、そこから一応の快方に至るまで一ヶ月ちょい位かかることが解りました。


今までは少し調子が良くなると無理してでも作業を進めて先を急いでいたのですが、今回の創作作業ではそういった無理の積み重ねがたたってどうにもならないほど体調が悪化してしまいました。


けっこう長い病歴の中で無理は禁物であることは分かりきったことのはずだったのですが、自分の人生がこのまま病気に翻弄されて受け身で終わってしまうのではないかという恐れと、早く自分の人生を自分の意志と力で歩けるようになりたいという希望の板挟み状態になって、その葛藤と焦りから想像以上のストレスがかかっていたようです。


そういった内面的なストレスに加えて、人生で初めて本格的な長編小説を執筆して完成させようとすることへのプレッシャーと、その作業そのものからくる負担の大きさも身を持って体験し理解しました。


ほんと、小説を書くということは思ったよりもずっとタフな作業ですヨ


小説を書く技能というのは単に文章を書くのが上手いというのとは全く異質で、むしろ文章の上手い下手はあまり関係ないかもしれません。


自分の感覚としては、もっと構造的な作業の必要性が書く前の段階に存在して、それが大掛かりな小説であればあるほど大きな割合を占めるようになって、それが出来上がればおおよそ書く前の段階で全体の半分以上を占めているかもしれません。


そういった、文章を書く以前の設計と構想の段階を終えると、いざ書きだそうということになるのですが、小説の文章を実際に書くという作業も一種独特な要素をはらんでいるもので、それを言葉で的確に説明するのは難しいのですが、とても即興的で事前に立てた計画をことごとく覆しながら流れに乗って言葉を打っていくという、ある意味、構想段階における努力を自分で否定していくという矛盾する作業になってしまいます。


作中の人物は、主人公であれ脇役であれ、敵役であれ、誰もが作中時間の中でリアルタイムに感情を持って動いているわけで、ゆえに予め事前にコレをこう言わせようとか、こうしてアーして最後にこうさせようといった作者の思惑に100%当てはめることは無理なことです。


でも全体の流れとテーマは譲れない線なので、それと作中の人物の思惑とのせめぎ合いになってくるわけですが、そこが初心者の自分にとっては苦しい課題になっているといったところです。


経験豊かな作家になってくると、こういった複雑な兼ね合いを水の流れるがごとく、いともたやすく的確に調度良い加減で書きこなすことが出来のだろうなと思うのですが、初心者の自分にはまだほど遠い境地です。


長編小説「N」の冒頭部分、400字詰め原稿用紙で数えると147枚、主人公と主要な人物像とテーマ、舞台と活動の模様など、冒頭に必要な要素を短編小説一遍分くらいの起承転結の中にうまく収めることが出来ました。


でも、そこまで書き上げたところで、集中力と身体の耐久力がぷっつりと切れてしまいました、、


次に書くシーンの大まかな構成は練ってあるのですが、その具体的な中身の要素については一向に煮詰まらず、身体と神経を休めることが第一と知りつつ、思い悩む日々が続いています。


具体的には、三つのシーンで構成され、一回の場面転換で二つの場所の間を移動し、それぞれのシーンで異なる三人の人物と主人公が対面して語り合います。


作中の時間の中ではごく僅かな一時に過ぎませんが、冒頭の終わりと本編の開始が重なって、しかも主人公の外面的様子の描写から、作中で初めて内面的な意識の披露がなされる場であり、これからの長い物語全体のテーマ性と雰囲気を決める超重要な場面になります。


主人公の内面性をどう描けばいいのか、、、本当に難しい問題です。


まず第一に、主人公の意識は作者であるぼく自身の意識と不可分な存在になりますが、それでも私小説的要素を極力減らすために作者の現実における意識や立場と極力変えてあります。


なので、本作の主人公は必ずしも作者の分身などでは無いと、はっきり区別して書こうと思っています。


そして、なによりも問題のハードルをさらに高く押し上げているのは、昨今のリアルな世界にはびこる不確定性と、現実の人間たちが内面に抱える意識の混乱と荒みがちな精神を、一体どうすれば乗り越えて未来に繋げていけるのかという、おそらくは今現在のあらゆる創作家たちがぶつかっているであろう、難問中の難問と言える壁に果敢にも最初の作品で挑んでしまおうという無謀さにあります。


それについての考察はある程度自信を持って出来ていると言えますが、それを的を外さずに表現して伝えることについてはまだ自信を持てる段階ではありません。


それをまた長編「N」において定めた、小説で表現し切ることが難しいメインテーマを持ってして伝えきれるかどうかはまったくもって未知数です。


ようは初心者が書く小説にしては、書く技量にしてもテーマにしても、えらく高いハードルを自ら課してしまい、それを乗り越えるために日々もだえ苦しみながら問答を繰り返さなければならなくなったというだけのことです。


でも、この今の自分にとっては大きすぎるように思われる課題を乗り越える事が出来れば、次に書いて勝負しようと思っている中短編小説の幾つかを確実にものに出来る実力がつくと思っています。


幸いにも、思い切った休息のお陰で体調は何とか回復に向かっていて、調子が良ければ連休明けくらいには、また執筆活動を再会できそうな塩梅です。


とにかく、プレッシャーとストレスと焦りと恐怖に打ち負かされないように、しぶとく牛歩のごとく前に向かって歩みを進めようと思っています。







CA3J0179.JPG
日本列島全体が春の嵐に覆われていますが、これが過ぎ去るとようやく本格的な春がやってくるという感じがします。

内地ではすでに桜の見頃を過ぎているでしょうが北の地では程遠く、雪の下からようやくふきのとうが顔を出し始めたところです。







ここ最近は体力を温存するため養生しています。


創作活動もようやく一区切りつきましたが、まだまだ先は遠く本当の山場はこれからです。


相変わらずアレルギー体質のための不調と電磁波過敏症気味の傾向のため、必要以外はなるべくPCに触れないようにしています。


それでも何とか体調を持ち直して作業再開を目指していますが、焦らず急がずじっくりと取り組んでいこうと心に決めています。


まだ外の気候は荒れ気味で肌寒い日が続いていますが、確実に春が近づく気配を感じるようになり、毎年のことながらワクワクした気分になります。


まだ執筆作業に取り掛かる気にはなれませんが、良いアイディアが幾つか浮かんでいて、あともう少しで固まりそうな気がします。


それと最近思い至ったことは、人は最初に我慢することを学び、次に耐えることを学び、それを続けることで希望を見いだせるようになると辛抱が身につき、さらに同じ分だけの辛抱を余計に重ねることで待つことができるようになり、待つことを耐え忍ぶことで本当に花を咲かせ実を結ぶことができるのではないかと思いました。


雪の下でじっと春を待つ草花にも通じる感じがします。






二年目の今日を迎えて、何か適切な言葉を探しても、部外者の視点から見る無責任な内容ばかりが思いついて、申し訳なさのほうが先にたってしまいます。


哀悼の意を捧げることしか出来ませんが、日本の中で東北地方が新しい輝きを取り戻して復活する日が少しでも早く訪れることを願い続けます。


この二年間を通して、原発問題や被災地の実情について、また、日本の社会経済や世界の情勢との繋がりを通して、自分なりに様々な視点に立って考えて来ました。


その過程の途中で、まさかそんなことだったとはと憤りたくなるような現実の問題をいくつも知るに至りました。


そういった問題の背景にある因果関係を理解することで、東北地方の復興と停滞する日本の社会経済の再興が進む上での妨げになっている真の要因の姿がおぼろげながら見えてきたりもしました。


でも、いくらそういった理屈を訴えたところで、たとえそれが正論であっても、それが本当の意味で誰かのために役立つことなのかという疑念を払うことはできませんでした。


人々の熱意と頑張りは沢山あるのに、それをきちんと受け止める力が今の世の中には足りていないのではないかと思ってしまいます。


そういった疑念に対しても、いずれ光が当てられて進むべき方向が示されることを信じたいです。


非力な自分には直接貢献できることは何一つありませんが、翳りゆく今の日本を生きる一人としては、部外者ではなく当事者として、まだ生きて何かを残せる余地はあると思います。


この二年間は、同時に自分自身と向きあう時間でもありました。


自分の正体と向き合うということは決して気持ちの良いことばかりではありませんが、そういった時間を与えられている事自体が感謝すべきことであり、だからこそ、これまでの人生で得てきたものを決して無駄にしたまま終わらせたくはありません。


こんな生き方をしなければ理解できなかった知恵の数々を、誰にでも役立つ形としてまとめて次の世代に伝えることを目指して、今は作業に没頭したいと思います。


最後に、大震災で被災された方々のご冥福と、困難に逢われながら生きておられる方々に心からの敬意と感謝を捧げさせて頂きます。


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HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
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