北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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昨日の記事に引き続き病気について記そうと思います。ぼくは10代でこの病気を発病しましたが、10代の男性が発病するのはけっこう稀な症例らしいです。ちなみに女性の場合は決してマイナーな病気でなく、発病する人はそう多くは無いようですが、おおよそ5人に一人は予備軍らしいです。
ぼくがこの病気の診断を受けたのは高校2年生の時で17歳でした、でもそれ以前から症状があり実際には中学1年ごろに発病していたと思います。なぜ発病から診断まで4年以上も開きがあったかというと、その間に身体の異常を訴えて幾度も病院に行っているのですが、そのいずれも一過性のストレスや風邪、成長期特有の精神的なものとして見落とされてきたのです。一般的な内科医には甲状腺疾患の専門知識が無い人も多く、まして滅多にない10代の男性ということで見落とされるのも無理も無いことだったと思います。
でもこの時間差はぼくにとってこの病気が現在まで病み続けることになった決定的な要因だったと思います、この間に徐々に体調が悪化してもうどうにもならない状態になって初めて診断がついたからです。最初は運動した時息切れしやすく持久力がない、動悸がしやすく収まりにくい、疲労の度合いが深く元気なときと落差が激しい、集中力が落ち気味で成績が下降などの兆候がありました。
それが走れば死にそうなほど動悸がし収まるまで数時間を要するようになり、立ち上がるのも困難なほど深い疲労に襲われることもあれば、感覚が麻痺したのか全く疲れ知らずな時もあるなど好不調の落差もいっそう激しくなりました。精神的にも相当追い詰められ、感情の起伏が激しくなり何か怒りにも似た感情も抱くようになりそれを表面に出さずに押さえ込むのに随分苦しみました。それでも成長期の一過性の不安定に過ぎないと思い込んでいたのでさらに無理を重ね、とうとう免疫まで異常をきたしたのか常に微熱があり貧血と立ちくらみが襲い、体重も10Kg以上落ちてフラフラな状態でした。そこまでいってようやく病気を疑い、病院で検査をしてバセドウ病の診断を受けました。
しかし、ここでも決定的な判断ミスをしてこの病気のドロ沼に落ちるきっかけを自ら作ってしまいました。それは投薬治療を開始してそのまま無理を重ね学校に通い続けたことです。高校を休学せずに卒業することにこだわったのです。そして、掛かった医者が専門医ではなかったため先に書いたような楽観論でしかこの病気を理解しておらずこのままで大した問題がないと判断されたのです。もちろんその頃のぼくも同じような認識しか持ちえませんでした。
投薬治療はすぐに効いて精神的苦痛は嘘のように緩和しましたが身体的苦痛はむしろ増しました、毎日腹が下り続け腹痛とめまい、体重も50Kg割るかというくらい落ち込み、しかし見た目はムクミのためかえって健康そうに見える有様でした。そのための誤解と教師の理解不足のために単位を取るためひたすら体育の授業を受けるなど一層無理を重ねてしまいました。あるとき、とうとう限界が来たのか体育の授業中に倒れこんで意識を失ってしまいました、心臓が発電機のように早鐘を打ち視界が真っ白になって周りの音しか聞こえず、やがて一瞬でしたがとても長いあいだ時間が止ってしまったような感覚に陥り意識を取り戻しました。そんなことも含めて文字通り石に噛り付く思いで単位を取り卒業しました。
こう書いてみて思い返すとまさしく拷問のような日々だったと思います、でもそんな暗黒面があった一方で、クラスではわりと孤独なほうでしたが部活では良き友、良き先輩、良き後輩に理解ある顧問の先生に恵まれ本当に充実した日々を送ることができました。部活動があったおかげでぼくは3年間かろうじて学校へ行きとおすことができたのだと思います、ぼくにとっては明暗のコントラストがはっきりした、でもやはりかけがえの無い青春だったと思います。
ここまでこってりと書いてきましたが、自分自身の病と本当の意味で向き合うことになるのはまだまだこれからでした。卒業後も治療を続け甲状腺の数値を順調に押さえ込むことに成功、でも相変わらず体調は低迷を続けました。その頃のぼくはこのまま療養して健康を回復すれば遅くとも3年以内に大学へ進学できると目論んでいました。そして甲状腺の数値が回復することは=健康になったことだと思っていたのです、でもそうではありませんでした。(以下、次回へつづく)
投薬治療はすぐに効いて精神的苦痛は嘘のように緩和しましたが身体的苦痛はむしろ増しました、毎日腹が下り続け腹痛とめまい、体重も50Kg割るかというくらい落ち込み、しかし見た目はムクミのためかえって健康そうに見える有様でした。そのための誤解と教師の理解不足のために単位を取るためひたすら体育の授業を受けるなど一層無理を重ねてしまいました。あるとき、とうとう限界が来たのか体育の授業中に倒れこんで意識を失ってしまいました、心臓が発電機のように早鐘を打ち視界が真っ白になって周りの音しか聞こえず、やがて一瞬でしたがとても長いあいだ時間が止ってしまったような感覚に陥り意識を取り戻しました。そんなことも含めて文字通り石に噛り付く思いで単位を取り卒業しました。
こう書いてみて思い返すとまさしく拷問のような日々だったと思います、でもそんな暗黒面があった一方で、クラスではわりと孤独なほうでしたが部活では良き友、良き先輩、良き後輩に理解ある顧問の先生に恵まれ本当に充実した日々を送ることができました。部活動があったおかげでぼくは3年間かろうじて学校へ行きとおすことができたのだと思います、ぼくにとっては明暗のコントラストがはっきりした、でもやはりかけがえの無い青春だったと思います。
ここまでこってりと書いてきましたが、自分自身の病と本当の意味で向き合うことになるのはまだまだこれからでした。卒業後も治療を続け甲状腺の数値を順調に押さえ込むことに成功、でも相変わらず体調は低迷を続けました。その頃のぼくはこのまま療養して健康を回復すれば遅くとも3年以内に大学へ進学できると目論んでいました。そして甲状腺の数値が回復することは=健康になったことだと思っていたのです、でもそうではありませんでした。(以下、次回へつづく)
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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