北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今までさんざん悪しざまに罵ってきたブツに呆気無く乗り換えてしまいました。
さすがの昭和後期生まれも新時代の趨勢には勝てなかったと言えばそういうことになります。
今日は少し言い訳がましい内容になりそうですが、一応のけじめとして書いておかなければなりません。
普段から昭和のアナログ党を自認する者として最も憎むべき、いわば最大の敵とも言えるものに、こうも簡単に乗り換えさせられるとは自分でも驚きです。
ガラケーが絶滅するまで使い倒すつもりでいましたが、とうのケータイ自体が限界を迎えたようです。
ガラケーの皮を被ったスマホであるガラホという選択肢もあったのですが、いざという時に鶴の一声で呆気無くスマートフォンに乗り換えることに決まりました(-_-;)
これまで使っていたガラケーのバッテリーの減りが異様に早く、ひどい時は満充電してから半日と持たずに電源が落ちてしまいます。
もともと中身のプログラムが不安定で、買ってから何度もサービスセンターとの間を往復し、バッテリーを新品に交換しても、しばらくするとまた直ぐに不安定になって元の木阿弥状態でした。
一方で、デジカメのブランドを冠したカメラ機能は大変優れたもので、エクスリム譲りのフォーカスロック付き物理シャッター搭載のおかげで時に動き物さえ撮れるという、並のデジカメと比べても全く遜色のないものでした。
普段使いのメモカメラとして重宝しとても気に入っていたガラケー最強クラスのカメラも、肝心要のバッテリーが持たなければ電話としても用を足さないので泣く泣く退役させることになりました。
どちらにしても機種交換は避けられないことは明白で、ではどうせ変えるなら思い切って今の人たちがフツーに使いこなしているスマホの便利さをあなたも経験してみなさいというお上の判断でした。
数日後には運命が急展開する事態が待ち受けているとは露知らず(大げさな)シルバーウィークの最終日に若干ヘトヘトの体調で隣町のK家電量販店のケータイコーナーで粛々と手続きを済ませてきました。
この時メインだったのは実は親父さんのほうで、仕事の関係で普段から二台使いしているガラケーの片方をメインと同じauに乗り換えれば想像以上にお得な料金でiPhone6に乗り換えられるというキャンペーン中で、それならば善は急げということで忙しい連休中に機種変更の手続きを済ませることになったのです。
そのついでに自分の不調なガラケーも一緒に交換と相成ったのでした。
この時の手続きの煩雑さはには閉口しました。
ガラケーの契約時の手続きの比ではなく、それぞれのプランのメリットとデメリットの説明に始まり、細々としたサービスの違いによる料金発生の違いや、様々な機能や特にセキュリティー関係の説明確認など、ありとあらゆるチェック項目が示された用紙に従って、一つも飛ばして省略することなく順番に潰していくというやり取りを繰り返し、途中で古い他社ケータイの解約手続きに予想以上の時間を要して全部終わる頃にはどっぷり日が暮れていたという有様でした。
こういう煩わしい説明が大の苦手な親父さんは早々に苛々し始めて、申し訳無さそうに説明を続ける店員さんとの間で気まずくならないように間を取り持ちながら、純粋なアナログ人間の親父さんにも分かるようにデジタル用語を通訳しながらだったので、手続きが終わった頃にはドット疲れた上に、それまでずっとやり取りしてきた店員さんとも妙な連帯感が芽生えて何かお互いに達成感のようなものさえ感じました。
夕食の時間も近づきお腹もすいてきた状態でゲンナリしながらお店を後にしたことを覚えています。
帰りの車中で親父さんと話したことですが、ケータイ電話たった二台を機種交換および乗り換えするために、これだけ煩雑で神経衰弱のような手続きを毎回お客さんが来る度に、一人ずつ最初から数時間かけて契約を結ばなければならないのは大変な忍耐を要する仕事だと半ば感心しながらも、オレみたいな昭和のアナログ人間にはとても務まるもんじゃないと感想を述べていました。
店員さんも手続きの途中で言っていましたが、かつて販売奨励金制度のもと0円ケータイをどこもかしこも投げ売りしていた適当な時代とは様変わりして、各種手続きのチェック体制は本当に厳しくなったと話していました。
これはガラケーの時代以上に、スマホの中にクレジットカード情報などの重要な個人情報が集積するようになり、ケータイ会社と利用者との法的な責任関係がよりシビアになったことが大きいように思われます。
システムから販売制度まで日本人が日本人の社会に馴染むように作ったガラケーと異なり、アップルのiPhoneにしてもグーグルのアンドロイドにしても、欧米人が欧米社会を始め世界基準に則った、利用者と企業のあらゆる関係を法的利害関係と契約関係と見なして雁字搦めすることで責任の所在をはっきりさせるという文化風土の違いによって生まれた一種の歪みだと思います。
ビデオの録画予約さえ満足にできない電子機器音痴の親父さんでも時代のトレンドにだけは敏感で、パソコンさえまともに触れたことがないにもかかわらず、本来は中上級者向けのアップル製電話にいきなり背伸びして立ち向かい今現在も悪戦苦闘中です。
かくいう自分も以前に導入したタブレットで経験済みとはいえ、最初に自分で行わなければならない各種機能の初期設定やID登録などを手順を間違えないように慎重に進めていたつもりでしたが、途中なぜか意図しない画面ロックモードの登録画面に進み、そうとは気づかずに気軽に設定を済ませると、今度はその通りにやっても画面が解除できなくなってしまい、緊急電話以外に全く機能が使えなくなってしまいました。
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少し更新の間が空いてしまいました。
その間、いつもと違うイレギュラーな出来事がありました。
実は先週末まで入院していました。
入院自体が人生初体験でしたが、救急車で搬送されるというオマケ付きです。
先月末のシルバーウィークが終わった二日後の金曜日の夜に突然倒れてしまいました。
その日はいつも以上に疲労の色が濃くて、昼までに用事を済ませて帰宅後は夕方まで横になっていたのですが、いつもならそれで元気を取り戻せるはずでしたが、夕食になっても一口手を付けただけで食欲がなくなり、便意をもよおしてトイレで用を足した直後に猛烈な吐き気に見舞われて、食べてはいなかったので内容物は出ませんでしたが、そのまま意識を失いかけてその場に倒れこみました。
慌てて助けを呼んですぐに119番に電話して救急車を呼びました。
一瞬で自分の身体が硬直してまるで物か何かのように自分のものではないような感覚でした。
動いたら意識が遠のいていきそうだったので、その場でその姿勢のままじっと耐えて待ちました。
思ったよりも早く救急車が到着した時には少し落ち着いてきて、駆けつけた救急隊員の人とも受け答えができました。
でも自分で立ち上がることはとても無理だったので二人の隊員に脇の下と足を持ち上がられ救急車まで運ばれていきました。
救急車の天井を見るだけの状態になってもなかなか発車せず、隊員が受け入れ先の病院と連絡をとっているようで、最初の地元の市立病院は受け入れ不可で、その次もダメでさらに次の病院でようやくゴーサインが出ました。
容体は比較的に落ち着いていたので切羽詰まった感じはしませんでしたが、三箇所目は市外の若干遠方の救急病院で、なぜか江別から札幌の東区の徳洲会病院まで運ばれていくことになり、走りだした救急車に揺られながらずっと天井を見つめていました。
同乗していた父によると高速道路を走って病院までたどり着いたと後から聞きました。
この時、ほとんど人間とは思えないほど土気色の顔をしていたとも言っていました。
病院についた後、そのままストレッチャーに乗って院内に滑り込み、まわりについている人が救急隊員から女医さんや若い男性の医師と看護婦に変わりました。
集中治療室ではない広い部屋に一人ぽつんと置かれた後の順序はよく覚えていませんが、先生にあれこれ質問された後に身ぐるみ剥がされて色々管やら心電図や点滴などを取り付けられ、気がついたら病院着に着替えさせられていました。
血液検査や造影剤検査などが終わってから極度の貧血状態だと告げられ輸血が始まりました。
万一の感染症の可能性があるなど色々とリスクがある旨の説明を受けましたが、今ある命にはかえられないので二つ返事でOKしました。
容体が落ち着いてきたところで仕事から帰った母も駆けつけて改めて先生から容体の説明を受けていました。
程なくして病院内の一般病室に移されて、そのままそこで一週間の入院生活を送ることになりました。
今ここでブログを更新出来ているということは幸いにも大事に至らなかったということで心配はいりません。
先生によるとヘモグロビンの値が4.9まで下がっていたので正直、生命を維持できるギリギリの値だったということと、入院生活中に若干の低血糖状態が見受けられたということでした。
成人男性の場合、この値で普通に立って歩いていられたこと自体有り得ないということで、先生は終始何か不思議なものを見ているような目つきで疑っていましたが、それで何か内側に重大な病巣が潜んでいるかもしれないということで、入院中二度の大腸検査と胃カメラを飲んで調べましたが、これも幸いなことに上からも下からも出血源となる大きな病気は見つかりませんでした。
ただ、お尻の出口あたりに大きな痔が成長中で、そこに流れる太めの血管が切れることで出血が断続的に続いていたのは事実です。
最初に症状が出始めてから徐々に出方が派手になり月一ぐらいで割りと多めの出血があるようになりましたが、ここ最近はその頻度が急速に上がって週一くらいになっていたので、もうそろそろヤバイかなと思っていた矢先の急変でした。
週明けには厚別の肛門科に行こうと家族とも相談していましたが、まさか救急車で運ばれる事態になるとは夢にも思いませんでした。
その一方で貧血による症状の自覚はほとんどありませんでした。
貧血の症状でよくある目眩や立ちくらみは一度もなく、ただひたすら身体が重だるく息が上がって苦しい状態が続いていました。
こういった症状はもともと患っているバセドウ病という甲状腺のホルモン異常の病気によって起こる慢性的な症状だったので、その影で貧血の症状が重症化していることに気が付きませんでした。
それでもある程度自覚できていたことは、しゃがんだり立ち上がったりといった上下の屈伸を伴う動作が特に辛く感じるようになっていたことで、それも単に三十路の敷居を超えたことによる体力の衰えのせいとしか考えていませんでした。
あとで貧血についてネットで調べてみると、正常な人では概ね15前後ある値が10以下まで急速に下がると危険だと言われますが、徐々に下がっていった場合は身体が貧血状態に適応してなんとなく耐えられるようになってしまうことは比較的よくある場合だと知りました。
今のところ自分の症状について、そういった微妙なさじ加減のすれ違いのようなものがいくつも重なってしまった結果というふうに理解しています。
まだ退院してから一週間も経っていないので当然自宅で静養していますが、処方された鉄分と止血の成分が入った薬を毎日欠かさず飲んでいるので実感としての経過は良好です。
今月後半に再び外来で通院して今後の治療方法などを相談してきます。
これまで蓄積された疲労とストレスと、一見暇人のようで実はけっこう忙しい日常の生活に追われる中で、もともと患っている病気の症状に加えてさらに遺伝的な虚弱体質もある上に、それらを気力と根性だけで跳ね除けながら創作活動に打ち込んできた無理がたたりました。
特に秋に入ってかねてから準備を進めてきた小説作品の執筆をスタートしてから心身の負荷が一気に高まって眠られないような日も続いていたので、これが結果的にクリティカルに響いてしまいました。
こういったことも含めて今回の入院騒動は、これまでの自分の生活や人生の在り方を振り返って考え直す良い機会になりました。
入院中も看護婦さんや同室の患者さんとの出会いなど、他の人の人生模様を色々と垣間見させてもらえて勉強になりましたが、そういった入院生活の思い出についても書く気と元気があればですが、いずれ記事に書こうかなと思っています。
両親や家族には一時心配をかけてしまいましたが、ぼく自身も含めて比較的に楽天家なので今は概ね前向きな気持でいます。
兎にも角にも今は養生第一で、それでも今後の創作活動の見通しと意欲は見失わず気長にやっていこうと思っています。
これでとりあえずの近況報告とします。
今日の深く込み入りそうな独り言記事は、それでもあえて読んでみようと思われた方だけ読んでみてください。
夏の暑さが過ぎて、朝晩には早くも秋の肌寒さが感じられるようになりました。
かねてから準備を進めてきた小説作品の執筆を少しづつ始めていますが、まだペースは非常に遅く、作品としての形が出来るのはまだ先のことになります。
前回のように、多少の無理は厭わずに毎日コンスタントに書き続けることを義務とはせず、最初は週一から週二のペースで本当に少しづつ、ゆっくりと書き進めていきます。
日常の生活サイクルの中に小説執筆の時間を無理なく織り込めるようになるまで、出来るだけ心身の負荷を下げて、今でも決して万全ではない体調に配慮しながら無理のないペースでやっていこうと思います。
その執筆作業の合間にこうしてブログの独り言記事を書いています。
連日デモで反対が叫ばれている最中で強行採決される勢いの安保法案も、どこか現実離れした出来事のように静かな日常の中で生活できるのも、嵐の前の静けさの中のつかの間の平穏なのかもしれません。
多くの人たちがデモに参加するだけで世の中が変わるわけはないという意見や、今回の法案が通っただけで日本がそく戦争をする国になったり、徴兵制が復活するような事にはならないだろうという冷静な意見もあります。
過去の経験則からするとそのとおりとなるのですが、今、この世の中の情勢は、すでに過去の事例のパターンを繰り返すような時ではなく、明日にでも何か大きな変化を及ぼす出来事が起きても何らおかしくない状況です。
この国の大多数の人たちは、安保法案に反対であれ賛成であれ、そのどちらとも言えない中間であれ、積極的な戦争状態に自ら進んで行くべきだと考えているような人は一部の特殊な思想の人を除いて殆どいないでしょう。
これほどまで世論が反対しているにもかかわらず、国の法規の根幹である憲法を蔑ろにしてでも押し通す事態はもはや尋常とはいえません。
どこかで、そこまでやらなくてはならない緊急の状況が差し迫っているのかもしれませんが、一方で先の大戦で被害国となった近隣国に対して、日本の政権の意図する方向が決して日本国民の望むところではないということを、デモに参加したたくさんの人たちの行動によって国の内外に示すことができたことは決して小さな出来事ではなかったと思います。
70年前に空前の規模の戦争を引き起こし、同時に最大の被害と犠牲を蒙り、もう二度と再び同じ過ちは繰り返さないという誓いとともに、新しい憲法のもと永久に戦力と戦争行為を放棄すると宣言することで国際社会に復帰したはずの戦後日本が、どうして21世紀の今になって再び永久に捨て去ったはずの戦争に加担する国家に舞い戻ろうとしているのでしょうか。
また、なぜいとも簡単にそれを許してしまうような事態に陥ったのでしょうか。
戦争を経験した人たちが多く健在だったこれまでは、その悲惨な経験の一部始終を語って伝えることで、いかに戦争が酷く残虐な状況に人々を追い込むものなのか、それゆえに絶対に繰り返してはならない罪深き行為であることが、戦争の実態を全く知らない私たちのような若い世代まで繰り返し言い伝えられてきた一方で、なぜそのような戦争が引き起こされてしまったのか、その本当の理由がどこにあり、それは正確にどういった因果関係で為されたことかなのを積極的に追求し明らかにされること無く、戦後70年間の長きにわたってうやむやで曖昧なままにされてきました。
その結果として、常に戦争の悲惨さを繰り返し唱えて反対さえしていれば、日本は無条件にいつまでも平和のままでいられるという、都合の良い思い込みにとらわれるようになっていったのではないかと思われます。
戦争に反対するという意思を持ってデモに参加した人たちを批判しようという気持ちはありません。
むしろ多くの人達が戦争に断固として反対するという良識を示した行為は評価されるべきであり、そこに直接参加することのできなかった人たちの勇気ある代弁者であったと思います。
しかしそこにとどまったままで満足して、今この時期に起きつつある複雑な情勢の変化について、一人一人の理解を深めようとする次のアクションを起こすことができなかれば、かつて同じような主張を集団行動で示そうとした結果と同じように、本当の意味で世の中の流れを変えることはできないと思います。
アメリカの強力な軍事力と核の傘のおかげで、日本のこれまでの平和と繁栄が保証されてきたのだから、これからもそのやり方で安定した時代を維持し続けられるという考え方はもはや時代遅れの信仰と言わざる負えません。
地球上の様々な地域に軍事基地を擁し、全世界の4割以上の戦力を展開する名実共に世界最強の軍隊がアメリカの陸海空軍と海兵隊ですが、これらの軍隊を世界中で日夜活動させ維持していくための費用も桁外れに膨大なものです。
2001年9月11日の同時多発テロを発端に開始され今に続く対テロ戦争に費やされた資金も並外れたものでした。
これらの際限なく増え続ける戦費の負担を、もはや超大国アメリカ一国でも支えきれないほど膨張し続けています。
歴史的に、その国の潜在的な国力を上回るほどの軍事力を備えた国家は中長期的に徐々に衰退していくうえに、その戦力を実際に使用して戦争を引き起こした国や政権は必ず短期間で滅亡に至っています。
際限ない軍拡競争の末に鍋釜まで溶かして破滅的な戦争に自ら突き進んだかつての日本がその典型的な事例の一つです。
明治維新直後から、富国強兵のスローガンのもと当時の国際社会から莫大な額の借金をいきなり背負いながら、過去に前例のない短期間で産業の近代化を成し遂げ軍国化を推し進めた結果、日清、日露と大国相手の大きな戦争に立て続けに勝利し、今の感覚で言えばおそらくサッカーのワールドカップで日本代表チームが優勝した場合を上回るような熱気と高揚感で、当時のほとんど全ての国民がもはや負けなしの国になったとして有頂天になっていきました。
しかしその背景では、当時の欧米列強国のように戦争に勝利した暁として、膨大な利益を搾取できる大きな植民地を獲得することは許されず、その対価としてかかった戦費を賄えるほどの多額の賠償金も得ることが出来ませんでした。
その後の日本が国際社会のルールを逸脱してまでアジア全域で植民地を獲得する侵略行為に手を染める要因となりました。
一説によれば、帝政ロシア軍のバルチック艦隊を日本海戦で撃破した日露戦争に費やした戦費は当時の日本の国家予算の実に60年分にも相当し、その返済負担の苦しみは四十一年後の太平洋戦争の敗戦につづく国家財政の破綻の時まで続きました。
もともと望まないアメリカとの戦争に真珠湾奇襲攻撃で自ら宣戦布告せざる負えないところに追い込まれたのは、国際社会から逸脱したことに対する経済制裁として、日本が自活できない石油をはじめとする重要な資源の輸入と、主要な収入源だった民生品の輸出を封鎖されたことによる国家的な財政危機のためでした。
いかに当時世界最大の戦艦や高性能な戦闘機を保有していても、それらを動かす燃料が底をつけば無力であり、そうなってしまってからでは戦わずして負けを認めるほかに道はなくなり、それまで苦労して獲得してきた植民地や列強国としての高い地位も全て無条件で手放すことになります。
国家の面子と全国民の生命財産を天秤にかけた時、戦前の日本という国は前者を選択しました。
かつての日本が起こした無謀極まりない戦争の事例が示すように、古来から人類の歴史上、戦争が起こる要因の背景には必ず経済的な行き詰まりがあります。
借金につぐ借金の積み重ねによる返済不可能なほどの膨大な負債と引き換えに、どれだけ多くの命の犠牲を伴ったかは、先の世界大戦を始め歴史の有り余るほどの事例が示すとおりです。
国や地域が変わっても戦争が引き起こされる時の要因は根本的に変わることはありません。
20世紀初頭では最も近代的な憲法を定めて公平な民主国家を目指したドイツが急速にナチス化したのも、第一次大戦の敗戦によって課された当時のレートで100年たっても返せないほどの賠償金の支払い負担と、その後の世界恐慌に端を発した極度のインフレに見舞われたことによる全ての国民の生活困窮でした。
第二次世界大戦後、アメリカとソ連の両陣営が競って核軍拡競争を演じた東西冷戦も、国力と経済力で圧倒的に勝るアメリカを中心とした西側陣営に対して、もともと貧しい経済基盤しか持たない東側陣営において、際限ない軍事費の膨張に耐えられなくなったソ連が先に崩壊したことで終了しました。
当時、ソ連の首領を務めたゴルバチョフ大統領の決断によって、まだしようと思えば全軍を動員して戦えるうちに敗北を受け入れたことで、アメリカとの最終的な核戦争の勃発を回避しました。
この時、もしも経済的に追い詰められたソ連が最後の一手に打って出ていたなら、全世界は核攻撃の応酬に遭うという最悪の結末に至っていたかもしれません。
東西冷戦が終結したことで、この地球上で軍事的に並び立つ他の国が存在しない唯一の超大国となったアメリカは、ライバル国のソ連がいなくなったことで相対的にその強力過ぎる軍事力を段階的に手放していく必要がありました。
20世紀も終わりに近づいてきた頃、急速な戦後復興を果たして経済大国に返り咲いた日本を筆頭とする経済新興国の台頭によって、軍事産業以外の民間産業の優位さを失いつつあったアメリカにとって、世界一の超大国としての威勢を維持するために、その強力すぎる軍事力を手放すことができなくなっていました。
21世紀に入ってグローバル経済という言葉が一般的になるごく最近では、経済的なライバル国が日本からより大きな潜在力を持った中国に移り変わる一方で、アメリカは湾岸戦争以来、特に9.11テロを堺に戦争を拡大し続けることで、さらなる軍事力依存に歯止めがかからなくなっていきました。
はたして新戦力になれるかどうかはこれからのテスト次第なのですが、、、
また、近所のお店で拾ってきてしまいました、、(汗)
お値段ワンコイン500円+税なのでダメ元でも殆ど損はしません。
ガラクタ箱の中で眠っていたものですが、少し知っている人なら「おっこれは」と思う機種なので、動作不良でも諦めるつもりで買って帰りました。
各部をよく清掃し、古い緑青の生えた電池を取り出して端子を磨き、予備の電池を入れてみるとおもむろに動き出しました。
最初は液晶の表示が不安定だったりしましたが、電圧が安定してきた頃には電源を入れると同時にレンズが繰り出し、各種モード切替やストロボON、OFF、ファインダー内表示も生きており、シャッターもちゃんと切れました。
あとは巻き上げがスムーズに出来るかどうかだけですが、これは実機にフィルムを装填しテスト撮影を繰り返してみなければ分かりません。
リコーR1sというフィルムコンパクトカメラです。
とても薄型のシンプルなデザインが特徴で、フィルムカメラというよりは最近のコンパクトデジカメのような印象です。この薄型ボディの中にフィルム巻き上げ機構やオートフォーカスまで詰め込んだ実装技術は当時高く評価されました。
一見すると写ルンですをちょっとゴージャスにしただけのような、デジタル全盛となった今ではほとんどの人たちが素通りして見向きもしない類のカメラですが、この手のシンプルなカメラは侮りがたい意外な実力を秘めている製品が多いのです。
30mmF3.5というありきたりなスペックの広角単焦点レンズを搭載した何の変哲もなさそうなコンパクトカメラですが、多少大げさな言い方をすると、広角スナップに関してだけ言えば、同時代のAF一眼レフカメラの広角ズームを軽く凌駕するほどの画質力を備えています。
その詳しい理由は後半の追記か何かでウンチクしようかと思いますが、とにかく気軽なスナップ撮影においてとても有用なカメラなのです。
90年代なかばくらいの製品で色々なカラバリがあったようですが、この拾ってきた個体はシルバーモデルで、前面のパネルのみアルミプレス成形の金属製で、手に取った時にヒンヤリとした質感が伝わって意外なくらいに高級感があります。
また、このカメラが登場した時代を感じさせるのは、当時お約束だったパノラマモード切り替えスイッチが背面に付いていて、フィルムを入れると中からは見られませんが、写真の上下を狭めるための遮蔽板がせり出してきて擬似的に横長のワイド画面が撮れるという大変優れた発想(笑)のアナログ的機能が実装されています。
この実際に使うかどうかは微妙なパノラマ撮影モードがついているかどうかで販促に影響したようで、当時はとにかくパノラマモードが付いていることを口実に買う人や売りこむ店が多かったそうです。
何だかデジカメ時代になってからの画素数競争にも似ている状況ですが、そういった製品の優劣を分ける解り易い指標が付いている方が、多くの一般ユーザーにとっては判断の好材料になって売る方にも買う方にも都合が良いのでしょう。さらに最近では光学50倍といった超高倍率ズームの搭載が流行っています。
このアナログ最終年代を席巻したパノラマ機能ですが、このリコーR1sにはもう1段本格的な隠し玉的な機能が内蔵されています。
P(パノラマ)モードの先にもWIDE[P]モードという項目があり、そこにスイッチを移動させると、飛び出していたレンズがいったん引込み、すぐに再びせり出してきます。
この時、内部ではいったん収納されたレンズの内側に別なレンズが滑り込み、焦点距離が30mmからよりワイドよりな24mm相当のレンズに”変身”します。
遮蔽板を繰り出して上下幅を狭めただけの”なんちゃってパノラマ写真”ではなく、レンズの撮影範囲そのものをワイド化した上で横長の写真にする、一段本物に近いパノラマ写真を撮れるようにする凝ったギミックです。
広角スナップ撮影にはこだわりを持っているリコーのカメラらしい仕様と言えます。
わざわざそんな凝ったメカを搭載して30mmと24mmの切り換え式にしなくても、普通の3倍ズーム仕様にすれば事足りるのではという指摘は野暮というものです。
広角単焦点レンズであることが大事な肝で、コンパクトカメラに搭載できる小型のズームレンズとした場合、画質は一気に落ちて先に述べたように一眼レフを凌駕するような広角写真を撮れる画質力は失われます。
画質の芯はレンズの性能で決まるという原則を理解して重んじるミドルユーザー向けの、分かる人にだけその良さを分かってもらえれば良いという潔いコンセプトの製品です。
今から十年ほど前のデジカメ普及期の製品には超広角撮影のための2つ目のレンズを備えた製品など、各社から個性的なモデルが相次いで登場した楽しい時期でしたが、今となってはより厳しくなったコスト制限とデジタル処理の高速化によって、物理的なレンズ部にコストのかかる凝ったギミックなどは搭載せず、画像処理エンジンの後処理で加工するだけで済ませてしまう製品が殆どになりました。
デジカメ黎明期からフィルムカメラ末期まで遡れば、カメラの基本となるレンズやボディの作りに十分なコストをかけた妥協のない製品がたくさんありました。
そういった少しだけ前の古き良き時代もひとたびコストダウン競争に飲まれてしまえば、そのジャンルにおいて、価格に対して十分すぎる品質と内容を備えた製品がひしめき合うように登場する”黄金期”はもう二度とやって来ません。
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HN:
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年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
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