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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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僅か数日前の夕方に自宅から見た夕焼けの異常な色の濃さに、何か心にかかるものを感じて書き始めた意味深な内容の記事を書き終えた直後に、こういった災害が起こったことに自分でも正直なところ気味の悪いシンクロ率を感じています。

今回の水害で被害に合われた方々へ心許のお悔やみを申し上げます。

いまだ被害が収まらない今の時点では仕方のない話ですが、こういった激甚な災害の現場を報道で見る度に、もっと事前に手厚い対策を施すことができなかったものか思ってしまいます。

被災された地域の状況を見ていると、大きな河川がいくつも流れる平野部に広がる田園地帯の中に多くの集落や市街地がひしめき合うように密集している様子は、ふだんから間延びした風景を見慣れている道民としては驚きさえ感じる光景です。

堤防が決壊した部分は再来月には本格的な嵩上げ補強工事が実施される予定で、さらに10年以上前の防災シュミレーションで堤防の決壊が想定されていたまさにその部分だったそうです。

水没した地域の中には最近開通したばかりと思われる高規格道路の真新しいインターチャンジがありますが、10年以上前から危険が想定されていた場所の防災工事のほうを優先すべきだったのではないかと思わずにいられません。

一刻を争う状況の中でほとんど命がけの救命にあたる自衛隊員の姿に、ただ頭がさがる思いで見守っていましたが、これが自衛隊員の本来の仕事の姿であって決して米国の戦争の手伝いをするためではないというツイッター上の意見に激しく同意します。

テロや先行きの見えない国際情勢に対応するためなど色々な大義名分があったとしても、毎年のように日本各地で激甚な災害に見まわれて、東日本大震災の完全な復興や福島の原発事故の収束の見通しすら全くたたない内に、戦争ができる国家へと急いで作り変えようとする理由が一体どこにあるのか?ごく普通の一般庶民の感覚ではまったく理解できないことです。

救出を待つ沢山の人達がいる状況で、電線や建物が込み入る市街地で不安定な低空飛行を続けながら一人づつ釣り上げるほかない様子を見ていると、素人の浅はかな考えかもしれませんが、高性能な兵器を開発配備するよりも、こういった災害の時に被災者を数人以上一度にまとめて救出できる装備や方法を開発したほうが、戦地での機雷処理や戦闘部隊の後方支援よりもよほど国際貢献に繋がるのではないかと思われます。

その他にも、幹線通り沿いに点在する日本全国どこでも見られる郊外型大型店をすべて2階建て以上屋上駐車場付きの建物で建築させて、いざという時の自動車の避難場所として活用したり、学校や役場といった公共施設以外でも、使える民間の施設は積極的に避難場所として利用するなどの官民の連携策を深めることが、なぜにいつも為されていないのか強い疑問を感じます。

こういったことを傍らから指摘したところでほとんど何の意味もありませんが、この国の20年以上に渡る迷走の末に、戦争協力と平和の祭典であるオリンピックの開催に未だ浮かれている二極分裂した矛盾状態に末期的な症状を見せられているような気がしてなりません。

今は一刻も早い排水と復旧作業が本格化することを願います。

今日から明日にかけてここ北海道でも2つ目の台風17号による大雨の警報が出ているので、対岸の出来事として油断することなく注意を怠らないでいようと思います。
        
        
      

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昨日、夕方の日暮れ時に自宅の窓から何気なく外を見たら、夕焼け小焼けの茜色の空がすごいことになっていました。

去年も一昨年も、それよりも前にも今の季節に同じような夕焼けを写真にとっているので、大きな地震や何かのような天災の前触れとまでは思っていません。






ただ、天気予報によれば、はるか南の彼方の太平洋上空にお呼びでない台風が2個同時に発生しているようで、それぞれ日本列島の左舷と右舷にめがけて微妙に迷惑なコースをとって今週末に最接近するようです。

突然のゲリラ豪雨や洪水被害が毎月、毎週のように日本全国の何処かで当たり前のように起こるようになっていますが、古来からの諸説によれば、気候の乱れは世の中の人心の乱れの結果だとする考え方があったようですから、最近の目に余る非道な殺人事件や、そこまでいかなくても目に余る非行が相次ぐ世の中の荒んだ様相も、けっして無関係とは言い切れない気がします。

自分自身がその荒んだ世相の空気に影響されて、気が付かないうちに飲み込まれてしまわないよう、心ある人は注意を怠らないでいることが肝要な時期ですが、あまり直接的に天気に向かって八つ当りするように、ウザいとかシネとか言いいながら罵らないほうが身のためかもしれません。その天気そのものにこっぴどく仕返しされてやっつけられかねない危険な時代ですから、、(大汗)
 
それよりも、晴れた日には暖かい日差しをくれてお天道様ありがとう、反対に雨が降ったら乾いた地面に水分をくれてありがとう、おかげ様で作物が良く育ちますとか、曇りの日には強すぎる日差しがないぶん過ごしやすい一日をありがとうとか、出来るだけ前向きな気持を天に向かって投げかけたほうが良いでしょうし。実際に望まない極端な天候を避けて望むような穏やかな気候を呼ぶことになりますよきっと、、。

とにもかくにも今のこの時期に、なぜこうまで世相も天候もまるで連動するように荒れ狂う模様になっているのか、その理由と原因のうちの1セットは、自分たち普通の人間たちが今現在ごく普通に考えている科学的な常識の中に、自分の意識が原因で作り出した現実を自ら呼び込んでしまうという、目に見えないけれど常に存在し作用している基本的な法則について、まるで知られていないばかりか、一方的に嘲笑しながら見下して無視するような風潮が大勢を占めている残念な状況にあります。

ところがです、たとえ大多数の人たちが無視して知らされていない事実であったとしても、それが実際に作用しているということは大変恐るべきことで、自分たちの悪想念の集合が天変地異を誘発しかねないほどの目に見えない大きなエネルギーを発生させていることに気が付かないまま放置すると最終的にもたらされる結果は惨憺たるものになるはずです。

現にそういった状況は、ここ最近の地球上で起こった辛酸な出来事の異常な多さを見れば、たとえ因果関係を現時点で証明できる証拠が示されていなくとも、心ある人なら今ここに存る危機の重大さを感じ取れるはずです。

だからこそ今は個々人の意識が試されている時と言えます。

自分の意識のあり方に自覚をもって責任を持とうとするかどうかです。

自分の意識を自制しようとする自覚を持とうとせず、自他に対する悪感情を無制限に垂れ流し、それは法律やルールによって規制され罰せられるたぐいでないことを口実に、ただ無頓着なまま生きているとすれば、あるいは他人の目にさえつかなければそれで済まされると甘く見ていたとしたら、自分から発せられた質の悪いエネルギーはすみやかにその人自身と周囲に相応の結果となって跳ね返ってきます。

これらのことは現時点で証拠のない経験的な現象に過ぎないとされています。

そういったことを、信じる信じないも、認める認めないも、最終的に個々人の意識の選択の自由に委ねられています。

説得力のある理論で説明される以前に一人一人の心に向かって自らに問うて確かめられるかどうかにかかっています。

また以上に述べたことを道徳的な単に上辺だけのキレイごとの類として一笑に付して片付けてしまう向きもあると思いますが、それも大きな間違いを生む要因の一つです。

道徳的な捉え方は、たとえそれが正しい論にしても、ことに向き合う姿勢としても、十分な説得力があり、自分と周囲にとって大変好ましい結果になったとしても、それが認められた時、自分の内面のありのままの心の性状を無視して素通りし、もっぱら他人と世間に対する間違いのない振る舞いのみに終始するだけのものなら、そこには置き去りにされた内心の性状と、そのかわりに常に他者の顔色具合や反応と評価に過敏となった外意識との隔たりと、埋めあわせようのない心の隙間が生じることになります。

この自分の偽りようのない内面の有様と意図して装われた外部に対する言質行動の間の隔たりは、即すなわち自己の内と外の乖離を意味し、エネルギー的には大きな矛盾とその反動としての空虚さと望まない大きなストレスを常に生じさせます。

そこから望むようなポジティブな精神状態が生まれることは決して無いうえに、日常的にネガティブな思いが生じる温床となって、心のなかは人に言えないほど暗澹とした思いで一杯になっているという精神状態は、どのような人の人生でも決して楽しいポジティブなものだけで成り立っているわけではないと理解できるほどの月日を生きてきた人なら、誰しもが経験してきた実際の様相です。

そこから救われる術は、自らの意識の状態に対して常に自覚を持とうとし、他者からの視線や評価目的ではなく、自分自身の内面と外部の世界に向き合う姿勢を出来るかぎり一致させる努力を怠らないことです。

今この時により立派な自分である必要は全くありません。

他人よりも秀でていたり特別な自分である必要もありません。

道徳的に自分のほうが正しい位置を占める人間でいたいという思いも余計です。

ただそうなりたいとする自我の願望だけをいったん脇において楽になれば良いです。

その重さで生きることが苦しくなった時はそうしたものたちを手放して自らを楽にできる術と知恵があることを知っているだけでいざという時に強くなれます。

自分の心のあり方は自分で救うほかないと覚悟を決めた時に本当の意味で生きるための自覚を持つことができます。

この光と影の明暗のコントラストの激しい時期は、そういったことを学び取るための一種の試練の時だと受け止める必要があります。


そこを乗り越えた先の未来には大きな可能性が拡がっています。
  





夏から公開が始まっていた岩見沢市(旧栗沢町)の里山にある赤い電車保存地へ行くことが出来ました。



今年の春に建設前の同地に立ち寄ってからの再訪でしたが、事前に知らされている通り様変わりしていました。

 春の参考記事はこちら







隣接するファームレストラン大地のテラスで食事をとるまでの待ち時間に安住の地に落ち着いた赤電二両をじっくり見て回りました。

行楽日和の休日ということもあり、同じ目的と思われる人たちがひっきりなしに途切れること無く訪れていました。





やっぱり電車の中に入れるということで子どもが多かったですね。ついで団体やグループで訪れる中高年の人たちも多かったです。小高い丘の上まで緩やかな斜面を登った先のやや急な階段を少し息を切らせながら登ってくる大人たちと元気いっぱいで駆け上る子どもたちの様子が対称的でした。






元気な子どもたちといえば、赤い電車の車内に駆け込もうとした男の子が、あわやホームと電車の隙間に足を取られそうになってヒヤリとする場面に居合わせました。足腰が弱っている初老の女性グループも現役時代さながらの高い段差をまたぐのが少し大変そうでした。動かない電車とはいえ、若干のバリアフリー化は必要になるかもしれません。




 
一時間ほど待ってようやくレストランの中に案内されて昼食にありつけました。

ランチビュッフェバイキング式なので自分で皿に好きなものを好きなだけ盛りつけられます。

気がつくとメガ盛りワンプレートランチが出来上がっていました、、(汗)





メインディッシュの他に野菜チキンカレーとミネストローネスープも合わせて美味しく頂きました。

昔懐かしい素朴なカレーの風味を残した野菜チキンカレーはこれだけを食べに来てもイイなと思わせられる好みの味でした。

自分でよそってしまった大量の野菜料理をはたして食べきれるのか心配でしたが、待ち時間が長かったこともあって、全てぺろりと平らげて難なく完食、食後のコーヒーとデザートのひとくちケーキと抹茶バニラアイスまで美味しくいただきました。

小さい頃は大の野菜嫌いで肉類がなければ生きていけないと思っていましたが、今では肉はそんなに食べなくてもいいけど新選な菜っ葉類がなければ生きていけない人間になってしまっています。

岩見沢近郊の地場産野菜をふんだんに使った料理は本当に美味しかったです。

人間が健やかに生きていくためには緑の要素が必要不可欠なんだなと実感できる味わいでした。

それでも肉類大好きぼくわたし肉食系という人のためにブラジル料理のシュラスコ食べ放題+の上級コースがあります。

ヘビー級の肉食メニューに果敢に挑戦している女性客グループもちらりと見受けられましたが、さすがに焼き肉並みに平らげることが出来る生粋の体育会系の人はいないようでした。

両親も満足しながら頂いていたようでしたが、おぼろづきやゆめぴりかといった地場産の美味しいお米のご飯がせかっく用意されているのに、ごはんと一緒に味わえるメニューが野菜天ぷらと味噌汁以外になかったことが少しさびしいと言っていました。

年齢的にもヘビーな肉系料理を沢山頂けるわけではないので、ちょっとした巻きずしや魚料理などがあればよりよかったかもしれません。

まだオープンしたばかりの新しいレストランですが先行する人気店にも劣らない魅力とポテンシャルを秘めたお店だと感じました。

これから先に少しずつ充実発展しながら岩見沢南部の旧栗沢町内の地域に根ざした施設に成長していくのが楽しみな場所です。

この地に足を止めた人たちがまた再び足を運んでくれるようになれば良いなと思います。

出来ればまた近いうちに足を運んで赤電に会いに行こうと思っています。

赤電の末永い保存を願ってこれからも陰ながら応援していけたらいいなと思います。
       






今日の道新の朝刊にカシオペア、はまなすの廃止検討の記事が掲載されていました。


以前から予想されていたこととはいえ、あらためてその事実を突きつけられると、こみ上げてくるものは大切な存在を毟り取られるような怒りの思いしかありません。

北斗星、トワイライトエクスプレスは”老朽化”という伝家の宝刀を振りかざしなりふり構わず問答無用で切り捨てられてしまいましたが、日本全国、遠く海外からも大きな潜在需要が存在するにも関わらず、どうして更新のための費用を出そうとしないのか、もっと疑問に思うべきです。

ヨーロッパのオリエントエクスプレスを始め、世界の由緒ある伝統の客車列車は100年前の当時の客車を十分な修繕を繰り返して今も現役で走行しています。

エンジンやモーターといった動力源を持たないシンプルな客車は繰り返しの更新で非常に長い期間にわたって走行することが可能なのです。

もうかなり以前の話になりますが、2000年代はじめに青函トンネルを走行していた快速海峡用の50系客車が中国の遊覧鉄道用に輸出されるために、苗穂工場で整備を受けたことが道新の記事に載っていました。

この客車は残念ながら先方の都合でキャンセルされ、留置先の苫小牧港で解体処分されてしまいましたが、道新の記事においてインタビューに応えていた当時の苗穂工場の技術責任者の方が語った弁によれば、車齢の進んだ客車でも適切な更新修繕を繰り返せば最長で50年近くは安全に走らせ続けることが出来ると自信を持って語られていました。

それから十数年後の安全運行を揺るがす事態に至った経緯を考えると、この時すでに安全運行に必要不可欠な適切な修繕のための費用を、利益確保のためのコストカットという大義名分に流されるように削られ始めていたのかもしれません。

当時の技師長のインタビューは深刻化する内情を何とか外部の人に婉曲的に訴えるための苦渋の思いが込められていたのではないかと察します。

鉄道を一つの文化事業として人々の間で振興する姿勢について日本は諸外国に比べて一歩も二歩も立ち遅れているのが現状です。

ドイツ、イギリスなどヨーロッパの各国やアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの鉄道先進国では、各地に本線走行を行う本格的な保存鉄道がゆうに日本の数倍の規模と数で点在していますし、そこではSLや内燃電気機関車を始め多数の歴史的な客車も同時に保存運行され、その地域の近代歴史を伝える大切な文化財として、同時に外部から多くの人たちを呼び込める観光集客施設として活発に運営されています。

日本はかつて動力近代化を達成した1970年代に惜しまれながら引退していったSLたちを各地の公園などに大量に静態保存しましたが、それらの多くは後年に解体処分された一部を除いて今でもその姿を見ることが可能です。

そういった静態保存されたSLの中から動態復元された車両が今、日本全国の路線で運行され多くの人達を昔日の汽車旅の世界へ誘っています。

ところが、SL現役当時の歴史的な客車編成は単なる付属物として扱われたため、ブルートレイン以前の古い戦前から続く日本の鉄道独自の客車編成は、皇室車両のような特別に貴重とされた車両などを除いてことごとく大量に処分されました。

そして今、残されたブルートレインや平成生まれのカシオペアでさえなかば無用の廃棄物と見なされて最終的に処分されようとしています。

一般に歴史的文化財として認知されたSL本体よりも後ろに牽かれる客車のほうが遥かに希少な存在になっていることに一般の社会は未だに気付いていません。

SL以上に希少になっているといえば、SLを引退へ追いやった動力近代化の旗手である内燃電気機関車やその時代と地域を代表する電車や気動車も同様な状況で、本州では盛んに保存されるようになってきたとはいえ、そのほとんどは象徴的な先頭車のみの保存で編成単位の生きた状態で運行されている例はごくほんの僅かしかありません。

SL以外の歴史的な名車両の生きた勇姿を見続けながら時に乗車したいという多くの老若男女のニーズに日本の鉄道社会は十分に応えることが出来ていないのが現状です。

SLから電気、内燃へといたる動力機関車の進歩と、鉄道が走るそれぞれの国々の歴史と生活風土が密接に関わりながら反映した旅客車両の形態文化はそれぞれ対になる貴重な歴史文化遺産であるという認識が、アジア一の鉄道先進国であるはずの日本においてもっと今まで以上に根強く定着されることを望みます。
 
 
赤字を盾になりふり構わず田舎の駅を廃止したりSL観光列車を削減するなど、そして根強い需要や新たなニーズがあるにも関わらず、利用客の要望に応えることを一方的に放棄しながら発表された本州連絡寝台列車の完全廃止の検討ですが、その替りとなる北海道新幹線自体が大幅な赤字に陥る可能性や、JR東日本が運行する東北新幹線との収益分担が一体どうなっているのかなど、本当に重要な情報がことごとく隠蔽されてマスコミを含めてどこも追求しようとしないところに不信感が募ります。

経営の厳しいJR北海道とJR四国に向けて老朽化した設備を緊急に補修するために国の税金予算から積み立てられた総額で1,000億円以上の助成金によって、問題になった線路やコンクリートが剥がれ落ちる高架橋やトンネルは後回しで、災害で被災した路線の復旧工事にはまったく割り当てられず、もっぱら札幌都市圏と特急用の新型車両に投じられる現状にも激しく疑問を感じます。

JR北海道向けのみならず札幌市営地下鉄用車両など北海道新幹線も含めて神戸のK重工にほとんど全てに近い大量発注している実態などからも、老朽化した地方の鉄道のインフラを維持するというのは実は半分以下の建前に過ぎず、実際は特定の企業に対する官製の利益誘導と見なされても仕方のない在り様です。

来年の北海道新幹線開業後に在来線特急のスーパー白鳥用789系が大挙して札幌圏に転用される予定ですが、同時に札幌と新千歳空港を結ぶエアポートカムイから789、785系が撤退することで特急用電車の必要車両数がそのままでも余る計算になります。

785系の老朽化置き換えとして活用するという理由で今のところ落ち着いていますが、先日の青函トンネル内での異例の発火事故からも覗えますが、デビュー以来、海底トンネル内の高塩分の湿気にさらされてきた789系の方が電気系統の老朽化は著しく、一方で車齢が高いとされる785系の方は近年にモーターと電気制御系一式すべてを新型車両と同様のものに交換されているため、青函トンネルを走り続けた789系よりもかえって785系の方が状態は良好かもしれません。

狭い車内の特急用車両がいつも満員の空港連絡快速列車として無理に運行され続けていたことは問題ですが、785系や青函用789系の車内の座席を一部撤去して内装構造を大きく見直すなどして出来る限りの混雑対策を施した上で、停車駅の少ない快速列車用として活用するなど新車費用の抑制活用策は出来ないものなのでしょうか。

僅か3年ほどの間に同一系列の通勤用電車が100両以上一気に投入されたことはJR北海道においては発足以来いまだ前例のない規模の出来事でしたが、短期間に大量投入した車両群は今後15年先には一斉に電気系統の老朽化と更新の時期を迎えてしまいます。

一方で同じ時期に投入したより高価な北海道新幹線用H5系は高速走行による激しい摩耗と東京~新函館北斗間の長い走行距離により15年以内に早くも老朽廃車の時期を迎えます。

2030年前後の北海道新幹線の札幌開業時前後には老朽車両の大量更新と新幹線車両の増備と取り換えの時期を同時に迎える計算になりますが、これらに対応する財源の確保をはたして責任ある偉い立場の人達は今からちゃんと考えているのでしょうか?

同じ時期に大量に新車を導入することは将来的に一斉老朽化のリスクをもたらす結果になることから、既存の車両を更新しながら上手に長持ちさせて新型車両は小刻みに導入することで将来的なリスクを分散する計画は、同じく経営環境の脆弱な離島会社のJR九州やJR四国は長年に渡り実践していることです。

老朽化した古い車両を一度に数百両以上の単位で一斉に交換出来る鉄道会社は、首都圏を擁するJR東日本と国に頼らなくとも自前でリニア新幹線まで建設しているJR東海くらいなものです。

関西都市圏と山陽新幹線を擁するJR西日本でさえ地方のローカル線区を多数抱えていることから、新型車両の導入は慎重な計画に基づいて小刻みに行われ、第一線で活躍する既存の古い車両に対しては、社内でN40体質改善工事と呼ばれる古い車両を一旦全てバラバラに分解して新車同然にリニューアルするという大規模な延命更新工事を施すことでバランスのとれた車両導入計画をおよそ20年前から実施しています。

ひるがえってわれらが地元北海道の零細鉄道会社はエンジンやモーターが火を噴くまで使い倒され、まだ使う見込みのある車両でさえも、昭和年代に製造されてからほとんど一度も大規模なリフォーム工事を受けないまま可哀想なほどボロボロな状態になるまで走り通し、長年地域の人々と会社経営の両方に貢献してきたにも関わらず、また日本の鉄道史に残すべき歴史ある名車でさえも最後は廃棄物同然にあっさりとスクラップ処分するという徳の無い会社です。

まだ深刻な老朽化が始まる直前の2000年代に入った時期に、見栄で他のJR各社が羨むような高性能車両や奇抜なだけで実用性の全くない新技術とやらを矢継ぎ早に開発するのではなく、長距離特急用の負荷の大きい旧式エンジンを徐々に環境対応の小型低燃費なものに交換していたら、先日惜しまれながらも引退した赤い電車やそれよりも先にリタイヤしたL特急ライラック用の781系電車など、もしもJR西日本と同様に完璧な延命工事を施工していたなら、また一方で青函トンネル用の連絡特急を経営に格段の余力があるJR東日本の運行にすべてを任さて乗り入れ料金を収入源として新型車両導入コストを抑えていたなら、さらに北海道新幹線も自前の車両と運行設備を持つことを札幌開業時までお預けにして待つ勇気ある決断ができていたなら(せめて自前の車両を持ったとしてもJR東日本にリース貸出し扱いにして大規模な運行設備まで無理して揃えなければ)まだまだ人気と新たな需要が期待できる本州連絡寝台特急列車を廃止させず新幹線札幌開業時まで温存できていたかもしれず、あわや大惨事の人命に関わる脱線炎上事故や取ってつけたような理由ばかりで地方の路線や地域にとって大切な駅を無闇やたらに廃止しまくるような不幸な事態はまったく起こっていなかったかもしれません。


ここまで事態の経過を振り返ってみると個人的に言いようのない悔しさで忸怩たる思いですが、ここまで事態が悪化してしまった後では失ってしまったものたちを取り戻すには時既に遅過ぎて、せめてそこまで至らせた本当の要因と向き会わずに都合の良い言い訳だけで臭いものに蓋をしたまま放置させず、しっかりと因果関係を糾明してそこから教訓を導き出し今からでも悔い改めるべきものは改めて、同じ過ちを再び繰り返すことのないための善処が責任ある人達の手によってなされることを期待するしかありません。
 
大量に投入された新型車両と肩を並べて製造から20年以上を迎えた既存の車両も札幌都市圏の通勤輸送の第一線で活躍中です。JR発足最初期に投入された721系グループは電気系統の老朽化とデッキ付きの車内の混雑が弊害になっていますが、それらの改善工事が2000年代後半から徐々に始められましたが今は休止されたまま全く手を付けられていません。

札幌都市圏の寒冷地に対応した通勤輸送スタイルを確立した731系も目に見えて老朽化が進行している様子が素人目にも確認できる有り様で、これらの車両グループの老朽化が今後の安全運行の新たな障害となるような予感がして利用者として普段から乗車していて思わず心配になります。

これらの第一線で活躍しながら老朽化が進行している車両の修繕に相変わらず予算が優先的に回されていない理由は先に触れたとおり、単なる老朽化の修繕工事では車両メーカーを始め大企業の利益にならないからではないかと思われます。
 
聞きあたりの良い一聴して説得力の有りそうな、もっともらしい理由付けや大義名分による分厚い建前の壁の裏側で、うず高く積み上げられた利権の山から最大限の利潤を吸い取ろうとする政官財の癒着関係の影があまりにも色濃く見え隠れしています。


最近、最も世間を騒がせて今日になって取り下げた某パクリ疑惑ロゴマーク問題にしても、世界最高峰のスポーツの祭典という美辞麗句の建前の後ろ側で取り交わされるグレーな合意さえあれば、最終的に偽物であれ本物であれどちらでも良かったのではないかと思われます。

あの宇宙船チックな屋根の費用の問題にしても、奇抜過ぎるデザイン案を設計した世界的に著名なイラク人女性建築家の費用算定不足として片付けられていますが、本来の設計段階の費用の10倍近い額に水増しされたとして裁判になっているようです。

もうマークの問題にしても屋根の問題にしても利害の関係ない人たちの中から公募して、これ以上、尊敬に値するアスリートたちの競技に対する取り組みに泥を塗ってほしくないというのが多くの人達の率直な思いではないでしょうか。

専門分野の競技場の設計は建築家に任せるほかありませんが、ことマークに関しては大人の世界の小汚い利害関係が一切入り込む隙のないように、日本全国の小中学生に書いてもらったデザイン案の中から一般投票で選んだほうがより公平で良いのではないかと思われます。
 
今日のカシオペア、はまなす両寝台列車の廃止の報からオリンピック問題まで至った長ったらしいウンチク記事の最後に言いたいことは、余りにもキレイでご立派に描かれた建前だらけのハリボテ社会の表の顔と裏の本音のえげつないほどのモラルの欠如が人間社会においてごく当たり前の当然な習慣として、そうではないまっとうな大多数の人々によって無条件に追認され受け入れられてきたことに対して、もっと強く疑問の意識を持つべきではないかということです。

 
世の中が都合よく定めた建前だけの常識にただ従順でいることが成熟した社会人としての美徳のように信じているとすれば、それはあまりにも飼いならされた存在に成り下がってしまったということに、これまでしっかりとした信念を持って地に足をつけて生きてきたと胸を張れる人ほど気が付いてほしいと思います。
                       
               
           


 
 
単なる貪欲さだけで生きていける時代がもう間もなく終わろうとしています。


ひたすら貪欲に、あらゆる物質に数字だけの価値をかぶせて貪るように獲得してきた富の価値を、世界中のどこも誰も保証することができなくなるからです。

根拠の無い理屈の力で実体の無い価値を無限増産し、その一方で溢れかえるほど増殖し続ける富をこの上なく希少な価値あるものとして取り扱い続けることは明らかに相反し矛盾する行為です。

人間はどこか、そういった虚妄な行為に集団で耽ることに何か崇高な理念や夢を見続けていたようです。

世界の貧弱な実態を強くするためには足りないものが多すぎました。
 
地球上の全ての国々や人々たちが、信じてあてにしていた富の価値に裏切られる時、今の人間は身の丈のちっぽけさをもう一度思い知らされることになると思います。

個々人の人生や夢や理想を現実化させるための力は富にあるのではなく、その人一人一人の内面の奥の核となる純粋な意思の力によります。

富の世はそれら個々人が持つ力を巧みに誘導し利用してきましたが、何時頃からかその引き換えの交換条件として約束されていた人生と生活の安寧を保証することを半ば放棄し始めました。

古い富の世と人々の契約が今まさに切れようとしているのです。

富の没落と同時にむき出しの暴力が急速に台頭しようとしています。

失われた価値の報復として待ち受けているのは焼きつくす地獄の業火です。

自らの価値が否定され打ち捨てられようとした時、富が人々に対して返す答えがそれです。

今なら、まだギリギリ間に合うという安請け合いな希望を捨ててはならない時だと思います。

目前に迫る深い谷間を飛び越えて、無事着地を果たした先に拡がる新しい時代の大地は再び富の世であってはなりません。

人間が本当の意味で自立した精神の存在として起きるには、まだまだ長い道のりの過程が待ち受けているのです。

恒久平和の実現はその長い道程の一里塚であり新たなスタートに過ぎません。

一人一人が、物事に対する芯からの謙遜と自覚の上に、今は真剣に立ち返らなけらばならない時だと思います。

本格的な秋の到来を喜ぶとともに、世界に拡大する騒乱の火種を打ち消しながら、平和な新しい時代のサイクルが今度こそ本当に始まることを切に願って、夏の終わりの今日の独り言としたいと思います。
      
   





北斗星のラストランを撮り終えて一段落ついたところで過去画像の蔵出しと仕上げを始めています。

いつまでも大事に蔵の中にしまっておいてもワインやウィスキーのように価値が上がるわけではなさそうなので、なるべく早く鮮度が落ちない内に出しておきたいと思っているのですが、何分一枚一枚生データからの手動仕上げなので、右から左へチョチョイのチョイというわけにはいかないものです。




昨年の春、まだ定期運行だった頃に新札幌駅ホームで何気なく撮った1カットですが、これとて今となっては撮り直しのきかない記録の一枚です。

ありきたりなカットでも出来るだけ丁寧に仕上げて捨てる事のないように心がけています。






基本的に一つの構図パターンにつき一枚撮り切りとしているので、沢山のストック写真を持ち合わせていないのですが、それでも思った以上に枚数が溜まっていて全部仕上げられるまでにはまだ相当の時間がかかりそうです。

中には旧式機材特有の大きくカラーバランスが崩れたカットもあって、そういった難物は記憶をたよりに出来るだけニュートラルな色合いに近づけるように、半ば修復と言ってもよい作業を繰り返すことになります。

撮影時にカメラが記録した生データからコントラスト、シャープネスの兼ね合いを見ながら仕上げて行きますが、若干派手目よりな仕上げになっても見た目に好ましい記憶色に近づけるところがミソです。

この辺りは人それぞれ好みの差が出やすい部分ですが、カメラがとらえた光の明暗に対して人間の肉眼で見た映像は暗い部分は明るく、明るすぎる部分は暗くといった具合に、脳が色合いも含めて自動的に見たいように見えるよう自動補正しているそうなので、機材が撮った時点でのニュートラルさよりもむしろ主観的に好ましく見えるほうが実際の印象に遠からずあたっているのではないかなと個人的に思っています。

北斗星が完全引退したところでいよいよ道内からは撮るべき被写体となる列車も限られてくることから、今までのスタンスで写真を撮り続けても、これまで撮りためたカットを上回る魅力的な一枚を撮ることは難しくなりそうだと感じています。

ただ惰性で繰り返し撮り続けても、過去の成果を上回ることもできないばかりで虚しさだけが募りそうなので、この先も鉄道を含めて写真を取り続けていくために何か根本的に自分の取り組むスタンスや考え方を変える必要がありそうです。

これまで人さまの作品をまじまじと見る方ではなかったのですが、日本最後のブルートレインとなった北斗星の大団円のそれぞれの成果を拝見したく思い、ネット検索をかけたりして目に止まった作品を縦横無尽に見ていきましたが、そのどれもが想像以上にハイクォリティーでただ驚くばかりでした。

ピントも構図も露出仕上がりもほぼ完璧で突っ込みどころがないばかりか、そういったもはやプロレベルの写真がごく当たり前のように何十枚も決めてくる様に圧倒されるばかりです。

これはどうこだわってみても、もはや自分のような即席B級写真を大量生産している人間が出る幕ではないなあと思い至った次第です。

北斗星だけに関して見ても、こちら側のDD51青釜x2先頭のみならず関東~東北のEF510や青函のED79まで含めても完成度の高い、高すぎると言ってもよいくらいの出来栄えです。

近年の撮影機材の目覚ましい進歩もさることながら、撮影者どうしの切磋琢磨による熟達の度合いこそが最大の決め手だと思います。

自分も負けてはいられないので、これまで以上に精進して一縷の隙もない完璧なカットをものに出来るようチャレンジし続けようと思います、、、と言いたいのはやまやまなのですが、それは果たして今の自分にとって相応しいスタンスなのかと自問すると、その答えは否と出ます。

体力的にも経済的にも年齢的にも厳しくなってきたという条件面での制約は否めませんが、でもそれらが一番の理由ではありませんし、それでモチベーションが下がるということもありません。

優劣を競う気持ちで写真を撮りたくないというのが一番の本音です。

自分の撮った写真の出来栄えにはこれでも一方ならない拘りや思い入れがありますが、それは自分以外の人に向けて誇示したり主張する為のものではなく、一重に好きな鉄道車両や情景の姿を自分が見て感じたままに静止した一枚の画として記憶に留めて置くためのものです。

気が付くと結構な長い期間にわたり撮影に勤しんできた経験から言えることですが、自分がその被写体にカメラを向けて撮影するにあたり、どのような気持ちで向き合うのかという心のスタンスの違いは最終的に写した一枚のなかに如実に顕れるものだと思います。

いざシャッターを切る段になってからイメージが大事とか色々あれこれと考えながらカメラを振り回していると、結果的に何と何を入れて撮ったのかイマイチ解りづらい結果になったり、単に雑念が増して失敗に終わるだけといったことになりがちなので、本番はシンプルになるべく余計なことを考えないほうが無難です。
 
その被写体を撮ろうと決めた最初の心の挙動が核となって結果に反映されます。

自分が最初にその写真を撮ろうと決めた時の装いのない始めの動機が結果である作品から伝わる個性や印象に強く結びつくと思います。

なので、常に自分の心のうちに何があって結果的にどういったニュアンスを込めたのかを自己観察することが大切だと考えています。

ここからはより幅広い意味で内観的な話になりますが、これまで自分の中で到底見つけることは出来ないだろうと信じて丸ごと棚上げしてきたある問いかけに対して今この時にこそ、その問いかけの答えを見出さなければならないと切実に思うようになりました。

写真撮影に関しても、この難しい問いかけに対して明確なものでないにしても、一応の回答を見出さなければ、これまでよりも一歩進んだ表現の領域に入ることが出来ないのではないかと感じています。

鉄道のような人工的な機能物や、または自然風景のように直接人間が関わらなくとも成立している分野に触れる際は間接的な表現に徹することで避け続けることも出来ますが、こと直接的に人間そのものを扱い表現しようとする個人的な創作においては、この問い掛けに対して段階的に答えを見出し続ける必要がより一層増してきます。

この難解そうで実は単純明快な問いかけが一体何を意味するものなのかを言葉だけで説明することは難しいですが、いずれ近いうちにそれらを表現できる端緒のようなものを見つけられそうだという予感はあります。

いずれにしてもこれまで長らく思考してきたことを実践に移すことあるのみです。

結果と結論はいずれ後からついてくると気楽に考えています。

来月以降、徐々に暑さも過ぎ去って、いよいよ秋が深まり始めますが、今夏をもって北斗星が廃止された後も来冬までカシオペアとはまなすが存続することが決まりそのことだけは素直に喜んでいます。

これまでの撮影スタンスの延長線にすぎませんんが、北斗星までで撮りきることの出来なかった若干のカットに限定して再び撮影に出ようと考えています。

これまでのスタンスから新しい表現のスタンスへ移行と飛躍を図ろうとするこの時期でも変わらず大切なことは、自分本来のスタンスを見失わず未消化のカットをものにして一時代の記録集を完成させることです。



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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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