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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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「自分は愛の無い家庭に育った・・・」加藤被告が自身の発言の中で度々語っていることです。本人がそれを言う事で何か同情を誘うような体の良い言い訳のようにも聞こえますが、これも被告の偽らざる実感だと思います。この点については率直に理解できるところもあります、ぼくもこれまで生きてきた中でそういった思いを誰もが大なり小なり抱いてきた様子を垣間見てきているからです。ぼくは加藤被告の家庭環境について詳しくは知りませんし、被告の家族や両親についての本当の気持がどうだったのかも分かりません。でも一つ言えることは、加藤被告が言うように愛が全く無かったのではなく、むしろ両親や家族は被告のことを愛していましたが、その愛し方がどこかでボタンを掛け違ってしまったのではないかということです。ぼくにはそう思えるのです。

前回の記事で加藤被告は錯覚に錯覚を重ねながら、とうとう行き着くところに行き着いてしまったと書きましたが、子は親の鏡という言葉の通り加藤被告のそれと全く同質な思い違いが両親の愛の中にもあったのではないかと思います。加藤被告は社会や他者に対して、自分の願望を叶える都合の良い舞台、自分の考えや行動を常に肯定してくれる上で、これもまた願望を叶えてくれる手段としてしか認識できなかったように思えます。それはそっくりそのまま両親の価値観や人生観の反映でしょうし、そして加藤被告も両親からそういった要求を受けて、絶えずそれに応え続けることに何の疑問も持てなかったのだと思います。両親はそういった要求を我が子に求め続けることが、被告はそれに必死に応え続けることが愛であると信じて疑わなかったのではないかと思います。

そういった客観性が不足した考え方で外の世界を生き続けるということは、つまづきと壁にあたることの連続だったと思います。でも、客観性が不足して壁にあたるのは古今東西の若者がフツーに経験して乗り越えていく過程です。ぼくはそういった人生の壁を乗り越えていくために必要な基本的な考え方は、人生における時間の捉え方にあると思います。錯覚や矛盾のように思えることも、そこを越えて次の峰に至る道筋だと考えることができれば、たとえ一方ならぬ時間と労力を要したとしても、困難は自然と過ぎ去っていくものだと思います。ところが加藤被告のように”今、この時”に全てを求めると行き詰まります、人間は過去や未来を集約することで思い通りにすることはできません。

本当の自分を受け入れることも、他者を理解して認めることも、孤独の壁を乗り越えることも全ては時間を知ることから始まります。人は時間の流れと絶え間ない連続の中で生きていることを受け止めて、その中に確かな希望が存在することを信じることができれば、もはや絶望に支配されることはありません。しかし、人が時間の流れを見失い比較の罠に嵌った時に、人間のあらゆる好ましくない性質が姿を現します。比較は全く無意味です、なぜなら一人一人全く違った道筋と時間を生きているわけですから。また、人生において望ましいことと望ましくないことをより分けることも不可能です、それは時間の流れを無視することで生じる錯覚です。自分の時間を見失って絶望に因われてはいけません、絶望は人の心を冷たく残酷にするものです。

愛と称して、その実、自分が望む願望の虚像を押し付け、それ以外は一切受け入れずに排除する。そんな残酷な仕打ちが、今を生きる多くの人たちの”愛”の実態ではないでしょうか。その残酷な愛に対する絶望が、加藤被告をあの凶行に駆り立てて、被告の言う”憎むべき勝ち組”などでは決してない、遺された人にとってはかけがえのない愛すべき存在だった七名の尊い命を奪ってしまったのは本当に悲しいことです。

加藤被告は自らの甘えと弱さゆえに勝手に絶望し、関係のない多くの人たちを傷つけ命まで奪い自身の人生も破滅に追いやってしまいました。被告は、その要因を自分自身の愛に恵まれなかった境遇のせいにしたいように見受けられますが、もしそうなら筋違いです。たとえ、どんなに必要な要素が欠如した境遇であろうとも、人にはそれを自らの意思と行動で乗り越えていけるだけの力と責任が与えられているのです。自分の中に愛が欠如しているということを知ったということは、それはそのまま本当の愛を知る道筋につながる暗示でもあったのです。今さら何を言っても遅いのは分かっていますが、絶望のすぐとなりに希望の道が用意されていることに、なぜもっと早くに気が付くことができなかったのかと思わずにはいられません。


本当の愛は、今この時に完全な姿と形を持って存在するわけではありません、それは絶えず流れて変化する時間の中に存在します。ゆえに手に入れて所有したり誰かから与えられることもありません、ただ人生の長い時間と過程の中で少しづつ気付いていくだけで良いのだと思います。ぼくと同世代の若者も、すでに子を持つ親になっている人も少なくありません。親になって我が子を目の前にしたときに、本当に我が子を愛するとはどういうことなのか、一度立ち止まってじっくりと考えてみるべきだと思います。そうすることが、もしかすると我が子の心のなかに"加藤被告”を生み出さずに済む一番の方法だと思います。

 (おわり)
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_IGP2969.jpg

最近、マイケル・ジャクソンの音楽を聞く機会が増えました(^^A)

そこで、いちいち聞く度にPCを起動させるのは面倒なので、以前あったオーディオシステムで使っていたCDプレイヤーを引っ張り出してきました。ところが、設置予定場所からPCスピーカーまでのケーブルの長さが足りませんでした。



_IGP2964.jpg仕方がないのでPCデスクの上に置いて使っていました。年末からこの状態だったのですが、さすがに邪魔くさいです(笑)

そこで、これまた在庫処分で買ってストックしてあった切り売りケーブルを使ってピンケーブルを自作することにしました。材料はこのとおりですが、ドイツWBTの銀入りハンダを使っているのがミソです。プラグは安くても高品質なカナレのものです。



_IGP2973.jpg久しぶりのハンダ付けでしたが、何とかイモにならずに済みました(--,)

完成するとこんな感じです、何となく高級ケーブルに見えなくもありません。オーディオテクニカのアートリンクシリーズの最下級の旧製品ですが、制振まで考えられた良いケーブルです。音質は柔らかで尖ったところが無く、個性は控えめですが適度に透明感があります。



_IGP2979.jpgようやく収まるところに収まりました。まだ健康でバイトができた頃に、家にあったLD/CDコンパチプレイヤーがどうにも音がきつく嫌気がさしたので、お金を貯めて買ったちょっと思い出の品でもあります。

たしかサンスイの最終期の製品で、回路構成はシンプルですが、今からするとCD聞くためだけにかなり贅沢な構造をしています。



ボーズのPCスピーカーでは不釣合な気もしますが、けっこう良い音を聴かせてくれます。特別な切替機構はありませんが入力端子が2系統あるので、PCとつなげ替えなしで聞けるので便利です。


前回の記事の続きですが、現実の人間関係について、もう少し深く考えてみようと思います。前回の記事に、人は周囲から期待される”その人”であり続けるように努める義務を背負うと書きましたが、これを言い換えると人は対象とする人や物事との関係によって、その時の自分の在り方があらかじめ決められてしまう存在だとも言えます。例えば親の前では良い子かどうかは別として、親から見た子でなければなりませんし、友達から見た友人として、恋人から見た彼氏、彼女として、学校及び先生から見た生徒として、会社から見た社員として、などなど、対象とするものと自分との関係をいくつも演じ分けなければなりません。英語で個人を意味する”Personal”はもともとギリシャ語のペルソナが語源で、その和訳は”仮面”だそうです。なるほど~と頷かされる話ですが、まさしく人間関係は仮面を介した個人同士のつながりであることがわかります。

加藤被告に限らず、誰しもが他者から自分の存在を認めて欲しいと願っていると思います。先に述べた通り、どんなに自分が理解されることを求めてみても、相手が求める関係性のごく狭い範囲でしか自分を表現する機会はありません。また、その中で期待に応えるために一生懸命に努めても見返りとして受け入れられる部分はごくわずかだと思います。加藤被告はそのことを理解できなかったのではないかと思います。被告は自分が即座に他者や社会から許容されることを夢見る一方で、現実には拒絶される経験ばかりが圧倒的に多かったのではないかと思います。その反面、自分以外の人たちが人間関係や社会において順調に立場や関係を創り上げていく様子を目の当たりにして、それがあたかも自分以外の人たち全てが何の障壁もなくそれらを築き、全面的に自分の存在を受け入れられていると錯覚したのではないかと思います。

その錯覚と自分を取り巻く現実の落差が、被告の社会や他者に対する憎悪をさらに増すことになったのは想像に難くありません。このことに限らず、被告の価値観の中にはそういった錯覚につぐ錯覚で現実が完全に見えなくなっていたのだと思います。ここに加藤被告の存在が無視できない最大の理由があるように思います。被告のように自ら生み出した錯覚によって完全に思考が支配されているような場合はそう無いことだと思いますが、そういった錯覚を生み出す要因やその一部分については、今を生きる普通の人たちの中に当たり前に存在していることだと思います。

加藤被告の認識において、錯覚の他にもう一つ重大な問題があります。それは、自分の本当の姿を受け入れる勇気と術を両方とも持ち合わせていなかったことです。自分が欠点だらけの不十分な人間だという現実を受け入れることができなければ、それはすぐに強烈なコンプレックスに変わります。どんな人にとっても、等身大の自分をしっかり受け入れるということは苦しいことかもしれませんが、そこを最初に乗り越えなければ自分を取り巻く現実的な問題に対して何一つ有効な対処ができなくなってしまいます。自分に降りかかる問題の多くは自分の外側に原因があるのではなく、自分の内側に原因が在る場合がほとんどだと思います。現実の自分を受け入れて願望の自分像と安易な自己正当化を捨て去らなければ、自分に降りかかる困難は全て他の何か(誰か)のせいにするという重大な錯覚をまた一つ意識の中に作り出してしまうことになります。そういった錯覚で生きることの末路は、出口の見えない堂々巡りを繰り返すか、最悪は行き詰まりの人生です。

でも実際はそういった錯覚や矛盾だらけの人生を送り続けていると周囲との摩擦や軋轢をきたして、いずれは本人に改善と変化を促す流れが生じるものです。普通はそこまで絶望的な状況に陥いるずっと前に、自然な不可抗力に促されて変わらざるおえないようになって少しずつ良い方向に進んでいくものですが、加藤被告の人生は不幸にもそうはなりませんでした。加藤被告の場合、自分を受け入れることをかたくなに拒み続けるために、間違ったプライドの壁を周囲に築き自ら拒絶を強める道を選んだように思います。一方、内側の意識においては錯覚と御都合主義で練り上げた世界に住み、それがあたかも現実の正しい認識のように思い込ませることで完全な自己完結をなしたように思います。そうすることが信念を持つことで自己を確立する正しい道であるという、これもまた大きなそして危険な錯覚を意識の中に作り上げていったのだと思います。

このように加藤被告の人生の経緯を一つ一つ考えていくと、同じ時代に同じような価値観の中で育ったぼくたちの暗い一面を覗かせる鏡であるかのように感じられます。加藤被告をそうたるように作り上げた要因は、たしかにぼくたちがこれまでに生きてきた、またそれ以前から続いてきた時代の空気と価値観の中に潜んでいるのだと思います。そこを見極めていかなければ、アキバ事件の真相も加藤被告の存在の正体も、さらにはぼくたち同世代と前後の世代が抱える価値観の齟齬と人生のジレンマを解決することもできないと思います。

ぼくは、その謎を解く鍵の一つは「時間認識の欠如」であると思っています。次回はそのことについて書いていきたいと思います。


今日昼ごろ、函館本線、深川~妹背牛の踏切で旭川発札幌行き特急スーパーカムイ24号と立ち往生したダンプが衝突したとの一報が入りました。列車の乗客、乗務員、ダンプの運転手ともに軽症とのことだったので、そんなに大事ではないなと安心していたのですが、一方で130km/hのカムイと大型ダンプですから何となく嫌な予感を感じました。

午後のニュースで現場からの中継を見て、その嫌な予感は的中しました。原型を留めないほどに押しつぶされた789系の先頭車が映し出されていました。衝突したダンプの方はバラバラに分解して200m先まで飛ばされていたようで衝撃がいかに大きかったかが想像されます。これで列車の乗客、乗務員はもちろん、バラバラに分解したダンプの運転手もよく軽症ですんだものだと思います。乗客の方々も軽症とはいえ多数の方が負傷したようで、地吹雪の舞う寒々しい線路上をバスに向かって重い足取りで歩く姿は痛々しいものがありました。

現場は北空知の田園が広がる平野で、このような周りに遮るものがなにもない場所の道路は、真冬になると猛烈な地吹雪になって道路と雪原の区別が全くつかなくなります。それどころか視界がほとんど0になって突然ホワイトアウトすることも多々あります。ですから、ダンプが誤って踏切に進入してしまうことは充分に有りうる事です。問題なのはその後の対処の仕方です。一番良い対処法は踏切に進入してしまったと気づいた時点で止まらずにそのまま突っ切ってしまうことです。たとえ踏切内で止まってしまったとしても、落ち着いて低速で前進すれば脱出できます。ところが、ダンプの運転手はバックで戻る選択をしてしまいました、そしてスリップして身動きがとれないまま列車が来てしまったのです。

一般のドライバーの間でも、踏切の遮断棒が簡単に持ち上がって前に進めるようになっていることを知らない人が多いようですが、職業ドライバーの人がいざという時に正しい対処ができなかったことは残念ですね。幸いにも、列車が衝突した部分がダンプの後部だったために助かりましたが代償は大きいいですね。このような事故は数年前に美幌でも起きています。


IMGP5569-2.jpg今回、事故にあって大破した789系HL-1005編成です。あれほど大破しているのと、衝撃でフレームが歪んでしまったことから、写真に写っている前2両はおそらく廃車となるでしょう。

ファンの心情としては何とも寂しく切ない思いですが、ぶつかったのが最新型の789系で良かったと思います。




IMGP5725.jpgというのも御存知の通り、カムイは前身のスパーホワイトアロー以来の785系と共通運用で運行されています。写真で比べていただければ分かると思いますが、785系では運転室が低い位置にあり、もし今回の事故でこちらに当たっていれば、列車の運転手も軽症では済まなかったでしょう。事故後の潰れ具合から察するに、もしかすると命を落としていたかもしれません。




JR北海道は踏切事故対策に無防備な車両で乗務員が重傷を負った事故を契機に、事故対策を強化した高運転台構造の車両を導入してきました。今回の事故で図らずもその効果が証明されたわけです。

かえすがえすも死者、重傷者が出なかったことは不幸中の幸いです。こういった踏切事故を予防するのは、一人一人のドライバーの注意にかかっているのはもちろんですが、踏切に障害物検知器を設置したり、道路と線路を立体交差して踏切の数自体を減らす対策も必要だと思います。

こういった対策を進めようにも、鉄道会社単独では出せる予算に限界があるのが現実です。ましては収益が低い離島三社のJR北海道ではなおさらです。今回の事故の区間では、特急カムイだけで一時間に4本の列車が130km/hで駆け抜けます。比較的に近年に建設された石勝線の新設区間では道路は全て立体交差で踏切はありません。そこよりもはるかに運行数が多い函館線や千歳線でもそのような対策が必要だと思います。

自民党政権が国鉄、社会党潰しで功を奏して以来、民営化会社に負担を全て背負わせるという鉄道冷遇策を長年にわたってとり続けてきましたが、これからは自動車、道路偏重政策を改めて公共交通としての鉄道に必要な政策が実施されることを期待します。


今日の夕刊の一面に加藤被告謝罪の見出しが大きく出ていました。今さらこの事件について、あれこれ書くのは正直ためらう気持ちもあるのですが、書くべきことが思いついたので記しておくことにします。この事件については多くの人がそう思っているように、忌まわしい事件であると同時に加害者についても社会的な被害者の一面があることについて複雑な心境を感じています。

今日のニュースの中で、事件の被害者の方が加藤被告から謝罪の手紙を受け取り、それについてあえて返信したことが取り上げられていました。その被害者の方は腹部を刺され、今でも神経が繋がっていないことから痛みが生涯取れない身体になり、やむなくタクシードライバーの職を辞することになるなど、一命を取り留めながらも人生に甚大な被害を被りました。それでもあえて被告とやりとりをする決断をした理由は、この事件後も類似の事件が後を絶たず、加藤被告の人生の経緯を理解しなければこの先も類似の事件を防ぐことはできないという思いからだったそうです。

ぼくは加藤被告の犯した罪ついて全く情状酌量の余地が無いと思いますが、同じ世代、同じ時代を生きて育ってきたものとして無関心ではいられないという思いもあります。加藤被告の謝罪の手紙の一節が報道されていましたが、その中に「自分は愛のある家庭というものについて全く経験が無いので、自分の犯した罪を反省しつつも、愛するかけがえのない存在を奪われる辛さについて実感を持って想像できないことが歯がゆい」と語った上でさらに「自分の存在が唯一受け入れられるネットの掲示板から完全に阻害された喪失感と同じようなものでしょうか」と結んでいました。

一瞬、自分が犯した理不尽な仕打ちについて自覚が全く欠如していることに怒りを覚えましたが、冷静に受け止めてみると、これは加藤被告の偽らざる心境であることも認められます。手紙の中でもう一つ取り上げられて気になった記述は「自分は小さな頃から”良い子”を演じ続けなければならなかった、今も”良い子”を装い続けているのかもしれない」という彼の心境が現された部分です。この”本当の自分を理解されない” ”ありのままの自分をさらけ出せない”というある種の疎外感を抱き続けてきたことについて、多くの同世代の若者から共感を覚えるという感想が聞かれます。ぼくもこの点については心情的に理解できる一面がある一方で、根本的に捉え方が間違っているという思いもあります。

というのも、いかなる人間関係においても大なり小なり”良い子”を演じ続けなければならないのは自然なことだと思うのです。人は生まれた時から名前をつけられて、その瞬間から周囲の人間から期待される”その人”になるように努めることを義務付けられる生き物です。それはよちよち歩きから言葉を話し始めて、幼稚園、学校へ通い、大人になって社会に出て働き、結婚して親になり、やがて老いて死ぬまで背負わなければならない義務の重みです。その重みを途中で放棄すると、たちまち不和を招いたり他の誰かに理不尽な負担を強いることになります、そして時にはそれが取り返しのつかない悲劇にもつながります。そもそも、世の中の人がみんな”良い子”であることをやめてしまったら平和な社会は維持されません。

そうは分かっていても、時には重荷を置いてありのままの自分を誰かに受け止めてもらいたいという思いを抱き続けるのもまた自然なことだと思います。でも現実には、ありのままの自分を無条件に受け止めてくれる人はこの世に誰一人存在しません。それは自分自身を顧みればはっきり分かることです、かつて誰かを完全に理解して受け入れたことがあったか、またそれが自分に出来るのか、おそらく不可能なことだと思います。たとえ親子であっても、親友、深く愛し合っている恋人同士や夫婦であっても、相手の存在を完全に受け止めることはできません、誰もが自分が自分であることに精一杯なのですから。

だからといって、人生は氷のように冷たい孤独の路が永遠に続くとは思いません。自分は誰からも無条件に肯定されたい、否定せされずに受け止めてくれる人が欲しい、そういった未熟な依存や甘え、またそういった欲求を少しでも満たすために絶えず他人から見返りを求め、その上で相手を支配して所有しようとするエゴ、それらをみな捨て去ることができた上で、同じようにそうする誰かと出会った時に真の他者との信頼関係が成立します。これは家族、友人、恋人、夫婦、その他どのような人間関係にも言えることだと思います。でもそのような真の人間関係を築ける場合は極稀です、一生のうちにどのような間柄であれ、たった一人とでも真の人間関係を築くことができれば、それは大きな幸福に違いありません。でもそれを実現させるために、自分の精神を向上させることは簡単なことではありません。実際には人生の様々な体験と忍耐を通して少しづつ近づいていくしか無い問題だと思います。加藤被告はその道程の厳しさに早い段階でくじけてしまったのかもしれません。

(次回に続く)

_IGP2932.jpg朝起きて玄関の外に出てみると、、、

こんなことになってました~。

これは放置されていた車ではありません。昨夜まで車の上に積雪はまったくありませんでした。

一晩でこんなに積もったのは初めてかもしれません。測ってみると52cmありました(笑)

とうぜん、このあと一家総出で雪かきとあいなりました、とても疲れました(--,)




_IGP2933.jpg家の前の道もこのとおりの有様。

2車線の道が車がすれ違うこともできないほど狭くなってしまいました。

どこの家の人も総出で雪かきしていました、まるで昭和のような光景でした。




_IGP2949.jpg雪かきを終えてから、どんど焼きをやっている錦山天満宮へ行きました。

大雪直後にもかかわらず大勢の人が繰り出していました。

参道に至る歩道が除雪されておらず、すれ違う人たちと交互に譲り合いながら、いつもより時間をかけてようやく到着しました。


_IGP2958.jpg錦山天満宮をあとにして、遅い昼食をとるために蕎麦屋へ向かいました。

途中、国道12号線を歩道橋から見下ろすと、両方向とも大渋滞のノロノロ運転でした。高速道路も長時間にわたって通行止めとなり、今日車で移動している人は大変でしたね。




年に数回このようなドカ雪が降りますが、一晩でこれほどの積雪になるのは数年に一度有るか無いかだと思います。今日の大雪は札幌北部と江別市を狙い撃ちするように低気圧が通り過ぎたために降ったようですが、気候変動の影響もありそうですね。いずれにしても大雪が降るのは雪国の宿命です。

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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
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