北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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わが家の一家もささやかながらGWの日帰り行楽に行ってまいりました。いつもの小樽より一歩足を伸ばして余市のニッカウィスキーの工場まで行ってきました。
ここに来たのはかれこれ20年ぶりくらいになります。余市はニセコや積丹方面に行く際の通り道ですから幾たびも通り抜けていますが、通過点になりやすくあらたまって訪ねたのは久しぶりです。
以下、中の様子を簡単に。
入口から入ってすぐ左手にある蒸溜棟の中の様子です。かまどの上にポットスチルという蒸溜器が並んでいて、ここで大麦麦芽(モルト)を醗酵させた液を過熱してアルコールを採り出しているそうです。
その他にも広大な敷地の中に沢山の建物が並んでいます。
1934年創業ですから、古くて立派な石積みの建物や瀟洒な木造洋館など味わいのある建物が点在し、その多くが内部を見学することが出来ます。
敷地内に植えられた桜の木も満開の花を咲かせていました。工場内は広々とした公園のように整備されていますから、今日のような穏やかな天候の日は気持ちよく散策することが出来ます、またウィスキーのなんとも言えない甘くて良い香りがたちこめています。
ウィスキー博物館ではウィスキーづくりやニッカウィスキーの歴史について知ることが出来ます。
奥には高級バーのような一角があり、高そうなウィスキーの有料試飲ができます。ほんの一杯分ですがかなり値がはります、ビンボーケチケチ旅行者には手が出せません、、、(^^A)
創業者の竹鶴正孝、リタ夫妻を紹介するコーナーもあります。正孝氏が若かりし頃、本格的なウィスキー作りを学ぶために単身スコットランドへ留学、そこで出会ったリタ夫人と半ば駆け落ち同然で結婚して帰国。以後、幾多の困難と挫折を経て、ウィスキーづくりの理想の地を北海道の余市に定め工場を建設、ウィスキーづくりを開始して現在に至ります。
敷地の外れにはレストランとお土産屋さんがあります。レストランの2Fには無料試飲コーナーがあり、無料のソフトドリンクとわずかですがウィスキーをただで味わうことが出来ます。それでも水で割って氷を入れればそこそこの量になるので充分に味わうことが出来ました。
そういえば、20年数年前にここを訪れた時もこの無料試飲サービスが行われていました。その時、ウィスキーの甘い香りをかいで飲みたいとせがんだことを覚えています。でもまだ小学生にも上がらない幼児だったために叶わぬのも無理はありません、はからずも20数年を経て幼児期の念願をかなえることが出来ました。
このあとちょうど昼時になったのでレストランで食事となりました。一昔前の観光レストランそのものといった趣でメニューも洋食と海鮮を中心としたオーソドックスなものです。父と母はジンギスカン定職と手作りカレー、ぼくはウニの玉子とじ重にしました。味付けはやや甘口ですが美味しかったです、かつてのデパートの食堂を彷彿とさせる味わいでなんともいえなく懐かしい感じがしました。
食後はお土産屋さんを物色しました。余市限定の原酒は高いのでまたの機会とし、かわりにこれも余市オリジナルのアップルワインを買いました。いわゆる果実酒ですが、ブランデーが入っていて甘さのなかにも本格的な味わいがありけっこうクセになります。
このほかにも余市特産の海の珍味をいくつか買いました。また、お土産屋さんのなかにお決まりのソフトクリーム販売所があるのですが、ここのブランデー入りソフトクリームなるものを買って食べてみました、、、なまらウマイですっ!!
このレストランとお土産屋さんは国道を外れてすぐのところにあり、駐車場もありますからお近くをお通りの際はぜひ寄って食べてみてください。
あっ、でも運転する方はちょっと無理ですね(^^A)
ウィスキー工場を後にして、余市川の堤防を下流の海に向かって歩きました。天気も穏やかで暖かく、ちょうど桜の並木が見ごろでとても気持ちの良い散策でした。
写真は上流の方を向いて、赤井川方面の山並みにはまだ雪が残っています。
下流にかかる大川橋、この先は海です。左に見える小高い丘の向こうの漁港を目指します。
途中にある余市川温泉宇宙の湯。
どのへんが宇宙の湯なのでしょうか?
湯舟に潜れば無重力体験が可能とか、、、
宇宙飛行士の毛利衛さんが余市出身にちなんでなのでしょう。
先ほどの丘のふもとをぐるっと回り込んで余市河口漁港へ到着しました、ちょうど丘の真裏の位置です。
ここは臨海公園になっていて、地元の人たちがバーベキューやジンギスカンを楽しんでいました。
漁港を後にして隣のモイレ浜を横目に見ながら市街へとってかえしました。
駅に着いたあと列車の時間まで市場など近辺を散策、ほどなくして余市をあとにしました。そのあと小樽に寄って小観光、いつもの中華料理屋さんで夕食をとって帰りました。
最後に余談ですが、ニッカウィスキーの工場内には創業者の竹鶴正孝氏とリタ夫人の邸宅が移築保存されています。小さいながらも和洋折衷の瀟洒な邸宅です。その中でまるで教会を小さくしたような離れの内部が公開されています。正孝氏がキリスト教徒であるリタ夫人のために建てたものだと思います。
二人の人生のあらましは先に書きましたが、山あり谷あり波乱万丈、それでいて本当にドラマチックな人生だったことが偲ばれます。相互理解が進んだ現代でさえ難しい国際結婚を今から百年近く前に、どこのどんな国かも知らぬ東洋の国の一青年に全てを託して、親の反対を振り切ってまで嫁いできたわけですから並大抵のことではありませんね。実際、日本に来てから偏見や差別に苦労していたようですし、戦時中は敵国人として見なされさらに辛い日々を過ごさなければならなかったようです。一方で、そういった苦難を教会の慈善活動を通して跳ね返す芯の強さも兼ね備えた人だったようです。
夫の正孝氏の人生も決して順風満帆ではなかったようで、幾たびもの紆余曲折をへて余市でニッカウィスキーの工場を操業することができました。夫の夢の実現に人生の全てを捧げ、夫が最も困難な壁に突き当たっている時も率先して支え続けて、ついには夫の夢を実現へと導くことが出来た、女性として幸せな真の意味での成功人生だったと言えると思います。それでも決して拭い去ることの出来ない孤独や虚無も同時に抱きつづけねばならなかったようです。それは遠い故郷に住む両親や兄弟に対する絶え間ない慕情だったかもしれませんし、あるいは本人にしか解りえない人生の諦念であったのかもしれません。
公開されている離れの間には一冊の聖書が展示されています。
リタ夫人が幼い頃に両親から贈られた聖書で、終生それを大切に愛用していたと記されています。このことからもこの祈りの間と一冊の聖書が、容易に取り除かれえない夫人の深い孤独を受け止める拠り所であったことが偲ばれます。
そういった人生の深遠も含めて、真実な信念を貫いて生きた人々の賜物として、余市の工場やウィスキーを見るとまた格別な思いがわいてきます。一時、経営難で存亡の岐路に立たされたこともありましたが、支援の手が差し伸べられて、からくも持ち直したこともありました。何といっても、これだけの真実な人々の人生と手によって成された遺産は一度失われてしまうと再生不可能ですから、ウィスキーそのものもさることながらその中身である思いや信念も受け継がれ続けて欲しいと願っています。
まぁ、そのためにもぼくみたいなあまり飲めない人間もノンべェ~にならん程度にウィスキーを買ってたしなめるようにならなければならないのですが(^^A)
写真は上流の方を向いて、赤井川方面の山並みにはまだ雪が残っています。
下流にかかる大川橋、この先は海です。左に見える小高い丘の向こうの漁港を目指します。
途中にある余市川温泉宇宙の湯。
どのへんが宇宙の湯なのでしょうか?
湯舟に潜れば無重力体験が可能とか、、、
宇宙飛行士の毛利衛さんが余市出身にちなんでなのでしょう。
先ほどの丘のふもとをぐるっと回り込んで余市河口漁港へ到着しました、ちょうど丘の真裏の位置です。
ここは臨海公園になっていて、地元の人たちがバーベキューやジンギスカンを楽しんでいました。
漁港を後にして隣のモイレ浜を横目に見ながら市街へとってかえしました。
駅に着いたあと列車の時間まで市場など近辺を散策、ほどなくして余市をあとにしました。そのあと小樽に寄って小観光、いつもの中華料理屋さんで夕食をとって帰りました。
最後に余談ですが、ニッカウィスキーの工場内には創業者の竹鶴正孝氏とリタ夫人の邸宅が移築保存されています。小さいながらも和洋折衷の瀟洒な邸宅です。その中でまるで教会を小さくしたような離れの内部が公開されています。正孝氏がキリスト教徒であるリタ夫人のために建てたものだと思います。
二人の人生のあらましは先に書きましたが、山あり谷あり波乱万丈、それでいて本当にドラマチックな人生だったことが偲ばれます。相互理解が進んだ現代でさえ難しい国際結婚を今から百年近く前に、どこのどんな国かも知らぬ東洋の国の一青年に全てを託して、親の反対を振り切ってまで嫁いできたわけですから並大抵のことではありませんね。実際、日本に来てから偏見や差別に苦労していたようですし、戦時中は敵国人として見なされさらに辛い日々を過ごさなければならなかったようです。一方で、そういった苦難を教会の慈善活動を通して跳ね返す芯の強さも兼ね備えた人だったようです。
夫の正孝氏の人生も決して順風満帆ではなかったようで、幾たびもの紆余曲折をへて余市でニッカウィスキーの工場を操業することができました。夫の夢の実現に人生の全てを捧げ、夫が最も困難な壁に突き当たっている時も率先して支え続けて、ついには夫の夢を実現へと導くことが出来た、女性として幸せな真の意味での成功人生だったと言えると思います。それでも決して拭い去ることの出来ない孤独や虚無も同時に抱きつづけねばならなかったようです。それは遠い故郷に住む両親や兄弟に対する絶え間ない慕情だったかもしれませんし、あるいは本人にしか解りえない人生の諦念であったのかもしれません。
公開されている離れの間には一冊の聖書が展示されています。
リタ夫人が幼い頃に両親から贈られた聖書で、終生それを大切に愛用していたと記されています。このことからもこの祈りの間と一冊の聖書が、容易に取り除かれえない夫人の深い孤独を受け止める拠り所であったことが偲ばれます。
そういった人生の深遠も含めて、真実な信念を貫いて生きた人々の賜物として、余市の工場やウィスキーを見るとまた格別な思いがわいてきます。一時、経営難で存亡の岐路に立たされたこともありましたが、支援の手が差し伸べられて、からくも持ち直したこともありました。何といっても、これだけの真実な人々の人生と手によって成された遺産は一度失われてしまうと再生不可能ですから、ウィスキーそのものもさることながらその中身である思いや信念も受け継がれ続けて欲しいと願っています。
まぁ、そのためにもぼくみたいなあまり飲めない人間もノンべェ~にならん程度にウィスキーを買ってたしなめるようにならなければならないのですが(^^A)
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」
発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
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