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昨日まで五夜連続で放映された橋田壽賀子脚本ドラマ「99年の愛~JAPANESE AMERICANS」を視ました。
主演~草彅剛、仲間由紀恵。戦前の貧しい時代に日本からアメリカ本土に渡った日系移民一世から二世の戦中~戦後~現代までを描いた大河ドラマでした。
貧しい農家の次男坊が自立の夢を抱いてアメリカに渡り、裸一貫の季節労働者から白人社会の差別と闘いながらも農場主にまでなる物語から始まります。
その第一部の主人公、草彅演じる長吉とお見合い結婚したともを演じるイモトの演技が絶妙でした。
第二部以降ではそれぞれ父親、母親になった長吉、ともが中井貴一、泉ピン子にバトンタッチ。成長した長男一郎が草彅剛、次男が松山ケンイチ、しずとさちの姉妹による家族の物語が中心となります。
外交官の娘で留学生の仲間由紀恵演じるしのぶが大学内で白人男性から襲われそうになっているところを、一郎が身代わりになって助けだしたところから関係が始まり、やがて恋に落ちます。
恋が成就するかと思った矢先、反日感情の高まりから身の危険を感じた日系人が日本へ帰国することになり、しず、さちの姉妹も父長吉の判断で帰国することになります。ここから平松家の断裂と長い苦難の道程が始まります。
この時一緒に帰国することになっていたしのぶは、あろうことか帰国船から海に飛び込み自力で海岸まで泳ぎ着きます。
そんな馬鹿なぁーと突っ込みたくなりましたが、不思議と仲間由紀恵なら出来ちゃうんじゃないか?と思えてしまいます。仲間由紀恵からはそういったオーラを感じてしまいます、それこそが女優の持つオーラなのかもしれませんね。
余談ですが、これに匹敵する事例としては「北の国から」で田中邦衛演じる黒板五郎さんが猛吹雪の中、徒歩で富良野市街から六郷まで辿り着いたシーンです。土地勘のある人なら絶対に無理、十中八九遭難するか行き倒れになるかだろうと思うはずです。こういった極めて無茶な状況を演出してストーリーにメリハリを付けることもテレビにおける”お約束”の一つですね。
話がそれたのでドラマ本編の話題に戻ります。
1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃による日米開戦から平松一家の運命が本当に暗転してしまいます。一家の大黒柱の長吉がFBIに検挙され、それまで順調に経営していた農場や財産一切を没収された上で一家全員が強制収容所に収容されます。
以後、長男一郎の日系人部隊への志願と出征、戦死。離れ離れになっていたしず、さち姉妹の沖縄戦並びに広島の原爆投下の悲劇。終戦と敗北の衝撃、失意の中での父長吉の自害。あの時代に起きた実際の悲劇が一つの家族を通して余すこと無く語られています。くわしくは番組オフィシャルHPのあらすじを参照してみてください。
そういった悲劇的な場面ばかりでなく、収容所の困難な状況にもめげず少しでも前向きに生きようとする日系人たちの姿が力強く描かれ、残された妻しのぶが一郎の子を産み、次郎が戦後から現代に渡って陰ながら支え続ける姿など、いついかなる時でも誠実かつ前向きに生きることの大切さを伝えるメッセージが溢れています。
物語は戦後、生き延びた人々が亡くなっていった人々の遺した礎をもとにして再び成功と幸せを勝ち取り、未来の世代へ受け継がれていくシーンで終わるハッピーエンドです。
ドラマはフィクションということもあって、ほとんどの登場人物が誠実さと聡明さを兼ね備えた人たちで、そういった人々が織り成す云わば理想の物語です。でもそれゆえに、かえって史実の悲劇性があぶり出され、かつ秀逸なストーリー構成のおかげで、戦争を遠い過去の出来事と思いがちなぼくたち若い世代にも分り易くリアルに伝わってきます。
想像を超えた苦難の中でも希望と誠実さを失わず貫き通した生き様に素直に感動しつつも、当時実際に生きた人々の歴史を単に美化するだけではすまない現実があることに対して複雑な思いを感じずにはいられません。
ここで一つ付け加えておきたいことは、一見すると絵に書いたような誠実な人たちが当時実際にいたのかという疑問について、そういった人たちは間違いなく存在しましたし、それも普通に想像される以上に沢山いただろうということです。そういった事例は、数々のドラマや小説、ドキュメントなどの著作、または当時を生きた多くの人々の記憶の中にたくさん埋もれています。人間が持つ本当の誠実さや輝きはそれとは真逆の困難で理不尽な状況の中でこそ発揮されうるものなのかもしれません。
今回のドラマは、そういった当時を生きた無数の名もなき人たちの姿を、ある一つの家族の生き様を通して象徴的に描いたものだと思います。脚本を書いた橋田壽賀子さんご本人がこれは私からの遺言だと語っています。それだけこのドラマには、今を生きるぼくたちの世代が知っておかなければならないメッセージが込められているのだと思います。それらは、これからの困難な時代を乗り切る上で必要不可欠なことかもしれません。
まだ見ていない方は、再放送があった折には見ておいて損はしないドラマだと思います。
今日はこの春、話題の映画「アリス・イン・ワンダーランド」を観てきました。
これまでジョニー・デップ主演の作品を映画館で観たことは無かったのですが、ついこの間、テレビで放映された「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ三部作が予想以上に面白かったので、その宣伝戦略にまんまと乗って映画館のスクリーンで観ようと思ったのです。もともとハリウッド映画や俳優にそれほど興味がある方ではないのですが、ジョニー・デップはその存在を知ってから気になる存在でした。あの、どことなく間のズレたコミカルさや、それとは正反対に沈黙の中で悲しみや怒りの情感を込める演技力は彼ならでは魅力ですね。彼の主演映画を初めて観たのは、同じくTV放映された「チャーリーとチョコレート工場」でしたが、大金持ちの主人公が純粋な優しさを持ちながらも、それゆえに世間の常識から遠くかけ離れて引きこもってしまった姿を味わい深く演じていました。あの映画を見ていると、時節柄、マイケル・ジャクソンがネバーランドに引きこもって世間やマスコミからあることないことでっち上げられながら騒がれていたことと重なります。とにもかくにも「チャーリーとチョコレート工場」の哀愁ただよう演技を目にして以来、ジョニー・デップは好きな役者になりました。
本作「アリス・イン・ワンダーランド」は有名な古典ファンタジー文学「不思議の国のアリス」の主人公アリスが成長して再びワンダーランドに戻るというオリジナルストーリーの映画です。ぼくは残念ながら原作をまだ読んだことがないのですが、今回の映画は原作とは関係なく楽しめるような娯楽作品としてまとめられていたので、原作の内容を知らないために楽しめなかったということは全くありませんでした。映像は奇抜なキャラクターや幻想的な世界観を表現するために全編にわたってCGアニメや合成技術が駆使されています。こういったCG技術も出始めの頃は、その効果に頼り切っていたり、不必要なまでに強調されて肝心の演技やストーリーが埋没してしまうなどの失敗が目立ちましたが、本作はそういった弊害に囚われることなく、ティム・バートン監督の魅惑的な世界観を余すことなく再現しています。
奇抜なキャラやCGで作りこまれた派手な演出、話題の3D効果など(ぼくは目がつかれることや、細かいところをじっくり見るには2Dの方が適しているのではないかという判断で3Dを見送りました)見た目のインパクトとは裏腹に、ストーリー自体は主人公のアリスの成長物語と勧善懲悪の対決劇を組み合わせたお決まりの手堅い構成です。その点だけを見れば、主人公が悪に立ち向かって打ち勝ってメデタシx2のもはや見飽きた娯楽映画でしかないような気がしますが、そのお約束のストーリーの一つ一つの場面ごとに深い人生模様を漏らすこと無く織りまぜている点が見事です。同じくティム・バートン監督による「チャーリーとチョコレート工場」では、「アリス~」とは反対に奇妙で理解し難い設定とストーリー展開の中に、普遍的な心情表現を織りまぜることで多くの人が共感できる内容に仕上がっていました。そして「チャーリー~」にも「アリス~」にも根本的に共通することは、主人公の行動や思考を通して、みんなが常識だと思い込んでいる価値観の中にあるエゴや矛盾を浮かび上がらせていることです。
19世紀の貴族社会を風刺した冒頭のシーンは笑えます。でもそれは、はるか昔の滑稽な貴族文化というよりは、現代の一般社会の見栄としがらみを皮肉った内容に見えます。アンダーランドに落下した後に登場する善悪様々なキャラクターは、誰一人として常識のバランスを保っている者はいません。みんなどこかズレて狂っている様子は、常識という平均値を取り払った現実の社会に生きる一人一人の人間のリアルな描写そのものように見えます。そういった混乱を一人突き破るアリスとその仲間たちのやりとりの中に、ぼくたち見る側の人間にも通じる”生きるヒント”が散りばめられています。少し拾い上げてみると、予言の筋書きに外れた行動を取ったアリスが「私には未来を創造する力がある」と言う場面や、白の女王に救世主として戦うかどうか選択を促された時に言った「誰かのためにではなく、自分の未来を勝ち得るために私は戦う」というセリフの中に、この作品の主要なメッセージを読み取ることが出来ると思います。
ぼくがこの作品の中で一番気に入った場面は、ジョニー・デップ演じるマッドハッターが、ふと我に帰った時に自分はイカレているのではないかと動揺し始め、アリスが彼に対して「イカれていると思う、でも偉大な人はみんなそうだった」と自身が亡き父に同じ問い掛けをして返ってきた答えを繰り返したシーンでした。あの時のマッドハッターの表情に浮かぶ恐れと悲しみの心情は真に迫るものがありました。それは作中で演じるジョニー・デップ自身が感情移入した数少ないシーンだったと思います。また、その時の心情は真の自分を確立するために自分の殻を乗り越えてきた者が一様に経験する思いの顕れだったのかもしれません。ユーモアの中にも生きることの根底にある悲しみを織りまぜた名シーンだったと思います。
今回の映画は、わざわざ映画館まで足を運んでお金を払ってでも見る価値のある映画でした。誰しもが楽しめるシンプルな娯楽ストーリーの中に、奥行きのある人間描写が織り込まれていて見応えがありましたし、あえて描かないことによって伝わるメッセージもありました。そういった表現の巧さを学べるという点でも有意義でした。ジョニー・デップの演技を初めて大スクリーンで堪能しましたが、それによってますます彼の演技が好きになりました。来年には「パイレーツ・オブ・カリビアン」の新作公開も予定されているそうで、その時はまた映画館に足を運ぶことになりそうです(^^;)
今日はちょっとこだわり派の映画館として知られるシアターキノまで表題の作品を見に行きました。
「牛の鈴音」は韓国のドキュメンタリー映画で異例のヒットを記録した映画です。スター俳優が登場する娯楽映画でも無いのに300万人を動員したそうで、その点に興味をひかれて勉強の意味でも見てみようと思いました。
内容は韓国の農村地帯で農業を営みながら暮らす老夫婦と年老いた農耕牛の生活をたんたんと追いかけたドキュメンタリーです。普通の農耕牛が15年ほどで寿命を迎えるのに対して、おじいさんの牛は40年の天寿を全うしました。映画ではこのメスの老いた牛が最後を迎えるまでの様子を追いかけます。映像は若干の編集以外は脚色を最小限に抑えてBGMも僅かしか流れません。そこには、かつて日本の一時代前の農村にも存在した機械化される以前の素朴な農民の生活がありのままに描かれています。
谷合の沢筋に小さな田んぼと畑があって、そこから斜面に沿った坂道の上に老夫婦が暮らす小さな韓国式の住居があります。春は田植と種まき、夏は草刈、秋は収穫、そして日々老夫婦と共に汗水流して働く年老いた牛との恊働が季節の移ろいにあわせて規則正しく繰り返されていきます。そんな一見かわりばえのしない日常の中にも、無口で頑固だけれども心根の優しいおじいさんと、いつもおじいさんの拘りに振り回されて愚痴ばかり言っているおばあさんとの掛け合いが絶妙なユーモアを醸し出して見る者を飽きさせません。そんな老夫婦に40年付き添って働いてきた牛をおじいさんは何よりも愛情を注ぎながら労り、かたやおばあさんに対しては牛の世話と重労働を押し付けてばかり・・・。おばあさんが事あるごとに愚痴をこぼすのも無理はありません。ラジオから流れる昔の流行歌を聞きながら「私の青春を返して欲しいわ」と半ば独り言のように、半ばおじいさんに投げかけるように呟くシーンは象徴的でした。
このように説明すると何だかヒドイ話のようにも聞こえますが、そこは長年苦労を共にしてきた夫婦の無言の信頼というものなのか、阿吽の呼吸と飾らない本音のやりとりによって醸し出される雰囲気が何とも言えない味わいに満ちていました。おじいさんに世話をいつも押し付けられるばかりで、恨めしさと妬ましさがいり混じった思いを抱き続けてきたおばあさんも、とうとう牛の最後を看取らなければならなくなったときに浮かべた涙に、あぁ、人間てこういうもんだよなぁ~、と妙に納得した心持ちになりながらも素直な感動がこみ上げてきました。
この映画はあれこれ難しいことを考えながら見るのではなく、心の赴くままに見てみようと思っていました。そして見終わってからも、そのとおりの印象が残る映画でした。韓国でクチコミで拡がり、やがて社会現象になるまでの動員を記録したのも分かる気がします。この映画で描かれているおじいさんとおばあさん、そして一頭の年老いた牛との生活は、映画の紹介で言われているとおり余計なものが全く存在しない、ある意味では現代人の生活とは対極的な世界です。あらゆる付加価値を求めて、常に全力で時に血眼になりながら頑張っている多くの人たちが、ふと心の隙間を感じて立ち止まりたくなったときに見たくなる映画なのかもしれません。たんたんと繰り返される老夫婦の素朴な日常にあるものは、何の飾りも装いもない本音のやりとりだけです。でもそこには温もりと確かな安心感があります。
出来上がった自分を装うことが半ば義務のようになってしまった今の人にとっては、人と人の繋がりの中でこういった掛け値なしの温もりに触れることはもはや難しいことなのかもしれません。でも一度立ち止まって、自分の身の回りと心のなかをもう一度見つめ直してみると、本当は必要のないこだわりや執着の種がいくつか見つかるかもしれません。それらを思い切って捨てることができれば、ひょっとするとおじいさんやおばあさんのように、素朴だけれども潔い、ささやかだけれども心の満足の得られる生き方を見つけることが出来るのかもしれない、そんな気持にさせてくれる映画でした。
今年一番に映画館へ足を運んだ作品でした。殺人犯に殺された14歳の少女の魂と残された家族の心の葛藤と交流を描いたスピリチュアルな映画です。感想から先に言うと、前触れ通り泣ける作品だったかというとそうではなく、悲惨な出来事を描きながらも前向きになれると言われながらも何か違うという感じでした。全く感動しない作品というわけではありません、むしろかなりグッとくる部分もありました。ただ、そのグッとくる感覚が今までのパターンとは明らかに異なるのです。それはスピリチュアルな領域という、あるともないとも言い切れない世界を真正面から扱った作品だったからなのでしょうか、14歳の少女が訳も無く殺されてしまうという不条理と死後の世界との繋がりをはっきりと見せつけられることで、かえって死の事実が厳然と迫ってくるような重みを感じました。
ストーリーはすばらしいと思います、原作の小説は世界中でベストセラーとなったようですが、たぶんそれに違わない深い内容が込められた小説だと思います。ただ、そういった豊富な内容を約2時間の映像に納めなければならない映画の宿命なのでしょうか、どうしても随所に消化不良感を残す部分が見え隠れします。前半の主人公のスージーが殺人犯の罠にはまり殺されてから、霊となって現世を駆け抜けて、この世とあの世の狭間をさまよい続けるシーンは最新のVFXと相成って見応えがありました。また、殺人犯の事件後の行動と心理描写が細かく描かれていて、その巧みさはどこかで見たことがあるなと思いましたが、スピルバーグ監督が携わっているということが分かって納得しました。たしか、スピルバーグ監督の出世作だった、大型トレーラーにひたすら追いかけられるという映画があったと思うのですが、その映画の車に乗りながら執拗に追い掛け回される男の心理描写と映像表現が、今回の殺人犯の描写と良く似ているように思えました。
メインの監督は「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソン監督で、VFXを駆使した天国の幻想的な表現とスピルバーグ監督のハリウッド映画の王道ともいうべき、観ている人を飽きさせないテンポの良いシーン展開など素晴らしい見所が全編にわたって散りばめられています。でもそれらの”すばらしい点”を繋げる線と流れが、イマイチ噛みあっていなかっり、雑になっているところが見受けられるのが少々残念です。前半に主人公の生前の彼氏と、同級生で霊が見える謎めいた少女との関わりが、中盤以降パッタリ途切れてしまい、いつのまにか家族中心のストーリーになっていたり、前半では姉とは疎遠そうでおとなしい妹が、お向かいの住人が怪しいと感づくと急に勇敢な少女に変身して単身で犯人宅に忍び込み、インディージョーンズばりの冒険劇で証拠を奪い取ってくるなど唐突な印象が拭えない部分があります。また、殺人犯の心理描写が細かすぎて肝心の天国に逝った主人公の心の成長がぼやけてしまっているようにも思えます。これは名匠二枚看板の弊害かもしれませんね。
そしてラストシーンは見る人によって賛否両論が分かれる気がします。そこには二重、三重のメーッセージ性が織り込まれているのでしょうが、はたしてこれで良かったのか?という思いと、なるほど考えさせられるなぁ~という両方の思いがわいてきました。ぼくが今回の映画で一番考えさせられたことは、映画本編の流れやテーマとするスピリチュアルなことでもなく、映画には直接に描かれていないアメリカという社会の現実でした。若者の恋愛や家族の絆と愛など、普通の人たちが幸せを求めて守り築いてきた営みのすぐ傍らで、恐るべき不条理さを持ってそれを奪い去る者たちが潜んでいる現実、その凄みというか落差とコントラストの激しさにぼくはリアルなアメリカそのものを感じました。あぁ、この希望と絶望の深い落差がアメリカの圧倒的な創造性の根底にあるモノの正体なんだなと痛烈に実感できたのです。
たぶん、この作品の殺人犯は同じような少女ばかり殺し続けた実在の殺人鬼がモデルだと思うのですが、そういった想像を絶する殺人鬼の正体とその成り立ちについて、映画では一切触れられていないのが気になります。日々、そういった現実の中を生活をしているアメリカ国民にとってはわざわざ語るには及ばない問題なのかもしれませんが、その辺の背景を平和ボケした日本人にも伝わるような表現が欲しかったです。一体どうして殺人鬼のような極点に至る人間が存在するのか、また、ある日突然襲われる不条理に対して、はたして救いがありうるのかという究極の問いに対して、現時点で唯一答えうる可能性がスピリチュアルであるのかもしれません。もし魂の繰り返しが存在するなら、絶え間なく希望を求め勝ち得てきた魂が存在する一方で、虚無と絶望の循環を果てしなく繰り返した末に、他人の希望を最も決定的に奪い去ることにしか生きる意味を見出しえなくなった魂がこの地上には少なからず存在し続けるということなのでしょうか。
今回の「ラブリーボーン」にはそこまで踏み込んだ世界は描かれていません、というか描けなかったのだと思います。やはりスピリチュアルを真正面から取り上げて描き切るには機が熟していなかったのでしょう。こういった深い問に対しては、いずれ原作を手にして読んで確かめてみようかと思っています。最後になりましたが、主演のシアーシャ・ローナンのいたいけさには泣けてきますヨ。父親役のマーク・ウォールバーグも実感のこもった演技を見せてくれます。ただ、この人のプライベートは役柄の善良な父親とは正反対なところもあるようです。よく言われることですが、善人役は実際はクセのある人物が演じた方が良く、反対に悪人役は性格が良い人が多いというのはどうやらホントの話のようですね(^^A)
今年の大きな話題の一つに”King of Pop”ことマイケル・ジャクソンが急逝したことが上げられます。ぼくは彼とその音楽について、これまで特に意識したことがありませんでしたが、それでも彼が亡くなったと聞いたときはけっこう大きな衝撃を受けました。彼の音楽は好きとか嫌いとかではなく、日常のどこかで必ず耳にしている、例えるならぼくがこれまで生きてきた時代のBGMのようなものです。
彼が亡くなった事を機に彼の音楽を再び耳にする機会が増えました。改めてしっかり聞いてみると新鮮です。たしかに彼はその時代の音楽、リズム、音そのものを創造してきたのが実感できます。彼が自身の最後のステージと銘打った「This is It」のリハーサルを編集した映画も見に行きました。彼のアクティブなパフォーマンスから想像していたイメージと異なり、全体に静かで粛々とした流れで、それでもそのパフォーマンスはマイケル・ジャクソンそのままの力強さが健在で、すぐにその世界に引き込まれてしまいました。
そのパフォーマンスと同時に心に残ったことは、彼と一緒に仕事をするために全世界から馳せ参じたミュージシャンやダンサーの様子が描かれていることでした。マイケルは一緒に仕事をするダンサーやミュージシャン、スタッフに対して別け隔てなく謙虚に接しているところが見て取れました。劇中で彼ら一人一人にマイケルについてインタビューしたコメントでも、異口同音に彼の誠実さを讃え感謝の言葉が溢れていました。そしてそれは表面的な行為に留まらず、ステージ上の彼らのパフォーマンスにはっきりと現れていました。マイケルは自身の表現力の類まれさだけでなく、一緒に表現するすべての人やモノの潜在能力を引き出す力があるのだと感じました。
私生活では奇人変人のように取沙汰されていた彼が、それでも世界中の多くの人々を魅了し続けていることに頷けました。あの有名な、コンサート中に卒倒した女性が次々に担ぎ出されるシーンや、世界中で彼が行くところ至る所へ追っかけ回して大騒ぎしているファンの大群など、最初は理解に苦しむところもありましたが、今ではそれも十分に納得のいくところです。そういうぼくもすっかり魅せられてにわかファンに転向した一人です。しっかりCDも買って一人税にいりながら聞き入っています。さすがに追っかけはしませんしもう出来ませんが、、、(^^A)
それらはすべて彼が持っている大きな愛の賜物だったと思います。人を愛するということは、単純なようで実は一番難しいことのように思います。自分の願望や欲求が反映された存在を愛するのは容易いことです、でもそれは”愛している”のではなくて”愛されたい”という渇望がただ在るだけなのかもしれません。そういうところからすっかり離れ去って愛するということを見つめなおそうとしても、残念ながらぼくも含めて多くの人は視界に何も見出しえないのではないかと思います。
彼が愛に対して完全な人物であったとは思いません、むしろ彼ほど人から愛されたいと願っていた人はいないのではないかと思います。でも彼は愛されたいと望むことだけに留まらず、だからこそすべての人を愛そうとしたことが偉大だったのだと思います。彼は結局それ以外のことは何も望んではいない人だったように思います。もちろん、彼は愛されたいと思っても愛され得ない、愛そうとしても愛し得ない悲しさと孤独を誰よりも知っていた人だと思います。だからこそ、彼の歌とダンスが理性を超えたところであれだけ多くの人の心に直に響いたのだと思います。
マイケル・ジャクソンの歌声とその魂の叫びに耳を傾けていると、日頃の自分が理屈と拘りに縛られて生きている姿が見えてきます。もし彼のように、心の中のある面において自由に表現しながら生きることができるならば、それはどんなにか素晴らしいことかと思います。彼は目に見えるこの世界から旅立ってしまいましたが、どうもいなくなってしまったような気がしません。こういった唯一無二の個性を発揮して愛された人が旅立った際に感じる共通の印象かもしれません、そして魂は永遠の存在であることをぼくは信じています。彼の魂の表現に少しだけ触れることができて、ぼくの停滞しがちな気持ちもわずかながらも前に押し出してもらえたような気がします。そういった世界中の無数の小さな存在たちに、大小さまざまな勇気と励まし、慰めと癒しを与えたマイケルに感謝の意と”ありがとう”の言葉を贈ります。
今日は映画「20世紀少年」の最終章を見てきました。2月に第二部を見に行っていたので見ないわけにはいきません。
さっそく感想ですが、期待にそぐわないダイナミックな作品でした。でも完全に満足できたかというと、微妙に消化不良が残る気もします。前作、前々作にもまして悲劇的な出来事が起こり、ともだちによる人類滅亡計画も最終ステップに及ぼうとするのですが、当然、ケンヂ一派がそれを阻止するという筋書きです。第二部までに散りばめられた様々な要素がストーリーが進展するにつれて見事なまでに収束していきます。ともだちによる最後の総攻撃も阻止され、直後にその正体も暴かれて、ある者の手にかかって絶命するのですが、どうも腑に落ちない感じがするのです。その後に、人類の平和がみんなの下に戻って大団円になるのですが、本当にそれだけで良いのか?という疑問が残ってしまうのです。
上手く説明できないのですが、あれだけの惨劇とかつてない悲惨な時代の末にかろうじて戻った平和なのに、最後はみんなで大騒ぎして、みんなでハッピーで良いのかと、個人的には思います。全体的にあれだけ大きなスケールで、あれだけ深い展開を期待させながら、最後はすごく薄味になってしまったような気さえします。
ストーリーはそれだけでは終わらず、後日談まで続きます。それで真のラストを迎えるのですが、これは先の大団円を予想外のカウンターでひっくり返されたような、良い意味で”やられた~”的な最後でした。ぼくにとってはそれでも、この上手く例えられない消化不良感を満たしきるまではいきませんでした。幼いころの小さな罪が、後の大きな惨劇の根源だった・・・それを立ち返って償うというものですが、ここでもそれだけでいいのか?何か足りなくないか?という気がしてしまうのです。
ケンヂやカンナ、トモダチといった個性的な登場人物が様々な背景を背負って戦ったり、助け合ったり、憎みあったり、それらの線と線が絡み合って躍動し合う姿は見事に描かれていますが、その一人一人の存在の深いところにあるものがイマイチ見えてきませんでした。それはラストの”罪と償い”についても同じで、行為だけで存在が伝わらないのです。
どうでも良い感想をグタグタ書いてしまいましたが、決して嫌いな作品ではありません。むしろ好きな作品でかつレベルが高い作品だからこそ、その内容についてグタグタ考えてしまうのです。こんなぼくのつまらない感想なんか全く関係なく、面白くて楽しめる作品であることは間違いないので映画館へ見に行っても決して損はしないと思います。
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発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。
写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s
「目指す場所があるからいつだって頑張れる!」