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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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今週は執筆作業も小休止といった感じで、ややまったりとしした時間を過ごしています。


これ以上がっついて書いていたら内容が散漫になりそうなので、要思案中といったところです。


ノルマを達成するようなものではないので緩急が必要ということです。


体調も何とか持っていますが、決してベストといった状態でもありません。


全快であったらなお良いのですが、長患いの身にはなかなか望めない高値の領域です。


季節も確実に春が近づいているはずなのですが、まだまだ冬の残滓を色濃く引きずっているような毎日が続いています。


まぁ、色々と思うままにならないことも多いですが、今できることに専念しながら前向きにやっていこうと思います。


小説「N」も冒頭部分はほぼ完成して本章に突入しましたが、ふと立ち止まって悩む点があり、頭のなかは休みなく思案しています。


序盤のつかみというか、読者の目線に立った時、この先読んでみたいという分かりやすくワクワクするようなストーリー展開が欲しいと思っているのですが、全体の構成とこれまで書いてきた内容との兼ね合いを満たしながら上手い展開をひねり出すというのは一筋縄にはいかないものです。


まずは、それぞれの人物描写と対比をしっかり書き込むことに専念して、あまり華やかなストーリー展開や痛快さを狙わず地道にやっていくのが良いと思います。


そのほうが、今の自分の力量や課題にマッチしていますし、小説「N」のテーマにもあっていると思います。


その課題の一つは悪役とその世界をどうするか、ということです。


現実の世界にわかりやすい極悪人というのはほとんどいないと思います。


それぞれ、ごくフツーの人たちの中に、ごくフツーにエゴや意地悪さといった形で悪の成分が潜んでいて、それが立場や状況の違いや利害関係など、あるいは単純に感情の問題によって人間関係の中で生じるものだと思います。


なので、マンガやアクション映画のような、とてつもない極悪キャラを打ちのめすといった痛快ストーリー的な構成よりも、ある人物との関係や状況の中で小出しに悪味を出していくほうが、より創作物の中で現実味を表現できるのではないかと思っています。


さらに問題なのはその悪の性質の違いで、それは作品とストーリーの段階ごとに細かく決めていくべき問題だと思います。


とりあえず今書いている「N」の序盤においては、主人公と同じ種類の立場に身を置きながらも、主人公およびその廻りの人物たちが、その連中のような状況に陥りたくないと思うような、読む人にとっても一般的な嫌悪感を含むような設定にしようと思います。


具体的には、主人公やそのグループはその連中のようにならないために努力し、その連中はそんな主人公たちを妬みながら妨害するといった関係です。


それを激しい暴力対立で描くのではなく、心理的に細かくねちっこく事あるごとに足を引っ張ってくるというような描写を目指したいと思います。


そういった妨害に対する嫌悪の積み重ねが、主人公自身がさらに上のステージに登ろうとする動機を強めていくという流れで中盤に繋げていこうという算段です。


それで上手くいかどうかは書き進めていかかなければ分かりませんが、壁にぶつかったときはそのときまた考えるしかありませんね。


体調も執筆作業も行き当たりばったりな有様ですが、何とか生きて前に向かって進んでいます、今のところは、、、(汗)


歯が浮くのだけ何とかならないかな~、



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久しぶりの更新です。


表題で言うほどがっついているわけではありませんが、一応、流れに乗った感じでコンスタントに書き続けてます。


昨年、途中で頓挫して、満足行くことの出来なかった部分は全て書き直したうえで大幅に加筆し完成させました。


これによって、書き始めた当初、イメージした通りの冒頭部分になりました。


まぁ、三歩進んで四歩下がって五歩進んだって感じですね(汗)


このままイイ流れに乗って本章を書き進めたいと思います。






昨年から事実上ストップしていた執筆作業を今日再開することができました。


まずは昨年までに書き進めてあった原稿を最初からチェエクしなおし、忘れかけていたポイントやストーリーの流れを思い起こさせるようにしました。


こういった作文作業でよく言われることは、書いた直後はよく書けているように思えても、時間が経ってから冷めた目線で見なおしてみると、自分でも赤面するほど拙い文章に思えてしまうといったようなギャップを感じるというものです。


今回、自分が書いたわずかばかりの原稿を、その細部についておぼろげになった頃に見なおしたわけですが、事前に思っていたほど絶望しなかったというか、思ったよりも良い感じの出来でした。


これは自画自賛というわけではなくて、自分の拙い力量と細かな突っ込みどころを除いても、読み物としての最低限の水準を十分クリアしていると思える出来だったからです。


ただ、そういった合格点をとりあえず与えることができるのは、冒頭の導入部分だけで、その先の章については先に掲げた水準を満たしているとは言えず正直な所ペケでした。


その原因は物語の事前の設定不足で状況描写と説明が多すぎて肝心の人物描写が無意味なほど貧弱になっていたためです。


ただ、そこまで下手になってしまった要因は昨年の体調のコンディションが悪すぎて、比較的余裕のあった冒頭部分は良くできていたものの、その先の執筆に取り掛かっていたときは非常に苦しい状況で、それがもろに文章のクォリティに影響を与えていたようです。


昨年は多少コンディションが悪くてもコンスタントに書き進めることに重点を起きましたが、今年はもっと体調に配慮して良いコンディションが維持できる時だけ書くようにして、書けないときはシナリオや設定を細かく見直すなどして備えたいと思います。


今日はこれまで書いた文章をチェックして全体的な問題を洗い出した結果、先の場面を執筆する前に冒頭以降の文章を書き直すことにしました。


全体のストーリーの流れ自体は最初に書いた文章を極力尊重しながら、多すぎる状況描写を整理して、かわりに主人公の心情描写と他の主要人物の初印象描写を重点的に織り込んでいくようにしたいと思います。


今執筆している仮称「N」は長編青春群像劇で、完成まではかなりの労力と時間がかかりますが、自分としては最初に課した試金石としての作品なので、これからも完成を目指して継続的に取り組んでいきます。





まぁ、誰も気にしていないでしょうが、一応のカッコ書きとして、、、


当ブログにていつも勝手気ままな独り言を書きなぐっていますが、文字通り「独り言」カテゴリーでは自分自身の考えに基づいた内容をかいてあります。


一方で「創作メモ」のカテゴリー内で書いてあることは、小説他、創作物の中で使用するためのアイディアの断片や考えの整理が中心で、一連の手記風の記事も、ある登場人物の価値観を想定して視点を変えて考えたことなどが中心で、たとえ大本のアイディアが自分のものであったとしても相当ゴネ繰り回した代物になっています。


まだ肝心要のものが出来上がっていないので心苦しいのですが、小説自体はそれらとは打って変わって大変さっぱりした文体の内容になっています。


これから自分が書こうとする小説はすべて基本的に単純明快であればあるほど良いと思っていますし、大事な伝えたいメッセージの部分については中学生でもしっくり来るものにしたいと思っています。


伝えたい核心のおおよその答えは判っているのですが、それをどう上手くまとめて伝えるのかという技術面で大変苦心しております(・・;)


おりしも、人々の価値観がゆっくりと変化する方向へ動き出しているタイミングなので、こういった流れに乗りながら柔軟に対応していくことも難易度の上昇に拍車をかけています。


そんな中で、執筆作業に入ってからはあえて他人様の作品は読まないように心がけていたのですが、いま、その誓いを破って一冊のマイナー小説を読んでいます。


「聖なる預言」という知る人ぞ知るスピ系舶来小説なのですが、これがどうしてこうして中々もってスゴイ小説で、これからの人間性の意識変革を読み解く上で革新的な見解をいくつも記しています。


肝心の小説自体のレベルは可もなく不可もなく、ハッキリ言えばやや地味なくらいの冒険SF風小説なのですが、その語られる言葉の値打ちが分かってしまった以上、けっしておざなりにして通り過ぎることの出来ない小説だと思っています。


というわけで、またボチボチ創作と読書の地味ぃ~な並行作業に戻ります。






※以下、ある人物像の背景としての考察。


人生の目標は二重構造になっている。


一つは表面的なもので、常識的および社会的認識に適ったものだ。


もう一つは、その表面的な目標の影に隠れた、ごく個人的かつ内面的な意識によるもので普通は漠然としている。


もう少しわかりやすく言い換えれば、表面的な目標、それも一生をかけるような大きなテーマとは限らず、日常の生活の中でごくありふれた、繰り返される些細な行動目標や欲求の対象に至るまで、そういった大小の目的意識を伴うすべての対象に向けて当てられる充足感の感情的なモノサシと言うこともできる。


内面的な人生とは、表面的な社会的目標の影に隠れた小さな欲求として芽生え始めるものかもしれない。


意識して取り組む大小の目標物に対して、無意識の感情は常に自分にとっての充足感の如何によってジャッジしているとも観察されるが、はじめはそういった影の欲求意識というごく小さな存在として意識に締める程度にすぎないが、一定の時間とその中での大小様々な経験を経ることで欲求判断が一巡すると、心の充足を求めることが徐々に難しくなっていく。


心の充足の基準に従い、様々な経験や対象を追い求めても、そのスパイラルを一巡、二巡、と繰り返していく内に欲求は肥大化し、かつ現実の物理的限界による制限を増すことで相対的に充足感は減じていく。


普通、個人の人生の可能性は有限であるから、この欲求の肥大化に反比例して減じていく充足感の著しい減少を誰しもが受け止めなければならなくなる。


この時、一つの選択の可能性が生じて、その飢餓感を誤魔化す方を選択せずに、その欲求の根底にあるモノの正体と向きあおうとするならば、先に記した表面的人生の目標と、ある漠然とした内面的人生目標の逆転というチャンスが訪れる。


漠然とした自己充足欲求に過ぎなかった内面の意識が俄に明確な意味を求め始めるのである。


その時、人は始めて内面の人生を生き始めるスタートラインに立ったと言える。


自己の内面の感情的欲求に過ぎなかった幼い意識に、明晰な知恵と意味を与えることによって、本当の自分という存在を確認することが始めて可能となり、それは単に欲求に従っていた古い自分との緩やかな決別であり、新しい自分自身の創造と発見でもある。


ここまでたどり着かなければ人はついに自分自身すら知らないままで終わることもある。


何らかの理由で社会的人生に行き詰まりを感じている時が転換の合図かもしれない。


なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、今がちょうど時代の転換点で、これまでの常識的価値観による社会性が、それにしたがって生きる多くの人たちに対して人生の明確な目標と到達点を提示できる力を失いつつあるからだ。


しかし、本当は社会の情勢と内面的人生観は一切関係ないのだ。


なぜなら、たとえ社会が順調な良い時代にあったとしても、その時代の中で先を進むような、あらゆる分野において多くの人たちの目標となる結果を生み出してきたような人たちの多くは、その過程において外なる世界の放浪を経て内なる世界の構築に気が付きその中から自分自身の進むべき道を見出してきたからだ。


その過程はおそらくこれからも変わらず有効だろう。


ただ一つ、これからの時代に困難になりつつある問題は、表面的な社会性と内面的な充実を図る生き方の調和が難しくなるということだ。


もしその両立が困難な状況になった時、両者の選択および一種の乗り換えが必要になる。


それはひとりひとりの自由意志による選択に任されている。


一般に、内面的人生を優先して生きるということは純粋にオリジナルな生き方をするということであり、周囲や社会からの理解と承認を無条件で受けられるわけではなく、また他者の人生や外の世界に完全な解答を期待しても得られることはなく、文字通り全くの手探り状態から自分自身の意志と力で築き(気づき)あげていくほか道はない。


それでも、自分の生き方を貫きながらもそれが他者に貢献できる要素が本質の中にあれば、周囲の理解と承認を得ることと社会性を同時に獲得する努力は無駄にはならない。


ある人にとって社会性が提示する人生の目標が頭打ちで限界を感じさせるものでしかないならば、勇気と準備を備えた人から、内面的充足を超えた生き方を求めるコースへ順次乗り換えて行かざる負えなくなるのは自然の流れといえる。(時代の転換点においてはそれが半ば強制的に起きる場合もある)


内面的人生の探求といっても決して大げさなものではない。


最も簡潔に言い換えれば、外の世界(社会)から獲得することを基準とした人生から、内面のビジョンを基にした創造的(生産的)人生への転換である。


現在の社会の行き詰まりの根本要因は、社会の中で生み出される”真の意味で”生産的な価値よりも獲得競争(奪い合い)のほうが著しく優ってしまっているアンバランスにある。


その時代のアンバランスを是正するためには全体の変革によってではなく、個々人の意識の転換と進化によってのみ実現されるだろう。


その個々人による意識の転換をはかるためには先に上げた”逆転の過程”を経る必要があるのだ。


その秘めた意味と価値を体験して認めることができた時、それまでのすべてが決して無駄ではなかったと思えることも付記しておく。


また、一旦内面の人生に舵を切った者に対しては、ある不思議としか言いようのない導きを感じることも多々経験するということも言われている。


それは本当の意味で失われることのない希望が存在する道を選択できた時に生じる普遍的な充足感からもたらされるものだろうと推察される。


以上は目新しい主張ではなく古くから言われてきた事の簡単な焼き直しである。


時代の性質は何度でも繰り返されることの顕れにすぎない。



10月10日の今日を記念して、駄文終了。






CA3J0163.JPG

仮に「N」としている長編三部作ですが、これをきちんと完結させるにはどう考えても、あと3年はかかりそうなので、それとは別に用意してあった中短編小説から仕上げることにしました。


自分にとって一番大切な作品である「N」がお蔵入りしたわけではありませんが、途中で挫折して終わらないように、また時間を浪費せず結果を出すことを最優先に取り組んでいこうと思います。





PS.)
長編「N」はある特殊な分野を題材にしており、正直な所、その分野に対して勉強不足な点は否めず、もっと時間をかけて認識を深めてから本格的に書いていこうと思います。それまでの間、今の自分でも無理なく書ける作品をコンスタントに仕上げながら「N」のアイディアを貯め続けようと思います。



 
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プロフィール
HN:
鈍行翼
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/05/07
職業:
エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
フィルムカメラはPENTAX SPF、RICOH R1s、GR1s

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