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北海道の鉄道とか写真の話題など、、、日々の徒然を独り言のように細々と発信してみるブログ。小説作品執筆中。
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ここ最近、更新が滞り気味ですが、原因は神経疲れによるおそらくはヘルペス菌?か何かによる痛ダルい風邪のような症状と来たる植物アレルギーの季節到来のダブルパンチです、、orz

多分、今月いっぱいから来月前半にかけて重だるい症状が続くことが確定的です。

毎年相も変わらず訪れる嫌な季節ですが、これも因果な宿命の類いだと思って観念しています。

そんなテンションの上がらない状態でも、体調の優れない時と次の波のほんの隙間を縫って出来ることに取り組もうと思っています。

どんなに体調が悪い時期が続いても、創作に対する意識と集中だけは途切れさせないという自負も少しはありますが、気が付かない内に疲労が蓄積していたのか先日はさすがに完全ダウンしてほぼ一日中布団の中から出られませんでした。

どうにか病院の薬に頼らずに養生して回復を図っています。

今回は高熱が出たりはしていないのでそんなに深刻な症状ではありません。

ただ、前述のとおり、これからアレルギーの季節が本格化することから、この身体の重だるさだけはそう簡単に抜け出せそうもありません。

創作活動の方は執筆本番に向けて具体的なプロットをようやくまとめられる段階までこぎつけましたが、ここで作品の根幹を左右する新たな課題にぶつかったので、作業の前進を一旦停止しています。

表題にある通り、主人公の親子関係(母娘)をどう描くかという問題です。

ここは作品の根幹となる大事な支柱の一つと考え、出来るならなるべくシンプルで前向きなメッセージとポジティブな結末に持って行きたいのです。

この小説の仮題「PT」の構成は主人公(女性)の視点から準主人公(男性)=テーマの主人公の生き様を描くというやや古典的ですが比較的凝った構成を採用しています。

どうしても男性の主人公の生き様はポジティブなものばかりではないので、女性の主人公の生き方とのバランスの中でポジティブさを見出したいのです。

空想の世界ではなくバリバリの現実社会の中で登場人物たちが生きている設定なので、それぞれの人生の中身は一筋縄ではいかない問題や課題を抱えていることになります。

それをそのままリアルに描いただけでは創作物としての感動や醍醐味は生まれないので、取ってつけたような理想や願望の類には走らずに、本質的な人生のポジティブさをここで明言すべきだと思い至りました。
 
物語の序盤から登場する主人公と母の場面を描く段階で基本的な筋書きを決めてかかるべきだと踏んでプロット作成作業を進めています。

母娘の同性同士の親子の友情を描くのか、または生きた年代や世代を超えた確かな人生観の継承なのか、そのテーマ性と織り込むメッセージはまだはっきり決められていませんが、この時間を有効活用して深く掘り下げてから決めていこうと考えています。

ネガティブまみれの否定意識ばかりがはびこる人間社会できらめくようなポジティブな感動場面などウソ臭くなく描けるものかと厭世的に捉えがちですが、やはり創作物にはそういった単純明快な前向きさがどこかに必要だと書く側の立場に立ってようやく合点がいきました。

親友同士の命を賭した真の友情模様を描いた古典の名作と言えば太宰治の「走れメロス」が思い立ちますが、個人的には学校の授業で習った時に教科書で読んだだけで特別これといった感銘を覚えた記憶はありません。

反対にネガティブな内面吐露を延々と赤裸々に綴った「人間失格」の方は割りとまじめに読んで少なからず共感できた記憶があります。

あの少し漫画っぽい古代ローマ時代を背景としたメロスとセリヌンティウスの友情物語は、この作品が書かれた軍国主義一色の戦争へひた走る人間性も地に落ちつつある暗黒の時代にさなかで、憲兵の検閲に引っ掛からずに人間性あふれるメッセージを内包した小説作品を世に送り出すための苦肉の寓話作だったのではないかと、個人的に類推するようになったのは大人になって色々な社会事情を歴史的背景から理解できるようになってからです。

いずれにしても、しがない作家志望とはいえ、一創作物を記して世の中の人々にいずれは披露したいと思う者にとって、その時代のリアルな背景がいかなるものであったとしても、可能な限り人間的でポジティブなメッセージを最低限一つ以上は織り込もうとする努力は、小説作品を届ける名も知らぬ人たちへ向けて真にポジティブな影響と前向きに生きる力の糧となれるようにするための作家として必要不可欠な取り組み姿勢だと考えています。

今日は相も変わらず体調不良の愚痴といつも変わり映えしない途中経過報告でしたが、作業は着実に進んでいて身体の重さとは裏腹に気持ちは軽く前向きでイイカンジです。

何よりも冒頭から序盤にかけてのまとまった分量の構成が具体的なプロットとしてまとまりつつあることは嬉しい事です。

序盤までは破錠のないストーリー運びで書き出せる準備が整いつつありますが、中盤から後半にかけて、さらに作品全体を最初から最後まで貫く主要な幹線が幾つかあることを発見したので、これをしっかりと見定めてから決めないと、後々辻褄が合わなくなる迷走の原因にもなりうることから、ここはより慎重に作成作業を進めていこうと思います。

とにかく今は養生しながら適当に症状をあしらいつつアレルギーの季節を乗り越えることが先決です。



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一昨年、四転八倒しながら死に物狂いで書きためた生原稿を久しぶりに引っ張り出してみました。

あらためて読み返すまでもなく内容は記憶の中でこびりつくように残っています。

たった二百数十枚の短編小説ですが紛れもなくこれが原点です。




出来栄えは思ったよりも悪いものではありませんでした。

簡単な推敲しかしていませんので言葉遣いや表現の不統一など些細な点はそのままです。

ストーリーや人物像の大きな破錠もありません。

自分でもよくあの状態で書き上げることができたと思います。

そうやって自分で自分をいたわりつつも、客観的に一つの小さな小説作品として見つめ直すと読んで魅了されるほどの生命感までは感じられません。

この導入部の短編作品は完成までの長い道のりの一里塚に過ぎないということです。

一年半続いている長い見直しと未完成の断片の整理はまだ続いていますが、確実に言えることは体調のコンディションを保って気持ちを真ん中に据える事ができれば、この最初の二百枚程度の作品は楽に書き出せる力量はすでに身についているという実感があることです。

もちろんそれだけでは不十分です。

少なくとも三倍以上の六百枚から八百枚程度の文量が今取り組んでいる作品には必要です。

それを三倍の力を出すのではなく今の自分が無理なく滑らかに書ける程度のちょうどよい加減で継続できることが目標です。

そして一番の課題は作品の魅力を決定する自分独自のストーリー構成をこの作品を通して確立することです。

それが完璧に出来てはじめて真打ちとしての自信が持てるようになると考えています。

自分の本当に言いたいこと表現したいことのすべてを作品を通して語れるようになるのはそれからです。

この春の季節で英気を養い気力体力が充実したところで本番の執筆作業を開始します。



PS)
小説という表現法において独特な点は既に出来上がったパターンをそのまま踏襲することが出来ないということです。絵にしても写真にしても演劇やダンスなどの身体表現にしても最初に基本となる型がありレベルの高い表現技法においてもある程度の模写が可能ですが、小説はごく初歩の文体の型や起承転結などのパターンはあるものの、ある先人が完成させたレベルの高い表現パターンはその人だけの独自のものであり、それを他の人がそのまま模写しても詰まらないコピー作が出来るだけで何の値打ちも見いだせないものです。小説を書くという作業は職人的でありながらそこで確立された表現技法はその人一代限りで完結し代々受け継がれることはないという点で職人とはかけ離れたものです。他の誰の師事も受けることなく手本にも頼れない中で自分独自の表現技法と体系を築きあげることが最初にして最大の壁なのかもしれません。その高い高い山のようなハードルを登り切る螺旋状の道程をエッチらホッチら呻き声を上げつつ三歩進んで二歩ずり落ちるを繰り返しながら乗り越えていくしか道はないのです。石の上にも三年からこの未知の領域を目指し始めて気がついたらあっという間に八年目に入っていました。一人前の物書きとして一人立ち出来るまで普通に十年かかるというのも頷けます。時間のことばかり考えても意味がありませんから目の前のできることから手がけて一歩一歩少しずつ前進していきます。







昨日の記事のつづきを書きたいと思います。


頭のなかがいつもオーバーヒート気味ですが、今日は少し落ち着きを取り戻しながら書いていこうと思います。

もともとシナリオの構成作業はてきぱきと要領よくこなせばいいという作業ではなく、もっと地道に粘り強く時間と手間をかけてじっくり煮詰めてく作業だと思います。

ここが忍耐のしどころと思い直してもう一度、創作ノートの上で大まかなシナリオ構成から書き直す作業を始めています。

これまでもシナリオらしきものは何度も何度も創作ノートの上で展開してきましたが、そのどれも曖昧さがいたるところに残った詰めの甘い代物でした。

自分が書きたいこと小説作品を通して伝えたいメッセージは最初から定まっていて決して揺らぐことはありません。

でも、その伝えたいメッセージを的確に一番よい表現で伝えるための適切な手段を見出すことに苦戦を強いられ続けています。

その原因は常に自分の内側の未消化な感情のなかにあることは気がついています。

しかし、この感情という生き物が一筋縄でいかない強敵で理論に基づいた知性だけでは調伏できないやっかいな存在です。

感情に基づいた思念は一度表に出してその正体を露にした上でその存在を理解し認めることではじめて解消させることが出来ます。

ぼくの中に居座る感情体の敵の正体は複雑な怒りの思いの塊です。

それは誰かが何かが世の中が悪い憎いといった単純なものではありません。

この生まれ落ちた時代の哀れな運命の避けることの出来ない末路に対する呪詛のような思いです。

ぼくはそれがどこからどのようにしてやってくるものなのか正確に知っています。

感情にとらわれるということは醜いことです。

それが決して好ましいことではないことも理解しています。

でもこれはおそらくぼく一人の個人的な感情のエネルギーだけではないと思っています。

それは時代の集合意識それ自体が蓄積してきた怒りと怨念のエネルギーの塊だとぼくには感じ取れます。

それは人が本来あるべき意識レベルから遠くかけ離れた低い次元までしか到れないまま潰えて消えていくことの繰り返しから生じる膨大な量の悲しみと無念の蓄積でもあります。

人間は本来もっと穏やかで賢く洗練された存在になるまでその人生を生き通して登って行くことができるように設計されているとぼくは考えています。

人間にはつきものだと長らく思われ続けてきた自己の醜さや惨めさから開放される時が刻一刻と近づきつつある静かな足音と確かな気配が感じられます。

やがて来る新しい境地にたどり着けるようなるためには誰もが避けて通ることの出来ない心もとないほど細く険しい道程が待ち構えています。

しかもその道程は人それぞれ全く異なっていて、たとえ誰かがその道を通り抜けることに成功したとしても、他の大勢がその同じ道筋をどんなに一生懸命になって辿ろうとしてもかえって迷子になって行き倒れてしまうだけです。

すべては自分の力と意志で自分だけの道程を探し求めて進む決定をくだす必要があります。

そのために難しい理屈は必要ありません。

今の自分の在り方のなかに全ての道標が備わっています。

難解な哲学や真理も必要ではなく、ただ今この時の自分の在り方に素直に向き合って確かめる作業を怠らずに継続し続けるだけです。

日々、今この時における自分の在り方を知るための確認作業の繰り返すことよる変化の軌跡がそのまま自分だけの進むべき道筋になっています。

この内省の作業に集中できるかどうかが全てのカギとなります。

これは決して自己批判や反省のための苦行の類ではありません。

ただ自分という存在が常に変化しながら永続的に進化成長していくことを感じ取れればいいのです。

自己の存在の継続に全幅の信頼を置けるようになるとやがて生死の境目に対する極端な恐れが静かに消え去っていきます。

そこまで至る途中までにたくさんの苦しい障壁にぶつかることもまた事実です。

それらの内面から生じる障壁の数々は外側の存在の姿を借りて自分の目の前に現れてくるかもしれません。

それらの外部の存在、特に他人の悪い行いや欠点を通して見せられる自分自身の避けがたい課題の存在を見抜いて正直に認めるための高い境地の認識力が必要です。

外界から絶えず迫り来るように思われる自分の内面の反射に対して正しく見抜くための透徹した知恵を学び取るためだけに人生のあらゆる苦難の数々が存在していると言っても過言ではないかもしれません。

この知恵を見せかけの知識ではなく生きた存在として自分の内側に携えられるようになることは決して容易いことではありません。

一度きりの人生ではとても習得できるようなものではないという意味で輪廻転生という思想が昔から定着してきたのかもしれません。

自分の真の実情を認識して受け入れられるようになるはるか手前で他者からの反射や実生活の骨折り苦労にかき消されたり、お互いの憎悪と因縁に足を取られ合った末に、元々の自然で素直な自分の在り方を見失ったまま時間の忘却にただ流されていくことが今までの殆どすべての人たちがたどった生き方でした。

夢と希望の一つ裏側で人生の労苦に対する恨み節と苦悩が常に背中合わせで存在しました。

すでに役割を終えた自らの影を潔く断ち切るための剣を自らの怨念の集積に向けて振り下ろす時が今この時だと告げられているような気がします。

人間の逃れられない苦悶と重い足かせからの単なる逃避行ではない、本当の素直な自分の人生の道程を歩むことでそれを十分に成し遂げられる可能性をこれからの小説作品を通して表現していきます。

原稿に向かう前のシナリオの段階で全てを織り込んで小説以前の作品として完成させることを目指します。

静かな心境を保ったまま文章を書き続けることは今の自分にとってはとても難しい作業の一つです。


決して覚りすましたような上出来な人間ではないからです。
  
  
  

 
 
PTの原案をシナリオとして組み立てる作業をしています。

その作業は残念ながらはかどっていません。

構想以上シナリオ未満で宙に浮いているような状態で行ったり来たりしています。

まさに頭脳戦と神経戦ですが何とかして早く突破口の糸口を見つけたいものです。

シナリオの組み立て方がわからないのではなく、この作品にぴったりあった納得のいくシナリオの形がなかなか思いつきません。

ストーリーや必要なシーンや要素はある程度出し尽くしたのですが、これらを一つの標準的な小説の枠組みの中で効果的に引き立たせるようなはっきりした形がほしいのです。

クリスマスまで自力で思いつきそうもなければサンタさんにお願いしてみます。

猫の手もトナカイの足も借りたいくらいです。

今の自分にとってシナリオ構築の不得手さが最大の弱点の一つだと思います。

シナリオはいわば作品の骨格であり形そのものであると理解していますが、この作品としての明確な形が出来上がれば、あとは一つ一つの場面を順番に描き上げることだけに専念できるので作業はぐっと捗るようになります。

かといって決められた型を繰り返し使いまわした作品を何作も書いていくということはしません。

一作ごとにその作品に最も相応しいシナリオの形を一から自力のアイディアで作り上げていきます。

そういう自分の頑固な主義主張があるので世の中のいかなる優れた作品やセオリーも参考にはしてもそれに頼ることは一切しません。

その頑固一徹さが自分自身の作品に他の誰かの手による作品にとって代わられようのない完璧なオリジナリティを持たせることが出来ると考えています。

安易に優れた成功法の解決策を外部の知識に求めたりはしません。

そういう既成品の知識で頭のなかがいっぱいになるくらいなら、いっそのことまるっきり無知のまま書き進めたほうが下手でも独特な味のある小説が書けると思います。

とにかく自分にはどうにもならないほど頑固なこだわりがあって自分自身でそれと闘い常に苦悶を強いられているというおおよそ賢くないことばかり繰り返しています。

とにかくバカでもスカポンちんでもなんでもいいから早く自分の作品の形を完成させたいです。

それでも参考にしているのは先に記事で取り上げた映画「駅STATION」の構成です。

駅STATIONの構成はとても小説的で映像よりもそのまま小説にしたらとてもわかり易い優れた構成だと思います。

それを少し意識していて自分なりに現代の男女の人間観に沿った形に置き換えていこうと思案を重ねてきました。

もちろんオリジナルの原型は全く別個に考えていたものなので出来上がった作品は似ても似つかない全く印象の異なる作品になります。

そこで困っていることは現代の価値観に沿う人間観と言っても、今まさにその現代の人間観が古く腐食し賞味期限切れを超えて食えるかどうかというところまでキテいることです。

食えなくなった食い物は残飯として捨てられるのが道理です。

自分としては食えなくなるところはもちろん残された食えるところまで一気に始末して全く新鮮な風味を味わえる作品になるまで磨き上げようと考えています。

それはまったく一筋縄ではいかない孤独な頭脳作業の連続でいつも神経がヒリヒリしてきます。

こう心境を吐露しながら書きなぐっていくうちにちょっとだけ頭のなかがスッキリしてきたので何かいい端緒が思いつきそうです。

理想は物語が立体的に立ち上がるような構成のシナリオです。

作品を最後まで読み終えた時にその人の脳内に主人公たちの人生がはっきり生きている様子で存在していることです。

自分にはそれを書き上げる力があると確信しています。

あとはバカな自分の意識をもっと締めあげて少しでも賢くなるように手懐けるだけです。



PS.)
今まで普通すぎて誰も気にかけなかった自分にとっても他人にとっても互いに人間ならば絶対に変わりようのない人間としての絶対条件が変化し場合によっては崩れさろうとさえしています。これは社会経済における全体的な変化よりもはるかに大きな一人一人の個人の内面で起きている得体のしれない巨大な変化です。これまで人それぞれ個性が異なり一人としてこの地球上で全く同じ性質の人間は存在しないと言われてきました。それは一方で人間ならば基本的に変わりようのない共通した土台に根ざしているという共通の認識に基づいてという但し書きがありました。この共通の認識と土台の存在が薄らいでいます。同じ物事や性質でも人によって受け止め方が異なる以上にその物事の性質まで人によって異なってしまうという結果が徐々に見られ始めています。古い年代の意識と価値観はまさにこの確固とした共通の認識を土台とした共感意識によって成り立っていました。この人間関係において古くから馴染みのある誰しもが何も意図しなくとも容易に共感に基づいて互いに認識し合える気軽な関係が消失しようとしています。神様はあえて人間同士を簡単に理解し合えないようにしたのかもしれません。創作作品を通した書き手と読み手の関係も同様の変化にさらされていると考えています。誰しもが感動し共感しあえるようなお決まりの安直なパターンは廃れていくでしょう。人間は人によって根本的な成り立ちが最初から異なっていてその原点まで遡らなければ相手も自分自身のことさえも正確に認識することが覚束なくなるということを誰しもが肝に銘じなければならない時代になりつつあります。善悪の基準でさえ人によって根本的に異なることが昨今の世の中における人々の善行悪行両極端な行為に如実に現れています。そのうち万人に通用する善悪の基準や道徳観まで廃れて完全に消失してしまうかもしれません。全てはその人の内面に拡がる意識の中の物差しだけが唯一の基準となるような気がします。創作においてもその点をしっかり踏まえて対応できる新たな人間観に基づいた関係性を追求していきます。共通の基準が通用しなくなればなるほど人々の意識の分離は進み容易に分かり合えなくる一方で無理に昔からの古い基準を持ちだして一方が他方に向かって無理やり当てはめようとすれば摩擦が生じて望まぬ険悪な事態を招くようになります。自分がそうなら無条件に相手も同じようにそうだろうという同等意識も過去のものになりつつあります。自分自身はどこまで行っても自分自身でしか無く同じように相手も相手でしかないのです。自分と他人の間には大きな価値観の溝があるのが当たり前なのです。その大きな違いを認め合って人と人どうしの和を保つために今まで以上に高度で深い認識力が他人に対しても自分に対してもお互いに要求されるようになります。その高度な認識力とは物事の因果関係を正確に理解し誰にとっても明確な言葉で説明できるようになることです。自分自身をありのままに認識できる能力がどのような性質の他人との関係でも一貫して理解出来るようになる一助になります。
 
 




他人の善意に期待しない生き方。

世の中の善意にも期待しない生き方。

別に世の中も他人も信じるなとかそんな極端に寂しいことを言おうというわけではありません。

世の中や人に善意を期待しても、たとえその人に善意がしっかりと備わっていたとしても、その期待に応える余裕を誰しもが持っているわけではない世の中になりました。
 
期待感に期待して生きることが苦労の継続の始まりという意外な事実があります。

期待していたことに裏切られた時の落胆の精神的ダメージはそれなりに大きいものです。

期待し続けていたことがいつまでも期待通りに実現しない状況が延々と続く状態も辛いものです。

人生の真ん中に期待感を据えて生きると間違いなく損をします。

期待したことが期待どおりに叶うのは3割未満だと思っていたほうが賢明です。

たった1割でも叶えば感謝すべきことです。

ただ期待するよりも自分の意志と力で実行できることに期待しましょう。

見返りを期待することはなおさら期待しない方がいいです。

これだけ苦労しているんだからそれ以上に報われたいという意識も期待感で生きることの変形です。

自分が人にこれだけ尽くしているんだからという意識も危険です。

その人はそっとあなたから離れていきます。

人にこれだけ期待されているんだからもっと一所懸命に頑張らなければという意識はもっと危険です。

そんな人のよくてデキるあなたに期待感だけで生きている烏合の衆どもが寄ってたかってあなたに期待ばかり寄せて重荷を背負わせようとします。

その勢いに全く手加減はありません。
 
あなたの耐久限度いっぱいまで頑張らせてもまだまだもっともっと評価という見返りをチラつかせながら新たな重荷と期待を寄せてきます。

他人から良く思われたい、評価されたい、認められたいという願望と欲求の期待感がそういう状況を自ら引き寄せます。
 
もう限界だからそろそろ止めにしたいと態度で示しても理解と助けを求めて周囲に期待しても無駄です。

そんなあなたのSOSは徹底的に無視されるのがオチです。

もう我慢の限界を越えたあなたが勇気を振り絞って言葉と態度で直接示したその瞬間からあなたは自分勝手な悪者にみなされてしまいます。

あんなにみんなから必要とされているのになに一人で自分勝手なこと言ってるの、他のみんなだってあなた以上に苦労してるのに!

大して苦労していない人のほうが全員の苦労を代表して雄弁に語るところが非情に滑稽です。

そうやってあなたが倒れるその時まで最大限の負担をあなたに背負わせようとするかもしれません。

そうやって自分の背負う負担と苦労を最小限に節約するのが人間です。

自分が期待していない何かと向きあわされるのは誰しもが嫌なものです。

真面目な苦労が報われるとは限らないのです。
 
人がよくてもデキない人は徹底的に八つ当たりのサンドバックにされてイジメられることもあります。

お前のせいで仕事がはかどらないからこっちは迷惑してんだよ、わかってんのかゴルアっ!

そんな言い草が大体の決まり文句です。

デキないあなたが犠牲になることで大勢の人たちのストレスを発散することに貢献できます。

よりタチが悪ければ言葉の暴力だけでなく実際に殴られます。

もしそうなったら泣き寝入りしないで然るべき行動に打って出て自分自身を守ってください。

イジメる人間にイジメないで仲良くして欲しいと期待したらますますイジメられます。

イジメる人間は人が良くてもすぐに恐れや怒りにとらわれて耐えることの出来ない者を嗅ぎ分ける嗅覚を持っています。

予め餌食にされる人の条件があるものなのです。

予備知識として知っておくだけで自分や大事な人の身を守ることができます。

他人の惨めさを見下ろすことで自分の惨めさから逃げられると期待する人たちが大勢います。

残念なことですがこれが何時も人の世の現実です。

期待感は人間の内側に仕込まれたまるで吸血鬼のようです。

酷い目に合わないためにあなたの意識の中から余計な期待感と依存心を全て消し去ってください。

そして自分の能力をもっと磨いてください。

意識を鍛えてもっと強くなってください。

見返してやろうなんて下らない復讐心にとらわれないでください。

恨み憎しみが強ければその分だけ引き戻されてしまいます。

憎しみや恨みもその悔しさを誰かに分かって欲しいという期待感の裏返しです。

もっと自分の生きる道に集中して自由になってください。

同じような人間にはなるまいと歯を櫛歯って耐えて頑張ったあなたを見ている誰かが必ずいます。

その苦労が報われるために今少し以上の耐え抜く力が必要です。

恨みや憎しみにとらわれない生き方で最後まで耐えぬいた者が真の勝利者です。

これが「PT」の主人公の一人に歩んでもらう大まかな道筋の原型です。

まだ具体的に煮詰めなければならない作業が山ほど控えていますが必ず書き上げます。

これからの時代に向けて少しでも意義のある小説を書ければと思います。
 
期待感は依存心の裏返しでありエゴの一種でもあります。

行き過ぎた期待感にまみれきった人間の群が世界をこれほどまで汚しました。

見た目だけ知的で裏側にドロドロしたものを抱え込んだ今の世の中に期待ばかりしていても時間とエネルギーとなけなしのお金を吸われつくされるだけです。

そして最後は精神と健康まで害されます。

自分の中の他人と外の世界に対する過剰な期待感と幼い依存心が真の敵です。

外部の存在に過剰な期待感を抱かずとも生きられる術を身につけるための弛まぬ努力と人生のあらゆる苦労と負担に対して適切に向き合い続ける知恵を学ぶ必要があります。

幼い期待感はそのまま放置していると年齢を重ねるごとに少しづつ重荷に変わっていきます。

幼い期待感に縛られたまま歳だけとると自然な老いに対抗できる能力を養うことができません。

文句を言うだけでなお期待ばかりしている人たちは誰からも何も期待されないまま放置されます。

詐欺師から電話越しに愛する親族の危機を囁かれた時、そのでっち上げられた危機を次の詐欺師にすぐ解消してもらうことを期待した瞬間その術中に嵌ります。

一番助けが必要な時に期待しても誰も助けてくれない誰も助けられない時代になりました。

寂しさと孤独から救われたいと期待したら悪魔に毒を盛られて殺されることさえあります。

その悪魔でさえも残された遺産というお目当てに自らの幸福を期待していました。

それもこれも人々が無垢な期待感ばかりを積み上げ続けた結果なのかまでは分かりません。

数億の期待感が国も人も全て疲弊させて行きます。

期待感にどれだけ資金や労力を投じても一時だけ大勢で大きな夢を見られるだけです。

それを際限なくやり続けたら最後はどうなるかは言わずもがなです。
 
世の中のあらゆる期待感で成り立つ物事に期待し過ぎないことが賢明です。
 
オリンピックに期待しても、スポーツに期待しても、テレビに期待しても、芸能人に期待しても、政治に期待しても、経済に期待しても、企業に期待しても、科学に期待しても、新幹線に期待しても、宗教に期待しても、オカルトに期待しても、ネットに期待しても、それらは全て期待感の他の何者にもなりえません。
 
それらに期待するのではなくそれら全てから何かを学び取ることに意味と価値があります。
 
世の中と人生に期待することに倦んで恨みばかりを抱く孤独な時間が最後の学びの機会にならないことを祈ります。

人生は自分自身で意図して一所懸命に継続したことだけが実現するというシンプルな法則で貫徹されています。

余計な期待感が実現しない主な要因がそこにあります。

あなたは何かに一生懸命ですか。

それとも何かに一生懸命に期待していますか。
 
お金ですか。

お金を得ることで人生の充足感や心からの安心感までも得られると期待していませんか。

仕事ですか
 
どんな仕事もつらいものですが仕事を通して世界と人生を変えていくことができます。

それが仕事のあるべき姿です。

仕事のつらさを恨む気持ちがあると仕事の醍醐味を感じとることができなくなります。
 
勉強ですか。

勉強は人生の土台を築く作業です。

自分の意思で進んで取り組むことではじめて意味のあるものになります。

イヤイヤやらされているうちは何も身につきません。

楽しいことですか。

楽しい時間は一瞬で過ぎていきます。

好きなことですか。

好きなだけでは他の誰かに必要とされません。
 
努力することですか。

努力することで結果と見返りまで期待していませんか。

愛することですか。

愛されることまで期待していませんか。

祈ることですか。

祈ることで何かを期待できますか。

神様ですか。

神様に期待したら何かいいことがありましたか。

宝くじですか。

もしも3億円当たったら何を買いますか。

友達ですか。

友達に期待されたことにあなたは応えていますか。

恋人ですか。

恋人が期待するあなたに成りきれますか。

結婚ですか。

何を期待すべきかよく分かりません。

子供ですか。

子供の意識の中に親の期待に応えなければという義務感と劣等感が生じます。

親ですか。

期待する以上に期待されます。

ジジババですか。

お年玉をくれるでしょう。

世の中の進歩ですか。

あなた自身が進歩成長しなければ世の中の進歩に一人取り残されるでしょう。

未来ですか。

未来のあなたもそうやって期待ばかりしているかもしれません。

何かに期待することに期待し続けますか。

それとも世の中にも他人や自分にさえも一切期待などしないで生き通しますか。

どんなことにも期待しない生き方に期待するのが一番です。




 



9月に入ってから夏を思わせるような暑い日差しが幾日か続いていましたが、今日になって一転、久しぶりの曇天+雨が滴る天気となっています。

おまけに風が強く肌寒い気温で早くも秋の気配が到来といった感じです。

先月末は久方ぶりの鉄活動を堪能しましたが、今月に入ってからは本来の小説執筆に向けての創作活動に意識を切り替えている最中です。

秋の季節は暑くもなく寒すぎることもなく、またアレルギーや突然の体調不良に襲われることもないので自分的にはとてもありがたい季節です。

そんな快適な秋のうちに創作活動を軌道に乗せて、自分が思い描いたとおりの作業がはかどってほしいと思っています。

ところが現実はそんなにうまくことが運ぶとは限らないものです。

自分としてはいきなりハイレベルな作品を仕上げようとは思っていませんが、それでも今までにあった無数のパターンやテーマの焼き直しコピーではなく、この先の時代に受け入れられる新しい要素を兼ね備えた作品に仕上げようというやや高い目標を掲げています。

それは今まで誰にも読まれたことのない斬新な作風ということではなく、ある意味前言と矛盾しますが、一般的に小説を通して描かれる基本的な人間模様に忠実なストーリーを描きながら、その見る角度=捉え方一つを変えるだけで全く新しい人間像を浮かび上がらせるという最も野心的な魂胆かもしれないです。

そういうわけで、自分のしがない脳みその中で連日24時間コンビニ状態?つまり寝ている最中さえも何がしかのアイディアを廻らせながら、偶然テレビや新聞、ネットで目にした情報までも小説のヒントになるかと無意識のうちにアンテナを張っている始末です。

そういう張り詰めた神経で居続けることが半ば当たり前となってしまっていますから、当然そいう習慣が身体に良い訳はなく、そういった無意識から発するストレスがただでさえ悪い自分の体調をさらに追い込んでいるという悪循環はだいぶ前から自覚しています。

最近では、あまりにも張り詰めた気持ちで考えすぎても決して作業ははかどらないことを自覚して、現時点であまり意味のなさそうな話題はスルーしたり、頭のなかでずっと考え続けても答えが出ない問題はあえて忘れるようにして自然な流れに任せるようにしています。

これまで撮り貯めたならぬ創り貯めた小説の原案の中からたった一作でもいいから、自分自身で心底納得のいく出来栄えの小説を書き上げたいというのが偽らざる本心ですが、一方で焦って完成を急いではならないという自戒も利かせています。

今は時代の意識が静かに移り変わっている時期ですから作品ごとのテーマの捉え方には慎重に吟味を重ねる必要があります。

撮影でいえば全く同じ被写体を同じ場所、同じ時刻で撮っても、どの部分に重点を置いて主題を表現するかを変えれば全く違った趣きの作品になるのと同じことです。

テーマや人間性の捉え方がぼやけたまま書き進めて、いったい何が言いたかった作品なのかわからないままで終わってしまい、結果的にボツにするか全部最初から書き直すしかない状況は出来れば避けたいものです。

ここまで言ってみると何だか行き詰まり感ばかりのようですが、それでも今取り組んでいる作品に関してはどうにか作品の核となる端緒だけは見つけつつあります。

ようは自分の内側から湧き出るイメージと方向性を信頼し集中し続けることが今の自分に最も必要なことだと思います。


自分の作品とは直接的には関係ありませんが、表題に掲げたライ麦畑とはかの有名な「ライ麦畑でつかまえて」というアメリカ文学を代表する小説作品のことです。

有名すぎて今さら説明の必要もないかもしれませんが一応自分が知っている範囲でさらっと書いておきます。

1951年にJ.D.サリンジャー氏によって発表されてからベトナム反戦時代へ至る若者たちに多大な影響を与え続け、以後21世紀の今日に至るまで全世界で読み継がれている大ベストセラー小説です。

高校を3度退学になった落ちこぼれのホールデン少年を主人公とした全編一人語りの放浪記で、時に鋭い批判の矛先を当時の大人社会に向けたり、酒やドラッグや異性など誰もが青年期に通過する暗い側面を直に取り扱ったことで社会問題を巻き起こした作品です。

今回、久しぶりに村上春樹さん訳の新刊を手元においていますが、少しだけ読み返してみても軽妙で砕けた語り口が新鮮でかっこいいですね。

世界的な名作だということで一読して置かなければという動機で読んだのが最初でしたが、実際に読んでみると舞台は第二次大戦後のアメリカのハイスクールですが、その人間性の描写は古さをいささかも感じさせないうえに、まるで昨日の自分がそうであったかのような錯覚とそれが変に生々しいリアルな感触だったことが今でも強く印象に残っています。


ライ麦畑が最も熱烈に愛読されていた当時、日本では団塊の世代のバイブルだったとして今ではみなされていますが、その主題はほとんどタイムレスで、いつの時代も十代の若者が大人という不可解な存在にぶつかりながら自らもそこに同化していくという大きな矛盾を孕んだ避けられない過程の中で再発見され続ける決して古くはならないテーマです。


自分がこの作品を読んで最後に感じたことは「えっ、ここで終わりなの?」といった唐突な終わり方に対する物足りなさと、そこからじわりと湧いてくる物語の続きは一体どうなるのかという疑問符、すなわちホールデンくんがその後どういった道筋をたどり生きていったのかといういつまでも満たされることのない好奇心でした。


ここでなぜライ麦畑を再び手にとってみようと思い立ったのかというと、はからずも自分がこれから書こうとしている小さな小説が目指すテーマが、あたかもこの作品の主人公ホールデン少年が向き合った青春時代の暗闘の先にある未来につながっているように思えたからです。

比較的最近、ライ麦畑の続編を原作者に無許可で出版したとして訴訟になったという出来事があったように、実際にこのライ麦畑を読んで少なからぬ影響を受けた人が、今度は書く側に立場を変えるとそのメッセージの続きを綴りたくなるという誘惑があるのかもしれません。

自分としてもどうやらそこは同じようですが、ライ麦畑を読んだ続きの人生に一体何を据えてみようかと問うと、自己批判や社会批判ばかりではなく真に自分自身を受け入れて肯定できる大人になれたらイイねという感じのお話になるでしょう。

創作の秋が深まるに連れて自分の中のアイディアや作品のイメージが熟して実ることを期待しています。

いずれにしても、健康状態に十分留意しながら創作に対する集中力とモチベーションが途切れないよう心がけたいと思っています。


創作活動の途中経過はいずれまたこの場所で、

ごきげんよう、さようなら。



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鈍行翼
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1982/05/07
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エア作家/にわか写真家
趣味:
鉄道と写真ともろもろ・・・
自己紹介:
バセドウ病罹患者(勝手に寛解中)。

発病から10年以上経ちましたがようやく沈静化へ向かいつつある今日この頃。同時に人生の在り方を模索し続け小説という創作物に結晶化することを日々の生業とする。写真撮影は豊かな創造性とニュアンスの源泉です。

写真撮影の友:PENTAX K10Dと愉快なオールドレンズたち。
コンパクトはRICOH GX-8、R10、ケータイカメラCA006
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